六月⑨ ヒント
翌日の木曜日の朝。
教室の扉を開いた瞬間、僕は固まった。
朱ちゃんがまるで通せんぼをしているかのように立ちふさがっていたからだ。
「えーと……朱ちゃん? 元気になっ──」
「ごめんなさい!」
朱ちゃんは僕の言葉を遮り、いきなり謝罪の言葉を口にして頭を下げた。なにか謝られるようなことをされただろうか?
そんなことをのんびり考えていた僕は、クラスのみんなの視線が僕と朱ちゃんに集中していることに気づき、慌てて朱ちゃんの手を取って廊下に出る。
「なんで僕が教室に入った瞬間に振られたみたいなシチュエーションになってんの!? 僕の知らないところで何が起きてるんだ??」
「あ、ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったんだけど……」
「じゃあなんで僕、謝られてるんだ?」
「あの、その……メールくれたのに返事できなくって、えっと、返事するタイミングを失ったといいますか……心配かけちゃったと思って……」
ああ、そういうことかとようやく状況を把握する。
「そんな事なら、わざわざ謝らなくてもいいよ。返事するのが義務って訳じゃないんだし。治ってよかったじゃないか」
申し訳なさそうに俯く朱ちゃんの頭に手をのせ、軽くなでる。
「うん……ありがと」
「少し痩せた? 食欲まだ戻ってない感じ?」
僕は顔の輪郭の変化を確認しようと朱ちゃんの頬に手をもっていく。
すると朱ちゃんは突然「ひゃわ!」っと妙な声をあげ、一歩下がる。
「ちょ、ちょっと体重は減っちゃったけど、す、すぐ戻るよ、うん」
「そっか。だったらいいんだけど」
「も、もう……いつからそんな天然ジゴロみたいになったのよ……」
「ん?」
「なんでもない! ちゃ、ちゃんと謝ったから、ね。だから、あの……その……」
朱ちゃんは体ごと横を向き、目を逸らしながら辿たどしく言葉を続ける。
「……返事遅れちゃったけど……パフェ屋さん、ちゃんと連れて行って、ね」
朱ちゃんの言葉に、そんな内容のメールを送ったのを思い出す。完全に忘れていた。今日の放課後に女忍者と会う約束をしてしまっている。最悪だな、僕……。
「ああ、そのことなんだけど……ごめん。しばらくバイトのほうが忙しくなるんだ。一週間くらいで落ち着くとは思うんだけど……来週以降のどこかでもいいかな?」
「ぜんぜん急いでないから、平気だよ! パフェを食べられるなら、何年だって待てるわ!」
さすがパフェラヴ朱ちゃん。よく分からない理屈を口にする。
「それに……今日は私も用事があるんだ」
朱ちゃんの表情が少しだけ陰る。その表情は、まだ友達になる前の一年前を思い起こさせる。
一年前の事を思い出すたび、朱ちゃんにはいつも笑顔でいてほしいと願わずにはいられない。
「なにかあった?」
「えっ、なにかって……?」
朱ちゃんはいつもの明るい表情に戻っていた。気のせいだったようだ。
「いや、いつもだったら有耶とどこどこ行くのとか、はっきり言ってたのになと思ってさ。用事って言葉が珍しく感じただけ」
「あー、うん。言われてみればそうだね。自分でも珍しいかも。でも大丈夫。普通の用事だから」
「ならいいけど。もし何か困った事があったら、遠慮なく言ってくれよ。僕に出来ることならなんだってするからさ」
「…………」
朱ちゃんは何も言わず、僕の目をじっと見ている。どうしたのだろう?
「朱ちゃん?」
「あ、ううん、なんでもない! 心配してくれてありがと。そろそろ戻ろっか」
「そうだな」
廊下で立ち話をしていた僕達は教室に戻り、各々の席に着く。
隣の席の有耶と挨拶を交わし、一時間目の授業の準備をしていると、有耶が僕の方に体を少し傾け、小声で呼びかけてくる。
「空門、空門」
「二回も連呼すんな、聞こえてるって」
「朱ちゃんの様子、どうだった?」
「様子?」
「いつもと変わらない?」
いまいち有耶の質問の意図が分からない。
「なんの話だよ? 見た目のことなら少し痩せたかなって思ったけど、風邪ひいてたんだから普通のことだろ」
「そういうんじゃないの!」
「じゃあ、なんなんだよ」
「ずばり、男の影を感じる!」
「はあ?」
なんだよ、男の影って。あいかわらず意味の分からない奴だ。
「今日の放課後に駅前のパフェをおごってあげようと思って誘ったのよ。そしたら、パフェの誘惑を振り切って断られたの!」
「そりゃ先約があればどんなに好きなものでも断るだろ……」
「そうなんだけど、なんか変なのよねぇ……」
「だからなにが?」
「予定があるのは良くあることだけど、あの子に『用事』って言葉で濁されたの、初めてなのよね」
確かに僕も一瞬疑問に思ったけど、僕達の知らない人物との約束とかなら詳しく言うはずがないなと思えた。
「ほっといてやれよ。仮に有耶の言うとおり男絡みだとしても、それはそれでいいことじゃないか。あんなに可愛い子なんだ。むしろ彼氏がいないほうが不自然だろ?」
「そういうの、絶対にないわよ」
さらっと断言しやがった。
「なぜ言い切れる」
有耶は更に声のトーンを落とす。
「なぜもなにもないわ。一年前の事を知ってるあんたなら分かるはずよ。男に心を開いているのはあんただけなんだから」
「…………」
「だからさ……また変な男に目を付けられてるんじゃないかって心配なのよ……。何かあったらすぐ相談しなさいって言っても、私とかに迷惑をかけまいとして自分ひとりで抱え込んじゃう子だから。現に一年前は気づいてあげるのが遅れた。平気なふりをされていたから。友達なのに、か、それとも友達だから、なのか──」
「後者だろうさ」
「……私もそう思う。思いたい。だからこそ、気づいてあげたいの。今度こそ、ちゃんと守ってあげたいの」
「言いたいことは分かったよ。気持ちも分かる」
「ニブチンのあんたが本当に分かってるとは思えないけど」
「ほっとけ。どっちにしても、しばらくは見守るしかないんじゃないのか? いざとなれば、僕がなんとかするよ」
「でたでた、正義マン」
「茶化すなよ……」
「私にとっては、あんたも心配の種なのよ」
「僕が? なんで?」
「あんたはあんたで、なんでも背負い込みすぎなのよ。なんとかするって誰それ構わず簡単に言うけどさ。簡単だった試しなんて無いんじゃない?」
「…………」
「知らない人を助けに行っては怪我して。骨折したこともあるじゃない。あんたさ、私や朱ちゃんが心配しないとでも思ってるんじゃない? 私としては、あんたにも動いて欲しくないの」
「……心配してくれるのは、ありがたいことだって思う。でも、だからって目の前に困っている人がいたら、放ってはおけない」
「そう言うだろうなとは思ってたわよ。だからまあ、しばらくは私が朱ちゃんをよーく見とく。あんたは何か気づいたら私に教えて。くれぐれも勝手に動かない! 分かった!?」
細メガネの奥の瞳が僕を睨みつける。とても拒否できる空気ではない。
勝手な行動をして我勇さんに怒られたばかりだ。そのへんは反省しないといけない部分なのだろう。
「……分かったよ」
「よろしい」
有耶は満足げにうなずくと、さっきまでの真剣な顔から一転していつもの調子で言う。
「じゃあさ、ちょーっと世界史の宿題、貸してくんない? まだなんだ。えへ」
「えへ、じゃねえよ。宿題くらいたまには自分でやれ」
「家に勉強は持ち込まない主義なのよ〜」
どんな主義だよと毎回つっこみたくなる。そんな変な主義のせいで成績が悪いのならもっと強く言えるのだが、どういうわけか有耶の成績はトップクラスだ。どの科目も学年順位の十位以内に入っているものだから、何も言えなくなってしまう。
有耶の成績を支えているものは、授業中の集中力にほかならない。授業中、有耶に紙くずを投げる程度のちょっとしたいたずらでもしようものなら、次の休み時間に鬼の形相で怒られる。学校の授業ですべてを吸収し、家に帰れば宿題さえもしない徹底した切り替えっぷり。
一年の時に質問したことがある。ちゃんと授業内容を理解しているのなら、わざわざ僕に借りて写さなくても自分で解けるじゃないか、と。その質問への返答は単純なものだった。
「そりゃあ時間をかければ解けるけど、その時間がないじゃない。休み時間が短いのが悪いのよ」
休み時間に罪をなすりつける有耶だった。
真面目なのか不真面目なのかよくわからない有耶ではあるが、ちゃんと結果を残している以上はそういうスタイルも認めざるを得ない。
「間違えてても責任もたないぞ」
「テストの点以外なんの価値も無いわよ~」
先生が聞いたら激怒しかねない発言を平然としつつ写し始める有耶。
僕は溜息をひとつつき、窓際の席に座る朱ちゃんに視線を送る。朱ちゃんは携帯をいじっていた。しばらくすると、突然僕の方を向いて目があった。朱ちゃんはおもむろに手でピースサインを作り、微笑む。
なんだろうと思った瞬間、僕の携帯が震える。ポケットから取り出すと、朱ちゃんからメールが届いていた。
『私もそっち側の席になりたーい!』
うん。いつもの朱ちゃんだ。有耶が心配性なだけだと思う。朱ちゃんのことは有耶にまかせておいても大丈夫だろう。
僕は、放課後に予定している自分自身の問題に思いをはせる。女忍者と会う約束は取り付けた。あとは、どんな話をするか。
我勇さんがくれたヒントその一は『先入観』だった。
漠然としすぎですよ、我勇さん。




