七月⑬ 畏れよ我を
ブレスレットの時刻表示が夜の九時を告げる。
時折、小雨がちらつく曇り。厚い雲に覆われて、新月かどうかを目視で確認することは出来ない。
そんな──静寂に包まれた、僕が通う学校のグラウンド。その真ん中に、僕は立っている。
この時期特有の生ぬるい風が、隣にいる静の長い黒髪をなびかせていた。
数日ぶりに会った静は白い着物に白衣という格好だ。着物姿の静を見るのは久しぶりだ。
「なあ、静」
軽い打ち合わせを終えた後、気になっていた事を聞いてみた。
「なにかしら」
「その右手の袋はなんだ?」
僕は静が手に持つ黒い大きな袋を指さしながら聞く。
「生け贄よ」
その物騒な言葉に思わず唾をゴクリと飲み込んでしまう。何が入っているのだろう。
「最後に確認。最初は私が話をするけれど、あなたは相手の言葉に耳を貸してはだめよ。いざという時──ただ殺してくれさえすればいいわ」
「それって、ちゃんと会話が出来る相手ってことか?」
「ええ。でも戯れ言を聞く必要はなくてよ。一瞬の迷い、躊躇が命取り……それだけを肝に銘じてね」
戯れ言……。
正直なところ、会話が出来るのならば、まずは話し合いをしたいという思いはある。
静にかけられているという呪いさえ解いてもらえればいいわけだから、話し合いで解決できれば戦闘をせずに済むかもしれない。殺し合いなんて、避けられるのであればそれにこしたことはない。
「スーツはどのモードでもいいわ。姿を隠す必要性も無いから好きな格好で待っていてくれればいいわ」
「りょーかい」
どれでもいいと言われると逆に困ってしまう。とはいえ、戦闘になる可能性は高いわけだし、そうなると初めて右手を剣にする場面もあるかもしれない。それならば、エッジの格好になっておくのが無難といえる。
僕はブレスレットを操作してエッジの姿に変身する。
「よし。いつでもいいぜ」
僕の声を合図に、静は数歩前に行き、黒い袋を開く。袋から出してきたのは、鶏だった。
「それって、死んでるのか?」
「いいえ。眠らせているだけよ」
「ふーん……」
静は鶏を地面に置く。何をするのだろうかとしばらく様子を見ていると、突然鶏の首を絞めて殺してしまった。
「え……」
普段から鶏肉をいろいろな形で食べている身としては、鶏の命ひとつにどうこう思う事もないのだが、生きてる命が失われる瞬間というのはあまり気分の良いものじゃない。
そもそも、わざわざ眠らせていた鶏をなぜ今ここで殺す必要があるんだ? それなら最初から死んでいる鶏でいいじゃないか。そんな疑問をぶつけると、静は表情ひとつ変えることなく答える。
「新鮮な血肉が必要なのよ」
静は鶏の死体をおいて僕の元に戻ってくる。
白衣のポケットに手を入れ、直径五センチほどの丸いボール状の物を取り出した。その丸いボールをおもむろに鶏の死体に向かって投げる。地面に落ちた瞬間、ボールから光があふれ出し、鶏の死体を中心にして、光る線が円や三角など、色々な幾何学模様を地面に作りながら広がっていった。
ゲームや漫画に出てきそうな魔法陣が一瞬のうちに出来上がっってしまった。
「すご……どうなってるんだ、これ?」
「毎回呼び出すたびに描くのも面倒ですしね。スーツと同じ粒子に形を記憶させているの」
「なるほど」
と納得した返事をするが、正直なところはよくわかっていない僕だった。
「それで、次はどうするんだ?」
「待ちます」
「待つのか……」
なにか呪文的な物でも唱え出すのかと、密かに期待していたのだが、そういった物は必要ないらしい。
「完全に姿を現すまでは手を出さないでね。おそらくだけど、隠世から完全にこちらの世界に来てからではないと、直接的な影響を与える事ができないと思うの」
「わかった」
僕の返事に、静は少しだけ疑問の表情を浮かべる。
「なんだか素直ね。自分の目で実際に見た物しか信じないと言ったあなたが、私の言うことを素直に受け入れるなんて」
「僕自身もよくわからないんだけどさ。ヴァンパイアやら忍者やら見てきたら、悪魔が実在してもおかしくはないよなぁとか、そういう受け入れ方というか……気づかないうちに自分の価値観が変わったみたいだ」
「……そう」
「だから……正直に言うと、今僕はちょっとびびってる。僕なんかがどうこうできる相手なんだろうかって、実在することを前提に僕の心が怯えているんだ。変な話だろ?」
「…………」
「それでも、静が貸してくれているこの力があれば、なんとかなるのかなって楽観視してる部分もある」
「一応……言っておくわね。もし劣勢になった場合、私の事は捨て置いて、逃げなさい。私は決して殺されることはない。だから、自分の命だけを最優先に考えてね」
「それって──」
どういう意味だ? と質問を投げようとした時、異変が起きた。
いや。
始まった、と言うべきか。
グラウンドを見渡すと、深い霧がかかったように奥の校舎の輪郭がぼやけている。
そしてなによりおかしいのは、空気が赤みがかっていることだ。
突然この周辺に赤い霧が発生したかのように──世界は赤く、朱く染まっていた。
僕はこの世界を知っている。
朱い世界を僕は覚えている。
この風景は……朱ちゃんに連れて行ってもらった隠世そのものだ。なにもかもが赤く、そして建物や人間は白い。そんな不思議な世界。
「静」
「…………」
返事がない。僕は静が立っていた位置に目を向ける。そこには誰もいなかった。
視界の悪くなったグラウンドを見渡すが、静の姿がどにも無い。
「静!」
僕の声は朱い霧にかき消される。
息苦しさを感じ、僕は口を大きく開ける。
口の中が乾ききり、体内にまで朱い霧が入ってくる錯覚に襲われた。
呼吸がしづらい。
体が震える。
心臓の鼓動がどんどん大きくなっていく。
全身から汗が噴き出し、思考にも靄がかかり出す。
僕は体の異変に耐えきれず、胸に手を当てて地面に膝をついた。
駄目だ。
ここは……人がいてもいい場所じゃない。
逃げないと。
一刻も早くこの場を去らないと。
……去らないと、どうなる?
死。
その先にあるのは、死だ。
なんの根拠も無いのに、そう断言できてしまう。
…………。
なぜかそこで僕の思考は落ち着きを取り戻す。
──なぜ?
そんなもの、考えるまでもないことだ。
僕は死を恐れていない。だからここにいられるんだ。
──なぜ死を恐れない?
だって、命は限りがある物だ。人である以上、逃げる事なんて出来ない。
今まで無茶な事をしてきたのも、別に命を粗末に考えてたからじゃない。
自分の命を秤にかけていただけ。死ななければ、生きてもいいんだと思える。その繰り返しをしていただけ。
死ぬ時は死ぬ。
ただ、それだけだ。
──ならば、今すぐ死ね。
今は駄目だ。まだ死ねない。
──なぜ?
だって──まだ静の願いを叶えていないから。
「刃月」
突然はっきりとした声が間近に聞こえた。左手に温もりを感じる。自分の手を確認してみると、誰かと手を繋いでいた。
誰の手なのかを確認するために腕、肩、顔と順に視線を進めていく。
朱い視界の中に見えたのは、静の顔だった。いつとも変わらない、感情の読めない顔が僕を見上げていた。
あれ……。僕、さっき膝をついてなかったっけ?
呼吸がしにくくて、苦しくて……。
「大丈夫。私がちゃんと見ています。だから、自分を見失わないで」
「…………」
「あなたは私の願いを叶えてくれる……ヒーローなのでしょう?」
静が優しく微笑む。
「静……?」
幻聴? 幻覚?
僕は誰としゃべっていたのだろう。夢でもみていたのだろうか。
「今、二つの異なる世界が繋がったの。そのための一時的な脳の混乱。自分をしっかり保っていれば問題ないわ」
「繋がった……?」
「ええ。お出ましよ」
静は僕の手を離し、前を向く。その視線を追って僕も前に視線を向ける。
朱い霧のせいで視界はあいかわらず悪いままだが、光の線で構成された魔法陣ははっきりと見て取れる。その中心には、殺されたばかりの鶏が一羽。
その鶏の体が突然巨大化し始める。中に人でも入っていたのかと疑いたくなるような異変が始まった。
巨大化する過程で羽は全て抜け落ち、肌色の体から人の手のようなものが二本、天に向かって伸びる。その間から人の頭のような丸い形状のものが生える。
鶏の皮膚はゴムのように伸びていく。
人の手の形をしたものが地面に接し、鶏の体の下半分が人の胴体を形成し始めた。やがて足のようなものが二本伸びていき、完全に五体を得た肉体はゆっくりと立ち上がる。
そこに現れた人の型をしたモノは、肌の色が徐々に黒く染まっていき、やがて全身が白くなっていく。最初は鳥肌だった表面は、光沢のある鋭利な刃のような美しさをたたえていた。
全体のシルエットは、女性そのものに見えた。何も身につけていないその胸元には豊かな隆起がふたつある。少し視線を上にあげると、理屈抜きに美しいと思えてしまう美貌が僕を見つめていた。
だが、人ではないとはっきり認識できる所が一つだけあった。
それは、背中に生えている白くて大きな翼だ。
朱い霧に覆われた世界にあって、不思議とその白さだけは異様なまでに際立っていた。
人とは違うそのシルエットのなんと優美なことか。
これが、静のいう悪魔だというのか?
これが……悪魔?
おかしいよ……こんなの……まるで──神、もしくは天使じゃないか。