六月⑩ いざ、隠世 へ
「まさかここに呼び出されるとは思わなかったわ」
金と赤の法衣を着た壇上の即身仏を前に正座していた僕は後ろを振り返る。
昨日と同じ黒装束に身を包んだ女忍者が蝋燭の灯りが届かない角で影にとけ込むようにひっそりと立っていた。相変わらず神出鬼没だ。
待ち合わせ場所に選んだのは、僕達が初めて会ったこの祠の中だった。ここなら誰かに見られることもないし、話を聞かれる心配もない。本来なら我勇さんが護衛についている時間だが、無理を言って外に出てもらった。
僕はゆっくりと立ち上がり、女忍者と向かい合う。
「ここ以外に思いつかなかったんだ。お互いに喫茶店とかで話ができる格好じゃないしね」
「まあ、そうね。それで、聞きたいことというのは何?」
「今日は秘密というのは無しで頼む。答えを探さないといけないんだ。知っていることは全部話して欲しい」
「……私の素性以外なら、いいわよ」
「了解した。じゃあ早速だけど、君の持つ刀──神葬りについて教えて欲しい」
「質問が漠然としすぎているわね」
「全部知りたいんだ。なぜ神葬りと呼ばれているのか。いつ、どうやって作られたのか──隠世にどんな影響を与えることが出来るのか。なぜそれがあると即身仏の代わりになれるのか。刀にまつわることを全て知りたい」
「不思議ね……昨日会ったあなたとはまるで別人みたい。神秘的な現象に対する迷いが今日は感じられない」
「知識が無いと解決できないだろうからね。いろいろと調べたり聞いたりした。隠世の事とかを特にね」
実際は我勇さんに聞いた部分が九割だけど。
「そう。じゃあ、まずは隠世を実際に見てみる? 百聞は一見にしかずってね。実際に見てみたら、もっと理解が深まるんじゃないかしら」
予想外の提案に驚く。
「隠世を見るって?」
「実際に隠世に行って、自分の目で見るってこと」
「そんなことが出来るのか? というか、君の血筋だけが出来る事なんじゃないのか?」
「行くことができるのは、そうね。あなたの言うとおり。だから、あなたは私について来るの」
「ついて来る?」
「私と手を繋ぎ、隠世の存在を疑わず、ただ行く事だけを念じてくれれば、あなたを連れて行くことが出来るわ」
そう言いながら女忍者は近づいてくる。目の前で止まると、女忍者は僕の右手を両手で握った。
「何も難しいことはないわ。これだけのことよ」
「手を繋いでいれば行けるのか……理屈がよく分からないな」
「行けば分かるわ。ただし、行くのは一瞬だけ。すぐに戻ってくるわよ」
「一瞬? なぜ?」
「そこは本来生身の人間が『いて良い場所』じゃないの。違うか……人間が『いられる場所』じゃないが正解ね」
「君は特別だからずっといられるけど、僕は無理ってこと?」
「そうね。普通の人があの世界に行けば心は数分で壊れ、廃人になってしまう」
「なんか物騒なところだな……一瞬なら平気なのか?」
「んー……たぶん」
そこは大丈夫だと断言してくれないものか。ものすごく不安になるじゃないか。
「とにかく、どんなところか軽く見るだけね。前に一度試したことがあるから、それなら大丈夫……と思う」
いや、だからそこはちゃんと断言してくれ。
「あと、私とあなたはひとつの魂として行くことになるから、余計なことは考えないでね。思ったことがそのまま私に伝わるから、隠しておきたい事があるなら注意して」
「ん……わかった」
理屈はよく分からないが、とりあえず指示には従おう。
「いい? 行くわよ」
「ちょ、ちょっと待った! まだ心の準備が出来てない!」
「別にそう構える必要は無いわよ。ただ信じるだけでいいの。もう一つの世界の在り方を。疑わず、受け入れるの」
世界の在り方……か。神や悪魔を信じない僕でも、魂の存在はなぜか抵抗なく信じることができる。それはきっと、僕自身が満月と新月の夜に直接救いを求める声を聞いてきたからだろう。なぜあの声が魂の悲鳴だと認識していたのかは自分でも分かっていない。ただ、そう感じていただけ。こういうのを本能とでもいうのだろうか。
「わかった。そういった世界があるんだって信じる事くらいは出来るよ。神隠しとかはまだ懐疑的に見てしまうけれど」
「そのへんも行けば変わるんじゃないかな。それじゃあ、今度こそ行くわよ」
「おう」
女忍者は目を閉じ、すぐに目を開いた。
「あれ……おかしいな……私だけだった……」
「ん?」
「あなたは隠世に行ってないわよね?」
「いや、そう言われても、どんな場所が隠世か知らないから答えようが……」
「私は今、ちゃんと隠世に行ってきたのよ」
「んん? おかしいな……君が目をつぶって、すぐ目を開いただけだったけど。手はずっと握ったままだったし」
「…………」
女忍者は黙り、考え込む。
「ねえ」
「ん?」
「そのグローブ、はずしてくれない? そのグローブのせいかも」
グローブ? 女忍者の視線を追い、自分の手を見て僕も気づく。もしかして──
「服とか、そういった体の接触をさえぎる物があると駄目ってことか?」
「……と思う。断言はできないけど……」
それは困ったな……。変身を解除しないといけないということか。手の部分だけを解除する事は出来ない。厳密に言えば、静がこの場にいればなんとか出来るかもしれないけど。
僕は少し考え、ひとつの案を提案する。
「じゃあこうしよう。手だけを素手の状態には出来ないから、僕は扉の向こう側、廊下に行く。手を通せるだけの隙間を開けてそこから手をだす。廊下側は覗かないって約束してくれないか?」
「それはいいけど……大事な秘密なんでしょ? そこまで私を信じていいの?」
「ここで疑うくらいなら、昨日の時点で君より先にここを離れたりはしないよ」
「……そう。まあ……あなたがそれでいいのなら、約束するわ」
僕はひとつうなずくと、廊下にでて一旦扉を閉め、変身を解除する。扉を少しだけ開き、そこから右手を出す。ひとつ咳払いをし、少し低めの声をだす。
「ゴホンッ、いつでもいいよ」
僕の手をふたつのやわらかい手が包む。スーツ越しには感じることの出来なかった人の温もりに、変に緊張してしまう。
「では……行きます」
女忍者が短く告げた瞬間、全身に悪寒が走る。
目の前にある木の扉が急に白くなった。
見渡すと、木造の祠全てが白い。
白くて──赤い。
赤い霧に覆われているかのように空気が赤く見える。
空気が赤い?
なんだ?
なにが起きたんだ?
ここはどこだ?
なぜ僕はここにいるんだ?
思考も霧がかかったようにぼやける。
『……ケ………キ…テシ……』
なにか禍々しい声のようなものが聞こえた。
聞こえた?
どこから?
耳じゃない。
脳に直接響いた。
この感覚を僕は知っている。
僕は声の発信源を確認すべく、左手で扉を開こうとした。
だが、うまくいかない。
扉に触れることが出来なかった。
まるで僕の手が実体を失ってしまったかのように扉を素通りしてしまうのだ。
扉と融合している自分の手も白くなっていることに気づく。
ただ白いだけではない。
僕の全身が明確な輪郭を失ってしまったかのように、ぼやけている。
そういえば、僕の右手はどこだ?
扉の奥?
なにか温かい熱を感じる。
心地の良い熱。
扉の先に何があるのだろう。
開けることは出来ないけど、さっきの素通りした感じだと、開けなくてもこのまま通れるのではないだろうか。
試しがてら、僕は扉に向かって一歩を踏み出す。
予想通り、扉をすり抜けることが出来た。
抜けた先に、人の形をした白いものが見える。
僕の右手は、その白い人と繋がっていた。
その奥に目をやると──また別の人影が座禅を組んだ状態で座っている。
何を見るでもなく虚ろに一点を見続けているその目が、突然僕を見る。
白くぼやけた輪郭が崩れ始め、やがて人の輪郭を完全に失い、敵意の塊となって僕に襲いかかってくる。
悲しみ。
恐怖。
怒り。
哀れみ。
嘆き。
憤り。
それらの感情がごちゃまぜになって僕の中に入ってきた。
そのあまりに熾烈な想い、狂気じみた声に、僕はその場から逃げ出したくなった。
逃げたいのに、体が動いてくれない。
足元を見ると、何十もの手が僕を捕らえていた。
怖い。
怖い。
怖い。
僕は恐怖ですくみ上がる。
そんな僕に、背後からまた別の思念が入ってくる。
しかし、それは優しくて、温かくて──
「ぐ……あああ……うがあああああああああああああぁぁぁぁぁ……………うぅぅ……………がああああああああああああああああぁぁぁぁ!」
「落ち着いて! もう大丈夫! ここはあなたの世界よ! お願い、落ち着いて!」
「ハァ……ハァ……ハァ……」
せか……い?
「ハッ……ハァ…………ハァ……」
あれ……僕、何をしていたんだっけ……?
破裂するのではないかと思えるほど心臓が激しく脈打っている。
「大丈夫。もう大丈夫だから」
「…………」
優しい声。心が落ち着いていく。
なぜか僕は即身仏に向かって左手を伸ばし、法衣を掴もうとしている状態だった。視線を下に向けると、黒装束の小柄な女性が顔を下に向けたまま僕に抱きついている。その姿に、ようやく意識が明確になった。
僕は何をしているのだろう。何をしようとしていたのだろうか。
「落ち着いた? 大丈夫なら早くエッジ君の姿に戻って! 顔を見ないように頑張ってるんだから!」
ああ……僕は今、変身を解除している状態だったか。こんな状況でも僕との約束を守ろうとしてくれているのがうれしかった。
僕は右手のブレスレットを操作してエッジの姿に戻る。僕の外見の変化に気づいたのか、女忍者は僕から離れ、感嘆の声を上げる。
「わぁ、すごい! 一瞬で変わっちゃった」
僕の体を興味深そうに眺めている。
「ありがとう。僕の顔、見ないでいてくれたんだね」
「や、約束だし、ね……」
女忍者は横を向き、照れ隠しのように口元のマフラーを目が隠れるくらいまで引っ張り上げる。
「なにがどうなったのかよく分かってないんだけど、僕、どうなったんだ?」
「ちゃんと隠世には行けたわ。その後……あなたが扉を抜けてきたと思ったら、急に即身仏の魂がざわつきだして……。そしたらあなたも急に叫びだして……ホントは十五秒くらいで戻るつもりだったけど、五秒くらいで慌てて戻ったの。こちら側に戻ってからもあなたは軽い錯乱状態になっていたみたいで、即身仏に向かっていったから必死に抑えていたの」
「即身仏に……?」
「覚えていないのね。自覚がないだけなのか、それとも他の誰かの意思が働いたのか──」
女忍者は考え込む。
五秒だけとはいえ、僕はちゃんと隠世に行けたのか。
冷静に振り返ってみると、赤い世界の記憶が鮮明に蘇ってくる。
隠世では人としての輪郭がぼやけているのに、なぜか『目』だけは明確に認識することができた。そして突然ぶつけられた憎悪。怒り。
あれはなんだったのだろう。なにか憎まれるような事をしただろうか。
そういえば、この祠に穴を開けてしまったか。即身仏の右奥の壁に目をやると、すでに補修されていた。
「祠に穴を開けられたから怒っていたのかな?」
「分からない……あんな明確な敵意を見たのは初めてだわ。悪霊にでもなったのかと思ったくらい」
「悪霊とか、本当にあるんだ?」
「うん。でも今はそういうのでは無かった。白かったでしょ? 悪霊化したら黒くなるもの。やっぱりこういう場所で肉体ごと行くのはまずかったのかな……」
「君でも分からないのか……。しかし、たった五秒だけだったのか……けっこう長く感じたけれど。周りを見渡して、扉を抜ける方法を考えて、実際に通り抜けて──」
「時間の概念がないからね。隠世にいる間は、現世の時間は進んでいないし。どれだけ長くいようと、こちら側からしたらほんの一瞬の出来事なのよ」
我勇さんの言っていた事は、このことだろうか。
「自らは時間という概念を持たず、こちらの世界の時間に合わせている──て事かな?」
「そうだけど……的確な表現ね。びっくり」
我勇さんからの受け売りだけど、そこはあえて言うまい。
「そこまで分かっているのなら隠しても仕方ないわね。特別に見せてあげるわ」
そう言うと、女忍者はその場で軽くジャンプした。そして──僕の視界から消えた。誰かが背後から僕の肩を叩く。振り向くと、女忍者がいた。いた、と認識した瞬間、また消えた。
「こっちよ」
声のするほうに視線を向けると、今度は部屋の隅にいた。また消え、僕の目の前に突然現れる。
これはまさに瞬間移動というやつではないだろうか。
「いったい、なに……を?」
「ふふっ。さっき言った時間の概念の違いを利用しているの。隠世に行き、向こうで移動してこちら側に戻ってくる。私はむこうで移動に時間を使ったけれど、こっちでは使われていない。だから擬似的な瞬間移動が成立するってわけ」
これまた我勇さん並のビックリ人間に出会ってしまったものだ。
隠世で扉を通り抜けた自身の体験を思い出す。
「もしかして……扉が開いていないのにここに突然現れたのも……」
「そう。向こうにあるのは魂だけ。こちら側でどれだけ分厚い壁があっても私には無いに等しい。ビルであったり、家だったり──この祠でさえも、『無いもの』として素通りできる。重力からも解放されるから空を飛ぶことだってできる。どれだけ離れた場所でも──たとえ日本の真裏でも、私は一瞬で行くことが出来るの」
えっへん! といわんばかりに女忍者は胸を張る。
「大事な秘密なんじゃないのか? 僕なんかにバラしていいのか?」
「私の素性以外は全部話すつもりだったもの。あなたに知られたところで、なにも不利益は発生しないと思うし。もっとも、役に立つ情報かどうかも分からないけどね」
「いや、助かるよ。いろいろと頭の中を整理する必要はあるけど、自分の知らなかった世界を実感できたんだ。また少し視野が広がった気がする」
「ならいいんだけどね。さて、それじゃあ本題。神葬りの話にいきましょうか」
そう言うと女忍者は背中の刀を抜き、捧げ物でもするかのように両手で掲げ、その場で正座する。
僕もそれに習って座る。
「この刀──神葬りもね。沢山の人の残滓を有しているの」
女忍者は静かな口調で語り始めた。




