七月⑪ さよならの旋律
現在、ラストリゾートの事務所は重い空気に包まれていた。
奥の事務テーブルに足をかけて座る我勇さん。
首を前に垂れ、うなだれながらソファーに座る僕。
十五分ほど沈黙が続いていた。
その沈黙を破ったのは、シキナだった。
「おっまたせー!」
シキナは髪を濡らしたまま僕のもとに歩いてくる。その後ろに静の姿が見える。
全身に浴びた血を浴室で洗い流してきた静は、シキナから借りた少し大きめの服を着ていた。
「はっつきーも入ってくる? 気持ちいいよ〜」
「…………」
「もぅ、な〜に落ち込んじゃってるの? 静ちゃんは無事だったし、三人組も警察に引き渡したし、めでたしめでたし、じゃない?」
「うん……ごめん、迷惑かけた」
僕は下を向いたまま声を振り絞る。
静は無言のまま我勇さんのもとに歩いていく。
シキナは僕の隣に座り、陽気な声を出す。
「死人はでてないんだし、なにも落ち込むようなこと無いんじゃない? ああいうバカ達はあれくらいで丁度いいのよ。刑が甘いからみな再犯だの復讐だのを躊躇なくしちゃうんだし。だから気にしない!」
「そういうんじゃ……ないんだ」
「そういうん?」
「僕は……ちゃんと……怒りを自制できると思っていたんだ。ちゃんと加減が出来るって……思いこんでいた」
「ふむふむ。それで?」
「実際は……駄目だった。シキナが来てくれなかったら、僕は……あいつを……殺していた」
僕は自らの行為に恐怖し、震える体を両手で押さえ込みながら声をしぼりだす。
「ふふふ」
シキナは突然笑い出す。
「…………?」
「そんなの、最初から分かってたことだよ。分かっていなかったのは、はっつきー自身だけ」
「分かっていた……?」
「今まではちゃんと力を加減できた。でもそれって、助ける相手が赤の他人だったからだよね? 親しい人間に危害が及びそうになったのは、お母さんの事件以来じゃないの?」
赤の他人……親しい人間……。
「人間って、そういうもんでしょ。親しい人間をつくり、群れ、家族というグループを形成する。そして子供を作り、命を繋ぐ。親しい人間ができれば、当然ながらその親しさの外は赤の他人。全ての命に平等でいられる人間なんて、そうそういるものじゃない……って我勇が言ってたよ!」
シキナ自身の言葉じゃないのかよ……らしくない言葉だとは思ったけれど。
「たぶんだけど、はっつきーは人間として普通の、ごく当たり前の行動をした。それが正しいかどうかはまた別の話だけどさ」
「……それは、シキナ自身の言葉?」
「フフフ。今、はっつきーが接しているシキナはねぇ……テレビの中に出てくるいろいろなキャラクターを真似て、演じているだけの人形なんだよ。本当の私はもっと無口で、本当は人間なんてどうでもよくて……でも、人間に憧れてる……だから必死で演じている。それが私」
まるで自分が人間じゃないかのような物言いに違和感を覚える。
「……よく……わからないな」
「うん。わからない。私も自分の事、全部理解できてない。自分の事さえもちゃんと理解できないのに、他人なんてもっと理解できないよね。だから人間はコミュニケーションを取り合ってわかり合おうとする。私達──ヴァンパイアはそういったものとは無縁だから、人間よりはほんのちょっとだけ客観的に見ることが出来てるのかも」
今……なんて言った? ヴァンパイア……そう聞こえたぞ。
「寿命の無い私達は、種を残す必要がない。そして、強い。だから群れる必要がない。人とは対極の位置にいる存在かもね」
そう言いながらシキナは僕に体を寄せてくる。微かに濡れた漆黒の髪が僕の鼻先をかすめ、鼻孔をくすぐる。
「シ……キナ……?」
僕は金縛りにでもあったみたいに動くことができず、身をこわばらせる。
「フフフ」
シキナは妖艶な笑みを浮かべ、僕の首筋に顔をもっていき──
「きゃん!」
突然シキナは悲鳴を上げ、自分の顔を押さえている。後ろを振り向くと、我勇さんが指で輪ゴムを回していた。
「しゃべりすぎだ。馬鹿野郎が」
「指鉄砲反対!」
「ああ? 本物の銃のがいいってか?」
「我勇のバーカバーカ! べー!」
「フンッ」
我勇さんは椅子から立ち上がり、静と共に近づいてくると、真顔で僕に語りかける。
「刃月」
「……はい」
「人は失敗の積み重ねで成長する生き物だ。今回の事を肝に銘じて、甘い認識だった自分を戒め、今回のような失敗は二度としないように反省すればいい。なんの価値もない後悔なんかはするな。後悔の先には何もねぇからよ」
我勇さんは僕の頭に手をのせ、荒っぽくひと撫ですると、奥の部屋に消えていった。シキナも我勇さんの後を追い、部屋には僕と静の二人だけになった。
「……刃月」
今まで一言も発しなかった静が僕の横に座る。
「ごめんなさい。私の不注意であなたに嫌な思いをさせてしまいましたね」
予想だにしない言葉に僕は返す言葉が出てこない。
僕は静の制止の言葉を無視し、暴力に身を任せてしまった。責められこそすれ、謝られるなんて思いもしなかった。
「久しぶりに無力な自分を痛感したわ。スーツが無ければただの人だという事を思い出した。すっかり忘れていた……本来の自分を。弱くて無力な自分を」
「…………」
「ありがとう。助けに来てくれた時、本当にうれしかったわ」
静は僕の右腕に寄りかかり、目を伏せる。
「恐怖……喜び。私自身、こんな感情が残っていたことに驚いているけれどね……」
さっきのシキナとはまた別の緊張で動けなくなる。必死で平静を装って僕も謝罪を口にする。
「なんか……怖い思いをさせてごめん。ナイフ自体は見慣れていたはずなんだけど、静に向けられているのを見た瞬間、怒りを……力を抑えることができなかった。身近な人とそうでない人でこうも自分の感情が変わるんだって……シキナに言われて初めて知ったよ」
「そう……。でも──」
静は僕の腕に頭をつけたまま首を横に振る。
「私を身近に感じては駄目。きっと後悔してしまう……」
「静……?」
「これは……私のミス。正さないといけない。だから……今度の新月の晩──それまでは、もう会わないでおきましょう。お互いに……これ以上心を寄せ合ってはいけない」
そう言うと静は何かを振り切るように唐突に僕から離れ、立ち上がる。
「先に帰ります。夜の九時……忘れずに来て下さい」
「あ、送ってい──」
立ち上がりかける僕を静は手で制する。その右手には見慣れたブレスレットがついていた。
「シキナから返してもらいました。ひとりで大丈夫です」
そう言うと、静は一度も振り返ることなく部屋を後にした。
部屋にひとり取り残された僕は、静の言葉を思い返す。
静の言うミスとはなんの事だろう。心を寄せ合ってはいけないとはどういう意味なのだろう。
やっと仲良くなれたと思ったのに。
…………。
こういうのが、後悔というものなのだろうか。たしかに、後悔にはなんの光明も見いだせない。
思ったのに、なんて過去形で終わらせてたまるものか。
だったら、僕がすべきことはひとつだ。
次の新月の晩──そこで今回の失敗を取り返す。
確実に静の願いを叶えるんだ。
静が悪魔と呼ぶ相手。それがどんな奴でも、絶対に負けない。怯まない。引かない。
勝利以外は──考えない。




