六月⑭ ブランニューデイ
翌日の月曜日。
時刻は正午を回ったところだ。
僕はまた何かしらの声が聞こえるであろう満月の今夜に備え、真っ昼間からステルスモードで飛行訓練をしていた。
繁華街、住宅街問わず、闇雲に跳躍を繰り返す。上昇から下降への移り変わりに感じる無重力感を何度も満喫する。
全ては、頭を空っぽにするために。
そのために僕は学校を休んだ。仮病を使うのも嫌だし、親父に連絡してもらうというのにも抵抗があって、結局学校には連絡をせず普通にサボることを選択した。
朱ちゃんにどんな顔をして会えばいいのか分からないから。
我ながら情けない理由である。
昨日家に戻ってから、勉強が手に着かず、宿題も終わらせる事が出来なかった。シャワーを浴びても布団に潜り込んでも、ずっと頭の中が混乱状態だった。
寝付くことも出来ず、一晩中考え続けた。
どうせ眠れないのならと開き直って記憶をまさぐり、最初から思い出してみた。
女忍者と朱ちゃんが同一人物だということに対して、なにか否定できる要素が見つかるのではないかという淡い期待を持って。
即身仏の声が最初に聞こえたのが月曜日の放課後。
翌日の火曜日、朱ちゃんは学校を休んでいた。
僕は朱ちゃんにメールを送り、学校が終わったあとに我勇さんに呼び出された。
さっそく即身仏の護衛が始まり、翌日の水曜日、祠の中で女忍者に出会った。
その日のうちに説得が成功し、即身仏の代わりになるというのは思いとどまってくれた。
そして翌日の木曜日、朱ちゃんは登校してきた。
──今にして思えば、確かにタイミングがよすぎる。
火曜日と水曜日の二日間、ひとりで解決方法を探り、考え、そして死を覚悟した。だからメールの返事を送らなかった──送れなかったのだと考えると、辻褄が合ってしまう。
いつかの学校での会話でも、壁をすり抜けることは人によってはできる、そんな事を朱ちゃんは言っていた……気がする。このへんは記憶が少し曖昧だが。
もう少し遡り、静と出会った日の放課後を思い出してみても、有耶の言葉を遮るために有耶の背後に突然現れる異常なスピードは隠世を利用した瞬間移動を使っていたと考えれば、これまた納得できる。
そして女忍者が語った一年前の出来事も僕の記憶と一致する。
僕と友達になるきっかけ。嫌な思い出。
朱ちゃんから何かお礼をしたいと言われた際の僕の返事もそのままだ。
どれだけ考えても否定する材料が見あたらない。
紙に書かれた携帯の番号とメアドを僕の携帯に登録されている朱ちゃんのものと見比べれば答えなんてすぐに出てしまうのだが、確信に変わってしまうのが怖くて、それも出来なかった。
そんなこんなで結局一睡も出来ないまま朝まで考え続け、僕の脳は学校へ行くのを拒否した。
そして今に至る。
全力で現実逃避の真っ最中なのだ。
僕は何度も跳躍を繰り返し、女忍者と朱ちゃんが同一人物だという現実から全力で逃げる。
逃げ続ける。
それに──同一人物だと認めてしまったら、朱ちゃんの僕への想いまでも、朱ちゃんの意図とは別の形で知ってしまうことになる。
知ったのに、知らない振りをするなんて──それはあまりにも不誠実だ。
だからといって、エッジは僕だ。だから気づいた……なんて言えるはずもない。
…………。
──どれだけ現実逃避の跳躍を繰り返しても、僕の中にあるモヤモヤした感情は解消されることはなく、気がつけばまた朱ちゃんのことを考えている。
僕は全ての思考を止め、二十階相当のビルの上から全力で跳躍する。一瞬の無重力感のあと、落下がはじまる。人気のないビルの屋上に向けて軌道修正したあと、手足を繋ぐウイングを使わず、重力に身を任せて僕の体を自由落下させる。
着地の体勢をあえてとらず、僕はビルの屋上に叩きつけられ、しばらく転がったあとに階段室の壁に激突して止まった。
普通の人間なら即死だろう。でも僕はスーツのおかげで擦り傷ひとつない。痛みもない。こんな程度の衝撃で記憶が無くなってくれることもない。
僕は仰向けになり、しばらく空を見上げる。
どんよりと曇ったままの僕の心とは対照的に、雲ひとつ無い晴天の空が憎らしく思えた。
「……僕の代わりに学校行ってきてくれよ」
空に向かって八つ当たり気味につぶやく。
「いいぜ。空門刃月になりきって明日行ってやろう」
空がしゃべった? 何事かと思わず体を起こす。
いやいや、そんなはずは無い。
いくら僕が今、正常な思考が出来ていないといっても、こんなにはっきりとした幻聴が聞こえるはずがない。
僕は声の主を捜すために立ち上がり辺りを見渡すが影ひとつ見あたらない。
まてよ? 今の声……空門刃月と言ったか?
そもそも僕は今、ステルス迷彩モードで限りなく透明に近い状態だ。声だけで僕だと分かった?
「くくくっ。面白いリアクションをするなぁ、お前は」
その声は上から聞こえた。僕が衝突した階段室の上からだ。
声の主を確認するため、階段室の上部が見える位置まで数歩下がる。
そこにいたのは、我勇さんだった。
「よォ。元気そうだなぁ」
僕は変身を解除し、改めて辺りを見渡してみる。その風景には見覚えがあった。ここは我勇さんの事務所があるビルの屋上だ。無意識にここに来てしまっていたようだ。誰もいない場所を選んだはずなのに、なぜ階段室の上にいた我勇さんに気付かなかったのだろう。
我勇さんは階段室の上から音もなく着地し、僕に声をかける。
「なかなか面白い着地の仕方をしたもんだなぁ。受け身の練習か?」
「……そんなところです」
僕自身、何をしたかったのかよく分かっていないので、適当な返事をする。
「ははっ、そうかい。ま、あまり俺のビルでそういう練習はしないでくれよ。ただでさえシキナと遊ぶたびに床がボロボロになるんでな」
「すみません……」
「おう? なんだ、今日は冗談も通じないのか。そんなに同級生の事が気になるのか?」
同級生という単語に心臓の鼓動が一瞬大きくなる。
「なんの……ことですか」
「フフン。夜凪家の次期頭首がお前の同級生であることくらい、少し調べれば容易に分かるさ」
我勇さんは容赦なく僕に現実を突きつける。
否応なく認めさせられる。
同一人物であることを。
「……やっぱり、そういうことなんですよね……」
無理矢理頭の中で否定してきた部分だったが、ここで明言されてしまった以上はもう受け入れるしかない。
「それがどういった不都合になる? エッジのみが係わったくノ一だろうが」
「…………」
「今まで通りでいいじゃないか。刃月としてのお前には関係なかろう。それとも、今さら知らない振りをすることに罪悪感でも感じているのか? お前はエッジの正体を聞かれたら素直に僕ですと答えるのか?」
「そういうんじゃ……ないんです」
祠の中で聞いた朱ちゃんの言葉を思い出す。
『えっ!? ち、違うわよ! いや、違うというのは、えっと、違うけど、でも、えっと……そうならうれしいんだけど、いや、でもそういうの関心なさそうだし……って、あれ、私何言ってるんだろ……』
会話の前後を考えれば、朱ちゃんは僕に好意をもってくれているということになる。
正直なところ、まったく気づかなかったのだけど……。有耶が僕のことをニブチンと言ったのもうなずけてしまう。
「本来僕が知ってはいけない事を知ってしまって……その気持ちにどう応えたらいいのか分からないんです」
「フフン。青春だねぇ」
「茶化さないでください……」
「茶化してないさ。そんな風に悩める事があるお前がうらやましいんだよ、俺は。そういう青臭い悩みは今しか味わえないものだ。そういう悩みを自分の中で消化できるようにするのがお前等若者の仕事だ。存分に悩め。泣いて喜んで怒って……誰かを好きになって、そうやって皆大人になってくんだよ」
「…………」
「おめぇよぉ。母親が死んで以降、泣いたことあるか?」
死んで以降……? お葬式の後ということだろうか? それなら……泣いた記憶は無い。
「無い……と思います」
「だろうなぁ。お前にとって父親は母親を助けなかった憎むべき相手。あの事件以降、頼る相手ではなくなった」
「…………」
「子供の成長過程において、周囲に頼れる人間がいた場合は傷ついた時に泣くという反応をするそうだ。逆に頼れる人間がいない場合、どういう反応をすると思う?」
いきなりそんなことを問われても分かるはずもなく、僕は沈黙することしかできなかった。
「答えは『怒る』……もしくは──『逃げる』だとよ。もちろん一概には言えないだろうが……思い当たる部分があるんじゃないか?」
それは──その言葉は、母の死以前と以降の僕の生き方をあまりにも的確に表していた。大切なものを失う恐怖から逃げ続け、自分から親しい関係を築こうとしなかった……僕そのものじゃないか。
「頼る人間ってのは、別に家族である必要はないんだぜ? 血のつながりがなくてもいいんだ。年上である必要もない。友達ってやつに頼っていいんだ。お前の周りには、頼ってもいいと思える友達がいるんじゃないのか? だったら、もう逃げるなよ」
「…………」
「頼り頼られ。傷つき傷つけられ。若いからこそ味わえる数多ある喜怒哀楽。そういうのは今しか味わえないものだ。だから後悔のないようによ……せめて学生でいられる間くらいは青春を謳歌しな。逃げてるだけじゃ心は成長しねぇぞ」
我勇さんはいつになく真面目な顔で僕に語りかけた。
その言葉ひとつひとつが棘となって僕の心につきささる。
たった今も学校をサボり、全力で現実逃避をしていた身としては、なにも言い返すことができない。
「ま、気の済むまで体を動かせばいいさ。気が済んだら事務所に顔を出せ。昨日で仕事が正式に完了した。報酬を渡す」
「え……あ、はい」
何も役に立たなかった僕にも報酬があるのか……。迷惑もかけたし、そういう報酬的なものは無いものとばかり思っていた。ボウリング場のバイトは辞めてしまったので、収入の当てがあるのはラストリゾートだけだ。たとえ小銭程度であったとしても、もらえるのならありがたい話だ。
「それじゃあ、今から──」
行きます、と言いかけたところで、携帯のバイブが着信を知らせてくる。
「ハハッ、金は逃げねぇよ」
我勇さんは片手を上げ、笑いながら階段を降りていく。
屋上に取り残された僕は携帯をポケットから取り出し、画面を見る。有耶からだ。無視をするわけにもいかないので、電話に出る。
「──はい」
「お、出た出た。ちょっと、あんた今どこいんの?」
「どこって……どこでもいいだろ」
「よーくない! 家にかけても誰も出ないって、先生心配してたわよ!?」
「あぁ、ごめん……ちょっと学校行く気分じゃなかったんだ。明日朝一で謝りにいくよ」
「なにが気分じゃない、よ。電話一本くらいしなさい! あと、一週間に一度私か朱ちゃんにメール送る約束、忘れてないわよね? 明日が期限よ?」
すみません、忘れてました。
どんな内容のメールを送ればいいのかを考えると、また気が重くなる。
「今日中に送るよ。用はそれだけか? ないならもう切るぞ」
「ちょい待ち」
有耶はそう言うと、ボソボソと誰かと話す声が聞こえてきた。しばらく待っていると──
「あ、空門くん! ホントに大丈夫? もしかしてまた怪我とかしてるんじゃない?」
突然聞こえてきた朱ちゃんの声に、一瞬心臓が止まりそうになる。まだ心の準備が出来ていないのに、この不意打ちはひどい。
「怪我は……してないよ」
僕は必死で声をしぼりだす。
「それならいいけど……。明日は会えるかな……?」
「……うん」
「……なんだか……元気ないね……」
朱ちゃんの声のトーンが落ちる。
「そんなことないよ」
「…………」
極力明るい声をだしたつもりではあるが、効果的だったとはいえないようだ。
お互いに言葉が出なくなり、気まずい沈黙が訪れる。少しして、朱ちゃんが話題を振ってくれる。
「そうだ、昨日の新聞に入ってた広告に変わったのが入ってたんだけど、えっとね、即身仏について書かれてたんだけど、知ってる?」
「あー、うん。なんか入ってたね」
「ママがね、ああいうの大好きなの。好きって言うと語弊があるかもだけど……興味があるって言うのかな? だから寮のみんなに見てもらったあとに寮長にお願いして、もらったんだ。それを実家に郵便で送ってあげたの。空門くんはああいうの、あまり興味ない?」
「ん……前までは無かったかな。最近知って、少し興味が沸いたよ」
「ほんと!? あのね、今日お寺のホームページ見てみたら、七月後半くらいに一般公開の予定があるみたいなの。まだ先だけど、有耶と三人で行かない?」
先週、十分というほど目にした身としては、正直なところお腹いっぱいな気分なのだが、その気分はエッジのものであって、刃月のものではない。
それならば、刃月として見てみるのも案外悪くはないのかもしれないと思えた。
「そうだな。行くか」
「やった!」
朱ちゃんが声を弾ませる。
「そんなに喜ぶほどの事か……?」
「ほどの事だよぉ。七月後半って夏休みに入ってるかもしれないでしょ? そうなると登校日にしか空門くんと会えないから……会える約束ってうれしいの。えへへ」
「……そっか」
本当に……僕はいままで、朱ちゃんとどんな風に接したきたのだろう。
僕への好意をこんなにもストレートにぶつけてくれているじゃないか。
それなのに、なぜ僕は気づかなかったのだろう。
気づいてあげられなかったのだろう。
…………。
否。
僕はたぶん……気づくことはできた。
気づかないように──心をただひたすら鈍くして……鈍感にして生きてきた結果だ。
我勇さんは悩めと言った。逃げるなと言った。
今しかできないこと。今この瞬間の自分にしか出来ないこと。
それがきっと、逃げずに悩み、考えるという事なのだろう。
しかし、今いきなり悩み、考えたところで、はたして僕は朱ちゃんを好きなのか──すぐに答えがでるはずがない。
もちろん嫌いなわけは無い。むしろ、好きだと断言するくらいは容易にできる。でもその好きという言葉は、有耶にだって言えるものだ。
いわゆるLoveとLikeの違いというものだろうけれど……Likeであったとしても、はたしてそれがLoveを含んでいるものなのかどうか。そもそも、その似た言葉の違いはなんだ?
それが分かるまでは、僕達三人の関係は今までと変わらないだろうけれど……でもこれからは分かるように努力しようと思う。気づいた事から逃げず、目を逸らさずに受け止めて、考えて、悩んで、答えを出していこうと思う。
それが、僕なんかを好きでいてくれる朱ちゃんに対する、精一杯の誠意だ。
「そうだ、私ね、お盆に実家に帰るんだけど──」
そんなこんなを考えながら、いつしか朱ちゃんと自然に会話をしている自分に気がついた。自分なりに答えがでたからだろうか。
「──お土産の候補はそんな感じなんだけど、空門くんはその中でどれが──」
「朱ちゃん」
僕は朱ちゃんの話に割り込む。
「うん?」
「ありがと」
「ふぇ? な、なに? 私、何かした……?」
「いろいろと」
「な〜に、それっ」
朱ちゃんはクスクスと笑う。
僕を元気づけようと、あまり得意ではないはずの二人での会話を続けてくれている朱ちゃん。
お礼のひとつも言いたくなる。こんなんじゃ全然言い足りないけれど。
「まさか本当に熱があったりする??」
「熱も適度にないと死ぬだろ」
「う、そう返しますか……イケズ」
「ははっ。なんてな。本当に元気だよ。今までもいっぱい心配かけたけど、これからはもう怪我をすることも無い。約束するよ」
「んー、それは空門くんの性格を考えると、いまいち信じられないなぁ……」
スーツがあるから、なんて事は言えないけれど、それでも約束くらいは出来る。安心してくれるかは分からないけれど。
「もう無茶はしないって決めたんだ。今決めた」
「今かよ! ってつっこむべきなのかしら……。でも、ちゃんと言葉にしてくれたのは初めてだよね。うれしいかも」
「約束をやぶったら、その都度パフェをおごるよ」
「ホント! じゃ、じゃあちょっとだけなら怪我していいよ!」
「僕はパフェ以下か……」
さすがにここはつっこむべきところだろうか。
「えへへ、冗談。でも明日は怪我してないか、ちゃんとチェックするからね!」
「もはやパフェしか見えてないな」
そんなとりとめのない会話をしながらふと空を見上げると、青空から降り注ぐ日差しがとても心地よく感じた。さっき空を見上げた次に感じた腹立たしさは不思議と無くなっていた。
「いい天気だ」
「ほんとだねぇ。私も窓から見えてるよ」
「いい天気だし、僕はもう少し空の散歩を楽しむよ」
「空の散歩?」
「なんでもない。それじゃ明日」
「えっ、ちょっ──」
僕は電話を切り、ポケットに直す。ステルスモードで変身し、ハイロー九尾店に向かって思いっきりジャンプをした。
二十階ごとの段差を昇っていき、屋上のヘリポートに着いた。六十階相当の位置から全力でジャンプしたらどこまで行けるだろう。
特に目標地点は決めず、僕は助走をつけて全力で跳んだ。
おそらく八十階相当の高さまで昇っただろうか。最高到達点で体を横に一回転させ、両手両足を大の字に広げてウイングを使った飛行を楽しむ。
静にスーツを借りた二週間前は怖さしか無かったのに、今は楽しくて仕方がない。
最初の一歩は誰だって怖い。その先に無限の可能性が広がっている。静はそう言っていた。
僕は今、また新たな一歩を踏み出す。
逃げない生き方を。
目を逸らし、避け続けてきた恋愛という一歩目を。
その先に、この空の飛行のような楽しさがあるのかは分からないけれど、それでも精一杯向き合っていこうと思う。




