五月① 有耶と朱姫
「お―い、空門〜」
高校二年になって初めての中間テスト。その最終日の土曜、最後のテストが終わりを告げるチャイムが鳴り、答案用紙が回収されると同時に、右隣の席に座る風葉有耶が僕の名を呼ぶ。
うちの学校の制服である丸襟ブラウスにスカイブル―のネクタイはいいとして、紺色のスカ―トは限界まで短くしている。ちゃんと見えているのかといつも不思議に思う細メガネと、少しクセのあるショ―トヘア……どれだけ短い、細いが好きなんだか。
僕よりほんの少し背が高い同級生の女の子だ。有耶が女子の平均身長を底上げしているというだけであって、僕の身長が極端に低いという訳ではない。これでも僕は百六十五センチはあるのだ。もっとも、高校二年生男子の平均身長が百七十センチというのを考えれば、僕は低い方に分類されてしまうのだろうけど。
有耶とは中学一年の時に同じクラスになり、それ以来なにかとからんできてくれる。けっして人付き合いがいいとは言えない僕にとって、数少ない友達のひとりだ。とはいえ、友達と呼べるほどの仲になったのは高校一年の夏休みくらいからで、正確にはまだ一年も経ってはいない。
「……なんだよ?」
そんな有耶に、僕は寝起きのような不機嫌な声で返事をする。テストの余った時間を睡眠に費やしたために、本当に寝起きだったのだが。
「しゃきっとしなよ。あんた、今日バイト休みだよね? テストも終わったことだし、遊びに連れてってあげようっていうのよ。あ、り、が、た、く、思いなさい」
「いや迷惑だから。ありがたくないから」
「迷惑とか言うな。まったく……断るにしても、断り方というものがあるでしょうに。仕方ないなぁ、そういう悪い子には裏技を……」
嫌な予感がして、僕は今すぐこの場から立ち去りたい気分でいっぱいになった。どうやって逃げだそうかと思考をめぐらせる間もなく、有耶は言った。
「そんなこと言うと……朱ちゃんのパン──」
おそらく、朱ちゃんのパンツの色を公表するわよ! と言いたかったのだろう。前例があるだけに、容易に想像できてしまう。そして、それを言わせまいと、有耶の背後に突然現れ、有耶の口を塞いで難を逃れた女の子は、夜凪朱姫──朱ちゃん。
朱ちゃんのスピ―ドは、時に光速を越えているのではないかと思うことがある。一学期の間は出席番号順に座るのだが、その関係で苗字が夜凪――や行の朱ちゃんは窓際の後ろの方になる。にもかかわらず、廊下側に近い僕達の席に、有耶の言葉を途中で止められるほどに素早く来るのは、かなり無理がある。
まったくもって不思議な子である。
「ん〜っ! んん〜っ!」
口と、ついでに鼻も塞がれてしまった有耶がギブギブ! とばかりに朱ちゃんの手を軽く叩く。
「まったくもう……ほんと油断ならないんだから。私のプライバシ―をなんだと思ってるのよ。そもそも、体育の授業も無いのになんで知ってるかな」
朱ちゃんがあきれながら、有耶を解放する。
「ふぅ……見えちゃいけない川が見えたわ……」
「be one's own fault」
英語が苦手な僕には朱ちゃんが何を言ったのか理解できなかった。
「違った、自業自得!」
たまに無意識に英語がでてしまうようで、すぐに日本語で言い直す朱ちゃん。この女の子もまた、僕の数少ない友達の一人だ。
彼女はアメリカ人の父と日本人の母との間に生まれたハ―フの子で、美少女と呼ぶに相応しい整った顔と、父親譲りの少し赤みがかったセミロングの髪がクラス内でも特に異彩を放っている。背は僕よりもかなり低い。本人曰く百五十センチだそうだが、四捨五入しているという噂も聞く。有耶の横に並んだ時の身長差による凸凹コンビっぷりは、ある意味お似合といえる。
小学校を卒業するまではアメリカで育ち、日本に来てまだ四年ほどしか経っていないこともあって、英語は常に満点だが、国語や古典が苦手らしい。
一年生の時の夏休み前、友達というものに無縁だった僕に、有耶と朱ちゃん二人の友達ができるきっかけになった女の子でもある。そのきっかけは悲しい出来事であり、朱ちゃん自身も忘れたい過去であろうから、僕のほうから誰かに詳細を話すことは無い。
「でも朱ちゃんとなら、一緒に川を越えるのも有りね。まさに一線を越える、みたいな?」
ようやく息が整った有耶が懲りずに軽口を言う。
「いや、そう得意げに言われてもうまくないし、そもそも私は越えたくないし」
「もぅ、つれないんだからぁ」
そう言いながら有耶は、お世辞にも大きいとは言いがたい朱ちゃんの胸元に顔を埋める。そんな有耶を必死に引きはがそうとする朱ちゃん。
見慣れた光景である。こんなレズまがいの行動を教室で堂々とするから、二人とも彼氏が出来ないのではないだろうか。誰とでも気さくに接することができる人なつっこい有耶と、容姿端麗な帰国子女の朱ちゃん。普通なら彼氏がいそうなものだが、そういった話をまったく聞かない。助言してあげるべきなのだろうかと真剣に悩む。
「それで……? 今日はどこに行きたいんだよ」
とりあえず話だけでも聞かないと解放してもらえない気がしたので、じゃれ合っている二人に声をかける。
「あ、そうだそうだ。忘れてた」
言い出した有耶本人が忘れていたのなら、聞いて蒸し返すんじゃなかったな、と後悔した。
「ほら、駅前に新しくカラオケ屋ができたじゃない。今ならオ―プン記念で六時間歌い放題、三百円! これは行くっきゃないっしょ!」
「二人で行ってくればいいだろ。その方が沢山歌えるんだし」
「違うの、空門くん!」
朱ちゃんが突然、間に割って入ってくる。その時点で、次の言葉がある程度予想できてしまった。この甘党がおそらく言うであろうことは──
「あのね、三人以上で行ったら、パフェを百円で注文できるの!」
予想通りだった。朱ちゃんは甘いもの──特にパフェには目がない。パフェとなら結婚してもいいと、意味不明な発言を平気でしてしまう女の子だ。そんな朱ちゃんが、百円パフェに黙っていられるはずがない。
「いきなりデザ―トかよ……。じゃあ昼飯もそこで食べるのか?」
パフェのすばらしさを今にも熱く語り出しそうな朱ちゃんを抑えながら、僕の質問に有耶が答える。
「うん。パフェに限らず、全部安いみたいだよ」
「ふ―ん……ま、コンビニ弁当を買って帰るつもりだったし、弁当代から少しのプラスアルファでカラオケ付きなら悪くないか」
「イエス! 気が変わらないうちに行こう行こう!」
朱ちゃんはノリノリである。
「行くのはいいけどさ。とりあえず、終礼を待とうぜ」
僕の言葉に、我に返るふたり。いつのまにか担任が教壇に立っていた。担任の咳払いを機に、あわてて席に戻るふたりを眺めながら、ふと思う。
土曜日は毎週なにかしらに誘われて、一緒にお昼を食べている気がする。
僕は小学生の時に、この町で起きた大きな事件に巻き込まれ、その時に母を亡くしている。父は土曜日も仕事だから、その事件以降、土曜日のお昼はずっとひとりで食べていた。
一年の夏休みまでは。
無意識に苦笑いを浮かべてしまう。本当に、お人好しな二人組だ。うれしい気持ちがある反面、怖くもある。
あの日──目の前で母が死んでいくのを……殺されるのを目の当たりにした。その時、僕の──空門刃月の心は壊れた。
以来、根拠のない不安感に毎日襲われ、医師からは不安障害と診断された。だから僕は全ての不安を心から排除した。大切な人を失うのがこんなにも悲しいのなら、大切な人を作らなければいい。誰にも関わらずに生きていけば、悲しむ必要も不安に思うこともない。悲しい思いをさせる事もない、そんな風に思った。
それだけでは飽きたらず、事件の場にいなかった父を憎み、父とも距離を置くようになった。今思えば、非常に子供じみた八つ当たりだ。
そんな歪んで病んでいた小、中学時代。あの時代の僕に戻りたいと、今も思う時がある。仲良くなればなるほど、その別れはつらいものになる。それが怖くて──怖くて。
けれど、人のやさしさに触れている時の心地よさが、昔の自分を拒否してしまう。
結局の所、これは僕の心の弱さで、悲しむ事から逃げているだけ。体だけじゃなく、心も強くならないといけない──朱ちゃんと有耶の存在が、そんな風に僕を前向きな気持ちにしてくれる。
それは本当に──心の底からありがたいことだと思う。