七月① 一人っ子
まだ梅雨の明けていない七月上旬。
じめじめとした暑さがクラス皆の不快指数を上げる。
こんな蒸し暑い日に限って、学校のエアコンが故障したのだ。
一時間目の授業が終わるチャイムが鳴ると同時に、皆一斉に下敷きやノートで扇ぎだす。
そんな中、僕は少しばかりズルい方法で暑さをしのいでいた。透明なスーツを身につけ、快適な温度で過ごしているのである。静にスーツを借りてから一ヶ月以上が経過した今、スーツを着たまま普通の生活をおくることも容易だ。
「空門、あんたなんでそんな涼しい顔していられるわけ……? 信じらんない!」
右隣の席に座る風葉有耶は丸襟ブラウスのボタンをはずし、スカイブルーのミニネクタイも緩めて少しでも風通しをよくしようと着崩している。
そんな有耶は汗でずり下がった細メガネをあげながら僕に八つ当たりをする。
僕は目を閉じ、快川紹喜の辞世といわれる言葉を口にする。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」
「快川紹喜はそのあとホントに焼死したらしいけど、あんたも死ぬの? 遺言なの?」
「あれ? これって心構え次第で火の熱さにも耐えることが出来た的な話じゃなかったのか……」
「本当はどこかの和尚さんの言葉で、快川のは逸話って話もあるけどね。実際、死に際の言葉なんて誰が聞いたのよって話だし」
さすが成績だけは優等生の有耶。適当に知っている言葉を使っただけの僕とは違い、ちゃんと由来まで熟知している。
「あーもう! ほんとっ、嫌。私暑いの大嫌いなのよ!」
「僕に愚痴られても、どうにもならないぞ。学校に文句を言え」
「あんた、この暑さ平気なんでしょ? だったら、はい!」
そう言いながら有耶は可愛い絵柄のキャラクターが描かれた下敷きを僕に差し出す。
「くれるの?」
「バカ!」
罵られながら下敷きで叩かれる。
「扇ぐの! 私を!」
「ああ、そういうこと……って、なんで僕が扇がないといけないんだよ」
「涼しそうな顔してるから」
反論を見つけることが難しい、非常に非論理的で意味不明な理由を告げられ、僕は抵抗するのが馬鹿らしくなった。
「はいはい、仰せのままに……」
僕は下敷きを受け取り、有耶に向かって風を送る。
なんでスーツを着てこんな召使い的な事してるんだろう、僕。
「ず〜る〜い〜!」
そんな声と共に僕と有耶の間に割って入ってきたのは、夜凪朱姫──少し赤みがかったセミロングの髪が特徴的なハーフの女の子、朱ちゃんだ。
有耶と違ってネクタイを緩めることもなく、ちゃんとした身なりを維持している。さすが超のつく真面目っ子の朱ちゃん。
「風がぬるいぃ……」
朱ちゃんはその場で崩れ落ちるように座り込んでしまった。
「さすがに空気を冷たくする扇ぎ方は知らないからなぁ。というか、朱ちゃんって寒がりじゃなかったっけ? 暑いのも苦手なのか?」
「じめっとしたこの時期の暑さは苦手……溶ける……」
本当に溶けてしまいそうなほど弱々しい言葉が返ってくる。
「ポジティブに考えるんだ。暑いからこそ冷たいアイスやパフェの美味しさは引き立つものだろ?」
「夏用の服いっぱい買っちゃって今月お小遣いピンチなの! だから食べられないもん……。おごってくれるのなら、頑張るけど!」
なにをどう頑張るのかよく分からないけど、本人がそれで頑張れるというのなら、おごりがいがある。
多額の借金を背負っている身ではあるが、即身仏の護衛に対する報酬が想像以上に多くもらえたので、そこそこ出費をしながらでも返済できそうな目処がたった。
我勇さん曰く、一千万円貯まってからまとめて返せばいいとのことなので、手持ちだけで考えれば今の僕はそれなりにお金持ちだったりする。
現金手渡しで二百万円ももらってしまったのだから。
もっとも、それ以降は仕事が無いのだけど。
「いいよ。じゃあ今日の放課後にでも食べに行く?」
「半分冗談で言っただけだけど、ホントにいいの!? 行く! 絶対行く!」
朱ちゃんは目を輝かす。
半分冗談ということは、半分本気だったんだな。なんでもかんでもおごることを要求してくる有耶からの悪影響がかいま見られる。
そんな朱ちゃんの背中に有耶は抱きつき、耳元でなにか囁く。少しして有耶は体を起こし、僕に向かって言う。
「私はパ〜ス。今日は店の手伝いを頼まれてるんよ。だから今度二倍おごってね」
有耶の家は和菓子屋を営んでいて、一度招待されてご馳走になったことがある。けっこう有名なお店らしく、客足が途絶えることはないそうだ。バイトの子が急に休んだ時に有耶が手伝っているらしい。
しかし、今日は火曜日だ。僕の記憶が間違っていなければ、有耶のお店は定休日のはず……。
「なんで二倍なんだ。意味が分からないぞ」
先に二倍の件を問いただす。
「今度二個おごってねって事でしょうが。拒否したら、ケチってあだ名を広めるわよ」
「やめてくれ……」
理不尽にも程がある。
「というわけだから、今日は朱ちゃんと二人で行ってらっしゃい」
「行くのはいいけどさ。有耶、今日お前ん家の店休みじゃなかったっけ?」
「あんた、なんでそんなどうでもいい情報だけはしっかり覚えてるのよ」
「二、三回は聞いたぞ」
「そうだっけ。まあいいわ。休みの日にも明日の準備とかあるのよ! 和菓子の和の字も知らない素人が口出ししない!」
口出しというか、ただ休みの日の話をしただけなのに、怒鳴られてしまった。
「わかったよ……。朱ちゃんさえよければ二人でもいいけど、どうする?」
床で正座気味に座っている朱ちゃんに目を向ける。
「N…No problem! わ、私は平気、だよ!」
久しぶりに本場の英語の発音を聞いた気がする。しかし日本語の方は逆にたどたどしくなっている。なぜ咄嗟に英語がでるほど動揺しているのだろうか。
「じゃあ、どこ行こっか。前に行ったハイローのパフェ屋にでも行く?」
「えっ! そ、そんな遠出!」
「いや、別に遠出ってほどじゃないだろ」
「あ、そ、そうだね……駅前かと思ったからちょっと驚いちゃった……」
「ああ、こだわり無いなら駅前でもいいけ──」
「ハイローがいい! うん! 美味しかったよね!」
朱ちゃんは片手を上げながら勢いよく僕の言葉を遮った。そんな朱ちゃんの様子を有耶がニヤニヤしながら見つめている。
有耶のやつ、なにか企んでいるな……。
「そうだ、前行った時にもらった割引券、まだ期限切れてないかも! ちょっと見てくるね」
朱ちゃんはそう言うと、自分の席に戻っていった。その隙に僕は有耶に声をかける。
「おい」
「なによ」
「お店の手伝いって、本当か?」
「へぇ、私を疑うとはいい度胸ね、空門」
有耶の目がすわる。普通に怖い。
「いや、疑うとかそういうんじゃなくて……」
「んー。ま、今まで気にもしなかった事に気づいたっていうのは、あんたも少しは成長したってことかしらね」
有耶は怒り顔から一転、おだやかな表情になってしみじみと言う。
「…………?」
「あんたはおとなしく騙されていればいいのよ」
「なんだよ、それ……」
「嘘を嘘と見抜くことは大事だけどさ。そういう事に気づけるようになったのなら、次は空気を読んで騙されときなさいって言ってんの。あんたが騙されていれば、幸せになる子がいるんだからさ」
有耶は僕から目を逸らし、窓際の席に戻ってリュックをあさっている朱ちゃんを見る。
「……有耶?」
「あんた、一人っ子だよね?」
「ん? そうだけど」
「私には弟がいるんだけどさ。朱ちゃんは一人っ子なのよ」
「あぁ、そんなこと言ってたっけか」
「女の子が一人っ子ってさ、どういう意味を持つか分かる?」
「意味?」
僕は有耶の言葉の意図をつかみかねて首を傾げる。
「あの子は夜凪家の名前を残す事を考えないといけないの。一人っ子の男子と付き合うわけにはいかないのよ」
「それって……結婚とかの話? そんな先の事、今考えないといけないことか?」
「そういう脳天気な発言、すっごいむかつくんだけど」
さっきとはまるで違う本気の怒りを感じて、僕は咄嗟に言いかけた言い訳の言葉を飲み込む。
「あの子は、自分の将来もだけど、相手の将来もちゃんと考えてるのよ。だから言えないの。どれだけ想いを募らせても、自分から──言えないのよ」
相手の将来──確かに僕は自分の事しか考えていなかった。有耶の言うとおりだ。脳天気にも程がある。
「……ごめん、軽はずみな事言った」
僕の謝罪に対し、有耶はニッコリと微笑む。
「そういう風にすぐ謝れるところ、嫌いじゃないよ」
丁度そのタイミングで朱ちゃんが戻ってきた。
僕達の席の間で中腰になり、パフェのイメージ写真が入った割引券を見せてくれる。
「見て見て! 今月末まで使えるみたい!」
「よく残してたわね。私すぐ捨てちゃった」
「えー、もったいない! 写真を見てるだけでも癒されるじゃない!」
「残念だけど癒されるのは朱ちゃんだけよ」
「えっ、そうなの!?」
「うん。残念ながら。現実は非情なのよ」
「ぐすん……」
「よしよし」
非情な現実かどうかよく分からないものを有耶自ら突きつけておきながら、何食わぬ顔で朱ちゃんの頭をなでて慰めている。どういう茶番だ、これ。
「空門は将来の事を考えてなさすぎだけどさ──」
有耶は唐突に話を戻す。当然ながら朱ちゃんはなんの話か分かっていない。
「朱ちゃんは逆に──もう少し気楽に考えてもいいと思うよ。一度きりの自分だけの人生なんだからさ」
「……有耶?」
「今ってさ……本当の意味で今しか味わえないものなんだよ。血筋も大事かもしれないけど……さ。学生でいられる時間は短いんだし、後悔の無いようにね」
「…………」
朱ちゃんは困惑気味に僕と有耶の顔を交互に見る。
僕は僕で、有耶の言葉が我勇さんの言葉とダブって聞こえて戸惑っていた。
我勇さんには青春を謳歌しろと言われた。
言葉は違えど、同じ意味の言葉ではないだろうか。
そんな僕達に対し、有耶は突然笑い出す。
「ふふ。たまには真面目な話もしないとね。さあ、もうすぐチャイム鳴るわよ。朱ちゃんは授業の準備、空門は私を扇ぐ! ほら、手止まってるわよ!」
「……なんで僕だけ扇ぎ続行なんだよ」
「涼しそうな顔してるから」
最初に言われた言葉が繰り返された。朱ちゃんは笑いながら席に戻っていく。
ズルはしちゃいけないということだろうか。
僕はそっと透明モードのスーツを解除し、みんなと同じ蒸し暑さを味わうことにした。
空いている方の手で机の端末を操作し、今日の天気と月齢を確認する。
今日は満月……か。
朱ちゃんを寮に送るまで何もおこらなければいいのだけど。




