unknown
浮遊感がある。
地に足がついていない──そんな漠然とした感覚。
目を開けて辺りを見渡してみる。
赤い……朱色に近い、朱い靄が僕の視界を覆っている。
ふと下に視線を落とすと、そこには僕の姿があった。しかし、今の僕ではない。六年前の僕だ。
顔に白い布を被せられた母が横たわるすぐ横で、泣き疲れて眠っている僕。
線香の火が消えかかっている。
扉が開き、親父が部屋に入ってきた。
親父は僕に布団を被せ、新しい線香に火をつける。
母の近くで正座したまま、しばらくじっとしている。
そんな親父の肩が、少しずつ震え出す。目には涙が溢れ、顔を歪ませて泣いている。
それは──人前どころか、息子の僕にさえ一度も見せたことのない姿だった。
事件当日でさえも顔色ひとつ変えず、事務的に母の死を受け入れていたように見えた親父。そんな親父を僕は憎んだ。母を助けてくれなかった親父を恨んだ。
その親父が……泣いている……?
こんなことが現実であるものか。これは夢だ。僕の夢。こんな親父であってほしかった……そんな希望を夢として見ているだけだ。
現実から目を逸らさないで──刃月。
聞き覚えのある懐かしい声に僕の心が一瞬震える。
「母さん!?」
ママが選んだ夫よ……あの人を……信じ……あげ……て──
声が遠のいていく。
「母さん! どこにいるの!?」
辺りを見渡しながら叫んでも、答えは返ってこなかった。
「いまさら……こんなのを見せられて、どうしろっていうのさ……」
今度は誰に言うでもなく独りごちる。
ドンッ!
突然頭に鳴り響く重たい轟音。反射的に音の位置を探してしまう。
なんだ?
そう思った瞬間、景色が急速に変化していく。
朱い霧に包まれた何もない場所。
目を凝らすと、少しずつ視界が開けてきた。
最初に見えてきたのは、静の姿だった。
静は何かを叫びながら、ぬかるんだ地面に横たわるエッジの上半身を抱きかかえていた。エッジの胸には大きな穴が空いていて、血が止めどなく溢れ出ている。
なにがどうなっている? なぜ僕が僕を見ているんだ?
再び、ドンッという轟音がした。音の先に目を向けると、見えたのは我勇さんの背中だった。その手には、銃のような物を握っている。刑事ドラマでよく見るような物とは違い、ゴツくて大きい。銃と呼んでいいものなのだろうか。
「動くなって言ったよなぁ? 次は無ぇぞ」
『なぜじゃ……なぜ妾と同じ時間にいる……!?』
我勇さんの奥に目を向けると、そこには白い素肌に白い翼をもつ異形の存在がいた。
僕はこいつを知っている。静が殺して欲しいと願う相手──悪魔。
…………。
なるほど。少しだけ事態を飲み込めてきた。
どうやら僕は──死んだようだ。どうやって殺されたのかは思い出せないけれど。
「シキナァ、何してる! 早くやらねぇか!」
我勇さんが叫ぶ。シキナもいるのか?
よく見てみると、倒れている僕と静のすぐ横に立っていた。
「ホントにいいんだね!? どうなっても知らないからね!」
シキナが我勇さんに叫び返し、今度は優しい声で静に語りかける。
「よく聞いて。静ちゃんはスーツの穴を塞ぐ事だけを考えて。大丈夫? 出来るよね?」
「……でも……それだけだと刃月が……刃月の命が消えていく……!」
「プログラム出来るのは静ちゃんだけなの。時間がないの……」
「なにを……する気なの!?」
「無茶な方法だけどさ……もうこれしかないみたい」
そう言うと、シキナはおもむろに自らの胸に手を添える。
「スーツの修復を始めて。ただし、私がいいって言うまでは穴を塞がないでね」
静は無言でうなずき、僕の右手のブレスレットから粒子モニターを出してプログラミングを開始した。
『まさか……まさか、あなた様は……しかし、そんな事が……』
悪魔の思考が流れてくる。我勇さんは不敵な笑みを浮かべ、巨大な銃を構え続けている。
「ちっとばかし忙しくなるからよ。今日のところは俺に免じておとなしく帰ってくれねぇかな」
『人の味方をなさるか……なぜじゃ……』
「フフン。人が人の味方をして何が悪い」
『解せぬ……人と交わるなど、許せぬ!』
その時、シキナの呻き声が聞こえた。シキナを見た瞬間、僕は自らの目を疑った。
シキナは自らの胸に手を突き刺し、心臓を抜き出したのだ。シキナは電池でも切れたかのように、心臓を手に持ったまま動かなくなった。
悪魔の形相が変わる。悪鬼のごとく禍々しい額の三つ目の瞳がふいに僕を見る。
『せめて……こやつの魂はもらって行くぞ!』
重い銃声が二回聞こえたあと、我勇さんの舌打ちが聞こえた。
「ちっ……思ったより素早いな……クソが!」
悪魔が僕の顔を目掛けて手を伸ばしてくる。僕の心は恐怖にとらわれ、身動きが出来ずにいた。
死んだあとに、さらなる死があるのだろうか? 肉体を失っても苦痛はあるのだろうか?
どちらにしても、今の僕には抗う術はない。僕は観念し、目を閉じる。
『な……に……! たかが魂の残滓ごときが妾に楯突くというか!』
何が起きたのかと目を開くと、僕の目の前に白い人影が立っていた。その胸には、悪魔の手が突き刺さっていた。
再び重い銃声。
『がはっ……ぐ……ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ』
耳を塞ぎたくなるおぞましい絶叫に僕の心は完全にすくみ上がる。
「まだ抗おうって気なら、気はすすまねぇがトドメをさすぞ」
我勇さんに撃たれたのか、悪魔は白い影から手を抜き、痛みに耐えるように自らの体を大きな翼で覆った。
……大丈夫──
優しい声がした。
目の前の白い影から発せられた声は、聞き違えようもなく──僕の記憶に残っている母の声そのものだった。
「かあ……さん……?」
白い影はゆっくりと振り返る。人の形を崩しながら。
「いやだ……もう……どこにも行かないで……」
あなたの居場所はここじゃない……もう……声は届けられないけれど……生きて──
僕は必死に手を伸ばす。何もない──ただ朱いだけの世界を掴む事しかできなかった。
また僕は……何も出来ず、ただ助けられただけだった。
なぜ僕はこんなにも無力なのだろう。
母の魂が消えた後、体の浮遊感が増した。なにかと繋がっていたような感覚がなくなった。
なんの根拠もないけれど、母がずっと守ってくれていたのかもしれない、そんな風に思えた。
「しず……か……準備は……いい……?」
「……どうぞ!」
「じゃあ……やっちゃうよー……!」
シキナは口から血を流しているにもかかわらず、その顔にはうっすらと笑みが浮かんでいた。そして自らの体から引き抜いた脈打つ心臓を、横たわる僕の胸に一気にねじ込む。
「閉じて! モードを治療最優先に!」
「はい!」
『うぬの力……侮った。妾とて消えるわけにはゆかぬ……今日は引くとしようぞ』
「最初から素直に従っていれば痛い思いをせずにすんだのによ。人の叡智が作り上げた技術、甘く見ないことだ」
『人の叡智だと……? なぜ人につく……』
「ククッ。何度も言わせんな。人だからにきまってんだろ」
『我らに仇なすおつもりか……』
「知るか。さっさとお家に帰んな」
我勇さんが銃口を向けると、悪魔はゆっくりと人の形を失っていき、最後には無惨な姿の鶏の死体だけが残った。
「我勇! 駄目だよ! 目を覚まさない!」
シキナが叫ぶ。
「そうかい」
我勇さんはゆっくりと二人の元に歩いていく。おもむろに立ち止まると、突然空を仰ぎ見て叫ぶ。
「刃月!」
その目は、確かに僕を捉えていた。はっきりと……間違いなく目が合っている。
「いつまでそこにいるつもりだぁ! いつまでも母親に甘えてんじゃねぇよ! てめぇの命くらい、てめぇで面倒みやがれ!」
その瞬間、胸に熱を感じた。その熱は、トクントクンと小さな鼓動を打ち始める。
トクン……トクン……トクン………………。
「さっさと戻ってこいっつってんだろが! ぶっ殺すぞ!」
……ドクン!