七月⑭ 散華(さんげ)の夜
僕は言葉を失い、見とれてしまう。
畏れてしまう。
その──あまりの神々しい姿に。
『ふむ。鳥の身ひとつとは、ケチられたものよの。ギリギリであったぞ』
呼吸をすることさえ忘れるほど魅入られていた僕の脳内に突然声が鳴り響く。
「魚ではなかっただけありがたく思いなさい」
脳内の声に対し、静は声を出して応える。
『フフフ。久しいというに、つれない物言いじゃの。次は羊あたりを所望しようぞ』
「お黙りなさい。次は無いわ」
なんだ……? どうなっている?
目の前にいる翼の生えた女性は、口を開いていない。なのに、言葉が直接脳に入ってくる。
『我々に言葉など不要じゃ』
「えっ……?」
僕は口を開いていない。なのに何故、僕の頭の中だけの疑問に答えが返ってくるんだ?
『ぬしも口を開く必要なぞ無い。思えば伝わる』
「思えば……」
「余計な話はけっこう。確認したい事があります。その為に呼び出したのですから」
静は僕の言葉に割って入り、翼の生えた悪魔──異形の存在を睨みつける。
「私にかけた呪いを解きなさい。イエスかノーか。その返事だけで結構」
『おー、怖い怖い。そんなに睨まないでおくれぇ』
静の剣幕に、悪魔はおどけた調子で背中の大きな翼を使い、体を覆い隠す。
『フフフ。フフフフッ。ノーに決まっておろう? これはぬしへの罰なのだから』
「私が……何をしたと! あなた達のルールを私に押しつけているだけではありませんか!」
『創造主の命に従うのは当然のことであろう?』
「人は……もはやあなたたちの倫理の外でちゃんと生きている! 干渉しないで!」
ここまで感情的になっている静を見るのは初めてだ。
しかし、今気になる言葉が聞こえた。
創造主の命に……そんな事を言った。
「静」
僕の呼びかけに、静は無言のまま振り返る。
「僕に話をさせてくれないか?」
「その必要はないわ」
「冷静になれよ。らしくないぞ」
「らしくない? 私らしいとはなんですか!? どういった行動をすれば私らしいのですか!?」
静が鋭い眼光で僕を見上げる。
『フフフ。話くらい良いではないか。妾もその新しい玩具と戯れたいぞ』
悪魔が翼の間から顔だけを出し、赤い瞳を僕に向ける。
「…………」
静は黙り込んでしまった。
「おい、悪魔」
『んん?? ほほっ、そうか、悪魔か。ハハハッ』
「なぜ笑う?」
『滑稽だからじゃ』
どうにも会話の糸口が掴みにくい。相手の口が動いていないから僕が一方的に喋っているみたいだ。
「あんた、名前とかあるのか?」
『複数の名を持つ。または、名を持たぬとも言えるか』
謎かけのような言葉を返される。
『名などに意味は無い。ぬしは何が望みぞ』
意味は無い……か。何が言いたいのか分からないけど、名乗る気がないということは分かった。それなら本題に入るまでだ。
「静も言っていたけど、呪いってやつを解いてやってくれないか?」
『ぬしは呪いが何か知っておるのかえ?』
「それは……」
聞かされてはいない。ノーコメント、と返されただけだ。
『知らずに協力するとは、健気なものよの。だが本当によいのか? 呪いを解く事がどういう事を招くのか、知らずに願うか?』
「…………」
どういう事を招くのか……それは、僕が知っておくべき事なのだろうか。
「静」
「……なにかしら」
「呪いってなんだ?」
「前にも言ったわよね。同じ答えを返すわ。言わないと助けてくれないのかしら?」
「なぜ秘密にする必要があるんだ?」
「知る必要が無いだけ。さっき言いましたわよね。戯れ言は聞く必要がないと」
「でも……!」
そこで悪魔の声が脳内に割って入ってくる。
『フフフフ。仲間割れとは、余裕じゃのぅ。妾を呼んでタダで済むとは思うておるまいな?』
悪魔の赤い瞳が怪しく輝き出す。
「静! 意地を張ってる場合か!?」
「……知れば、きっとあなたも私への協力を止めるでしょう。我勇のように」
我勇さん……?
今夜の件は我勇さんには言っていない。ラストリゾートは協力しない事を公言していたからあえて連絡をしなかったのだが、話をしておくべきだったのだろうか。
『まあ、よかろう。呪いを解いてやってもよいぞ』
その言葉に、静は目を見開く。それほど意外な事なのだろうか。
『条件次第ではあるが……な』
「条件とはなんですか?」
静が問う。
『ぬしの連れてきた人間を贄として妾に捧げよ』
人間という言葉が指しているのは、おそらく僕だろう。
なんだろう……僕がかわりに呪いを受ければいいとかそういうことだろうか? それとも、贄という言葉通り、命を捧げる必要があるのだろうか。
どちらにしても……だ。
もし僕が犠牲になることで静が救われるというのなら、それは──
「有りだ、などと考えてはいないでしょうね? 刃月」
僕の考えなどお見通しと言わんばかりに静が僕を見つめる。
「それは無いのよ。その選択肢は絶対にありえない」
「何故だよ?」
「何故? 何故ですって!? あなたは自分の命をなんだと思っているのですか!?」
静の目が怒りに燃えていた。
『フフフ……ほんに面白い生き物じゃな、人間は。言葉ひとつでこうも意見を違え、言い争う』
悪魔の小馬鹿にしたような声が音楽のように心地よく頭に鳴り響く。
『そして、自らの命を差し出そうとする。これは健気とかの次元では無い。面白いの、ぬしは。ただ殺すだけではあまりに……惜しい』
「だったら、僕の命なんて要求せずに静の呪いだけ解いてくれよ」
バカにされているように感じたので、僕は憎まれ口を言う。
『フフフ。そうじゃの。やはり前言を撤回しよう』
まさかの譲渡に僕は驚く。僕だって死なずに済むならそれにこしたことはない。
『ぬしを殺し、呪いは解かぬ。さらなる苦悩と後悔を与えるほうが面白そうじゃ』
話が一気に最悪な方向に進んでしまった。こいつを畏れ、神々しいなどと思ってしまった自分が嫌になる。
こいつの思考はあまりにも邪悪で、歪んでいて……静の言うとおり、悪魔そのものじゃないか。
「死ぬのはあなたよ。名も無き者」
静が一歩前に踏み出す。
「分かっているわね、刃月。迷いは捨てなさい」
「たった今捨てたよ」
僕は肩を落とす仕草をしつつ答える。悪魔相手に交渉なんて……いい答えを期待した僕がバカだった。
僕は死なない。僕が死ねば、静の苦しみが増してしまう。そんなこと、させるものか。
「こいつを殺せば、本当に呪いは解けるんだな?」
「ええ」
「わかった」
僕はブレスレットを操作し、右手を刃に変える。
他人がもつ刃には抵抗があるが、自分で持つ分には不思議と抵抗が無い。しかし、実戦で使うのは初めてだ。うまく使いこなせるだろうか。
『ほんに面白い……二人がかりなら勝てると思うてか……フフフ……フフ』
脳内に聞こえる声は笑っていても、実際の顔は無表情で感情を読み取ることは出来ない。
悪魔は大きな翼と共に両手を広げ、妖艶な肢体を晒す。手の先には五本の指があるが、その指先は全て鋭く尖っていた。
静が先に悪魔の方に向かって距離を詰める。このへんは打ち合わせ通りだ。静が悪魔の注意を惹きつけ、その間に隙を見つけて僕が右手の刃で一気にケリを──
『──ケリをつける……か。フフフ』
脳内に悪魔の声が響く。
思考が筒抜けな相手に作戦もクソもないか。
ということは、考えず本能に任せて戦うしかないのか? それはそれで難しそうだ。
「やってみるさ!」
難しいからとあきらめていたら、何も出来やしない。
僕は静の姿を目で追う。
静は悪魔の懐に潜り込むと、右のストレートを悪魔の腹にたたき込む。その姿は、なかなか様になっていて思わず見入ってしまう。我勇さんから特訓でもうけていたのだろうか。
悪魔は大きな白い翼で静の攻撃を受け流し、反撃は全くしていない。なにか狙いがあるのだろうか。
無心でチャンスを窺うのはなかなかに難しい……。だったら、僕も普通に加勢したほうがいいのではないかと思えた。
さて、どのタイミングで攻撃に参加しようか、そんなことを僕は考えていた。
それは──本当に一瞬の出来事だった。
静と戦っていた場所からは十メートルほど離れていたはずなのだが、突然僕の目の前に悪魔が現れた。
能面のように表情の無い顔が僕のすぐ鼻先にいる。その額には、さっきまで存在しなかったみっつめの目が僕を見つめていた。僕は本能的に危険を察知し、一歩後ずさる。その時、また時間が飛んだような時間感覚のズレを感じた。
唐突に胸に激しい痛みを感じ、自分の胸元に目を向けた。
そこには──悪魔の手が突き刺さっていた。
「ぐふっ……!」
痛みに対して反射的に出た苦悶の声は、血を吐き出すただの音にしかならなかった。
正直なところ、痛みは一瞬だった。今は、気管を破壊されたことで呼吸ができなくなった苦しみのほうが辛い。
しかし、どうなっている? 核の攻撃さえも耐えられるスーツじゃなかったのか? なぜスーツが機能しなかったのだろう。
「刃月!」
静の叫び声が遠くに聞こえる。しかし、声の先に顔を向ける程度の力さえも、今の僕には残っていなかった。
悪魔はゆっくりと腕を上げていき、僕の体もそれに合わせて上昇していく。
九十度近くまで腕を上げた悪魔は、おもむろに腕を振り下ろす。胸の真ん中からブチブチと何かが引きちぎられるような音と、それに伴う痛みが僕を襲う。
僕の体は宙に投げ出され、地面に落下していく。その間、スローモーションのように全てがゆっくりと動いているように見えた。
朱い霧のせいで視界が狭く、僕の元に駆け寄ろうとしている静の姿が霞んで見える。
その手前には、血に染まる悪魔の手が視界に入る。その手には、僕の胸から抜き取られたばかりの脈打つ心臓が握られていた。
……返せよ。それは僕のだ。
そんなつぶやきを心の中でする。
僕の体が地面に落ちたと同時に、悪魔は凄惨な笑みを浮かべ──僕の心臓を躊躇なく握りつぶした。
それが──僕が見た最後の光景だった。




