八月⑨ シキナ先生のヴァンパイア講座
リベンジを翌日に控えた八月四日、火曜日。
時刻は十九時半を少し回ったところだ。
ラストリゾートのビルの屋上で僕は人を待っていた。
いや──違うか。
人ではなく、ヴァンパイアを待っていたと言うべきか。
「はっつきー、おっまたせー!」
ほどなくして階段室の扉が開き、シキナが姿を現す。花柄のキャミワンピにゆるTを合わせた可愛らしい格好だ。漆黒の長い髪は後ろで一つにまとめている。
軽やかな足取りで僕の元まで来ると、満面の笑みを浮かべる。
「我勇じゃなくて、私に用があるなんてめずらしいね」
「シキナはさ……静と仲がいいから、ちゃんと伝えとかないとなって思ってさ」
「ん? なになに?」
興味津々といった顔で僕に続きを促す。
「あっと、その前に……。ちゃんとお礼を言ってなかったよね。……僕の命をつなぎ止めてくれてありがとう」
僕は自分の胸に手を当てて、心臓の鼓動を感じながら感謝を述べる。
「だって、まだおごってもらってなかったしね!」
「そんな理由かよ!?」
「ふふっ……ウソウソ。私、そういう畏まったの、好きじゃないからさ。お礼は受け付けておりません!」
「そっか。じゃあ、おごる回数が増えたってことで」
「いぇい!」
片手を上げて喜びを表すシキナ。おごってもらう行為そのものには抵抗がないようだ。
「じゃあ、本題。僕は明日、また悪魔と戦う。静の願いを叶える。でもそれは、シキナの望むモノじゃないんだよな?」
「そうだね。初めて会った時にも言ったよね。私達、真逆の関係だねって」
「うん」
「叶えるために行動を起こすはっつきーと、叶えないために何もしない私達。真逆だけどさ……静ちゃんを想う気持ちは、たぶんみんな同じだと思うんだ」
「…………」
「でも、約束だから、邪魔はしないよ」
「どういう経緯での約束かは知らないけれど……偶然の事故なら問題ないよな?」
「んん?」
シキナは首を傾げる。
「今からさ──明日のための準備運動をしたいんだ」
「準備運動?」
「うん。戦い方の練習っていう口実。僕を止める最後の機会だよ。僕を大怪我させれば、明日は何事もなく終わる」
僕の言葉に、カラーコンタクトで覆われているはずのシキナの瞳が怪しい輝きを帯び始める。ヴァンパイアの血の輝きが増し、あふれ出している。
「ああ、そういう……。面白そう!」
「前は一方的にやられたけどさ。今日はスーツを持っているのは僕だけだ」
「フフフっ」
「但し、死なない程度に頼む。僕は絶対に死ぬわけにはいかないから」
僕は右手のブレスレットを操作してエッジの姿に変身する。
「いいの? 死なない程度の加減でいいんだ?」
無邪気な笑顔のまま、シキナは腰を少し落として戦闘態勢に入る。
僕は数歩下がって距離を取りながら無言でうなずいた。
「フフ。いいんだね。よーし! それじゃあ、遠慮なくいっちゃうよー!」
その言葉と同時にシキナが猛烈な勢いで突っ込んできた。せっかく調整した間合いが一瞬でゼロとなり、シキナの右ストレートが僕の顔を目掛けて放たれる。
僕はその右ストレートを紙一重で躱し、シキナの腹部目掛けて掌底を繰り出す。しかし、僕の右手はシキナに届く前に簡単に手で払いのけられてしまった。
なんてスピードだよ……と、思わず苦笑いが出てしまう。
僕はわざと大きな軌道で蹴りを出し、シキナを引かせて間合いを調整する。
正直、予想以上の強さだ。見た目の美しさも相まって、甘く見ていた点があったのは否めない。我勇さんが攻撃をくらうのもうなずける。
僕は我勇さんと初めて会った日に教えてもらった戦い方の基礎を思い出す。
相手の攻撃がいくら早かろうと、最初の動作さえ見逃さなければ対応できる、そう教えられた。
見るのは手の先ではなく、腕の付け根。足先ではなく、足の付け根。
その見極めに慣れれば、次は体の重心移動からでも相手の動きを予測することができるようになる。さらに突き詰めていけば、眼球の動きだけで何を狙っているのかも分かるそうな。
さすがに今の僕はその域には達していない。腕と足の付け根から動きを察知するのがやっとだ。それでも、そのおかげでなんとかシキナの最初の攻撃は躱すことが出来た。
「ふふっ」
ふいにシキナが笑う。
「どうしたんだ?」
「我勇の教えのおかげだけで躱せたって思ってる?」
「…………」
「私達ヴァンパイアは、月の満ち欠けに強い影響を受けているの。明日は満月……私達にとって、もっとも血が活性化する日。その血が、はっつきーの中にも少し入っている。体の変化を知るいい機会だね」
そういうもの……か。左目の色素が無くなり、暗闇の中でもはっきりと見えるようになった──その程度の認識しか無かった。力や反応速度も上がっているという事だろうか。
「満月が近づくと、血が騒ぐ感じを抑えるのが大変なの。だから……本当に死なない程度にしか加減しないよ!」
シキナは重心を低くして突っ込んできた。下半身が見えないから移動に関する行動が予測できない。僕も重心を下げ、シキナの攻撃に備える。
僕の懐に潜り込んだシキナは両手を交差させながら突き上げてくる。僕はその攻撃をのけぞるようにしてギリギリで避けようとするが、かわしきれず頭を掴まれてしまった。
シキナは僕の頭を基点にして回転しながら跳び上がり、僕の頭の上で器用に逆立ちをする。
「…………!?」
「まず一回……死んだよ。あえて半回転だけで済ませたけど、一回転半していたら、はっつきーの首はねじ切れていたよ!」
僕の頭上で逆立ちしたままシキナは静かな口調で言う。
「パンチやキックだけじゃなくって、関節技にも注意しないとね!」
「そういうことなら遠慮なく回ってみなよ」
僕は挑発気味に言う。静の作ったスーツの力を僕は信じる。ねじ切れるものなら、やってみろ。
「ふふふっ。そうだね。今のは生身だった時の話に限定しないと、か。確かに、びくともしないや」
僕はシキナの手を掴むために自身の頭上に手を伸ばすが、シキナは手の力だけでさらに上空に向かって跳んだ。
すぐに視線を上げてシキナの行方を目で追いかけるが、どこにも見あたらない。
背後でカカンッと足音のようなものが聞こえ、とっさに振り返る。
「…………」
誰もいない。
また別の位置から足音。
僕は何度も音の位置を確認し、何も無い安堵とシキナを見失った不安の狭間で次第に冷静さを失っていった。
四度目に音が鳴った時、その方向に走った。なにかヒントがあってくれと願いながら。
そんな願いも虚しく、シキナの姿を確認する事は出来なかった。
どこだ? どこにいる? この音はなんだ?
ふと足元に目を向ける。そこには、小さな爪のかけらのようなものが二個落ちていた。
こんなビルの屋上に爪?
そんな疑問が浮かんだ時、背後から強い殺気を感じた。振り向くと、そこには──
「ばぁ!」
目の前にシキナが舞い降り、そんな陽気な声を出す。着地の寸前に体を素早く回転させ、勢いを増した蹴りが僕を襲う。僕は左腕でガードするが、その威力は凄まじく、数メートルほど吹き飛ばされる。
「ほんと、頑丈だね。でも……やっぱり我勇を相手にしている時みたいには楽しめないなぁ」
シキナは心底残念そうにつぶやいた。
「役不足で悪かったな」
「役不足とかそういうんじゃないの」
「…………?」
「手加減をしてくる相手に対して、本気になれるはずないじゃない?」
ああ……気づかれていたか。僕が攻撃を当てる気がなかった事に。
「やめやめ! おーわりっ」
「いいのかよ……? 僕を止める最後のチャンスだぞ?」
「一度延期になったところでさ……意味なんてないのよ。ちょっとじゃれてみたかっただけだし」
「…………」
「殺してもいいっていうなら、遠慮なく殺っちゃうけど!」
「スーツを着た僕を相手にそんなこと出来るのかよ?」
「試してみる?」
シキナはおもむろに僕に近づいてきて、僕の右手を手に取る。
「…………?」
シキナはブレスレットの液晶部分を三回押した。
「あ……」
僕の変身は解除され、生身の状態になる。
「ふふっ……操作方法を知っている者からすれば、ホントに簡単すぎる弱点だよ」
シキナは前に静からブレスレットを借りていた。その際、エッジの姿になって僕の凶行を止めてくれた。
……知っていて当然か。
「ほんと、不用心。せっかくの私の心臓にも無関心ぽいし。自分が手に入れたものにもっと興味持ちなさいよ」
「興味って……心臓をか? 最近は痛みも無いし問題ないと思うぞ?」
「自分が人間じゃない可能性を考えなよってこと! せっかくだから、ヴァンパイアがどういう存在か、講義してあげましょう!」
「それは僕が知る必要あるのか?」
「んー、もう! ホントに自覚が無いんだから! いい? はっつきーはもう純粋な人間じゃないんだよ」
「え……でも、太陽の光をあびても大丈夫だったぞ?」
「それはもちろん、純粋なヴァンパイアでも無いからでしょ。なんにしても中途半端なのよ」
「…………」
「ヴァンパイアって聞くと、太陽が苦手とかその程度の認識しかないんじゃない?」
「うん、まあ……そうだな」
確かに、僕は知らない。実在している事自体、正直に言えばまだ半信半疑なほどだ。
「じゃあ、まずはそこから。私達の血はどんな傷も瞬時に治してくれる。ゆえに、不死と言われている。けれど、太陽の光だけは駄目なの。光を浴びると血が沸騰し、蒸発して消えてしまう。あくまでも、夜限定の不死なわけ」
「蒸発って、どういう原理だ……?」
「知らない」
知らないのかよ!?
「そのへんは、僕は大丈夫だったんだろ? 実際、昼間外に出ても平気だったし」
「我勇も言ってたけど、都合のいい体だよね。おそらく昼の間ははっつきーの人間としての血を隠れ蓑にしてしのいでいるんじゃないかな。さすが私の血だけあって、賢いわ!」
自画自賛するシキナ。どうつっこんでいいのやら。
「で、夜になると、表に出てくる。ヴァンパイアに近い存在になる。その加減はもう少し経過を見る必要があるんだけどね」
「経過?」
「そ。私達ヴァンパイアは、日本語では吸血鬼って呼ばれているでしょ? 何故だか分かる?」
「ああ、そういえばそんな呼ばれ方だったか……血を吸うから?」
「そういうこと」
「シキナも……誰かの血を吸ったりしてるのか?」
「んーん」
シキナは首を振って否定する。
「別に血を吸う必要はないってことか?」
「必要だよ。個体によって差があるけど、私の場合は三週間に一度、耐えることの出来ない喉の渇きがやってくる。血を飲まないとおさまらない乾きが」
「シキナはそれを我慢しているってこと?」
「我慢なんて出来ないわ」
「ん? でも、シキナは血を吸ったこと無いんだよな?」
「私はおじいさまから吸血行為を禁止されているからね。そのかわり、別の方法で渇きを満たしているの」
「どういう意味だ?」
「私の場合は人工血液を飲んでるの。別に、人から直接血を吸って飲まないといけないって訳じゃないからね。輸血用の本物の血でもいいし」
「へぇ……そういうもんか。今って人工血液なんてのがあるんだな。それで、もしかすると僕も血が欲しくなる可能性がある……ってこと?」
「まだ分かんない。でも、私の血がはっつきーの体内に残っている以上、可能性はゼロじゃない。だから、一ヶ月は様子を見る必要がある。少しでもおかしいなって思うことがあったら、早めに言ってね」
「ん……分かった」
「あと、どこまでヴァンパイアの特性的なものがあるのか……隠世の魂を見ることが出来たり、明かりのない暗闇でもはっきり見えたり……」
「あっ!」
そこで思わず声を上げてしまう。
「暗くても色がちゃんと分かったり……最近おかしいなって思ってたけど、その辺が原因だったのか」
「やっぱりそういう部分は出ちゃってるか……それってたぶん、左目だけだよね?」
僕は目を交互にふさいで見え方の違いを確認する。
「うん。見え方が左右で全然違うな」
「まあ、よく見える分には不都合はないだろうし、いっか」
「その前の、隠世の魂を見ることが出来たりうんぬんは何のことだ?」
「それは……満月の日限定だから、分かるのは明日になってからだね。ようは、死んだ人の魂が見えるってこと」
「幽霊が見える体質になったみたいな感じか?」
「ちょーーーう簡単に言えばそうなんだけど、ようは満月の日は隠世との距離が物理的に縮まるから、隠世自体が透けて見えるのよね」
へぇ……、としか感想を述べようが無い。満月限定なら明日になってからじゃないと分からないわけだしな。ま、見えるだけなら問題無いだろう。
「今の段階で知っておいた方がいい事って、そんなところかな……さっき戦った感じだと、力にはあまり影響してなさそうだったしなぁ」
シキナは腕を組んでしばらく考え込み、ひとりで納得する。
「うん。よしとしよう」
「ほんとにいいのか? その……静のこ──」
「あー、もう、うっさい!」
めずらしくシキナがイライラする素振りを見せる。
シキナはひとつ深呼吸をすると、僕に背を向けて続ける。
「ま……なんにしてもさ──明日、がんばりなよ。きっと──静ちゃんは喜ぶはずだよ」
「応援……してくれるんだ?」
「手は貸さないけどね」
「応援だけで十分だよ」
我勇さんからは、間違っていないと言ってもらえた。シキナには応援してもらえた。
もう迷いは無い。
明日──決着をつける。今あれこれ考えなくても、全てが終われば分かるだろう。




