六月② 英雄
放課後、僕は我勇さんが事務所を構えるビルにステルスモードで向かった。
ステルスモードの唯一の欠点は、腰よりも下があるロングコートや背中が盛り上がるリュック、帽子や手荷物までは透明になってくれないという所だ。人間としてのシルエットに該当しないものはスーツ内に収めることができないから当然と言えば当然なのだけど。
たとえば冬にロングコートを着てリュックを背負いながらステルスモードにすると、ロングコートとリュックだけが浮遊している不気味な状態になってしまうというわけだ。
リュックを置いて帰ることが出来ない学校帰りの現在、もし空を見上げる人がいたとすれば、リュックだけが空を高速移動しているのを目撃することになる。
そもそもの話として、緊急時でもないのにスーツを使うのはどうかとも思うが、移動の練習にもなるし、一度慣れてしまえばこれほど快適な移動方法もないので、つい使ってしまう。いつでも空から来いといわんばかりに我勇さんがビルの屋上の鍵を貸してくれたのも理由のひとつだ。
何事もなくビルにたどり着き、屋上から中に入って七階に降りた。入口前まで少し歩き、インターホンを押すと扉が自動で開く。中に入って広いリビングに出ると我勇さんが左奥のキッチンから声をかけてきた。
「よう。そろそろ来るころだろうと思ってコーヒーを煎れておいた」
「なんでもかんでも行動を読まないでもらえます……?」
「嫌なら読まれない行動をすればいいだけだろ。単純すぎる奴が悪い」
「はあ……」
読まれない行動とか、何をどうすればいいのかさっぱり分からない。
我勇さんが笑みを浮かべながら聞いてくる。
「反応を知りたいんだろ?」
「あ、はい」
「ははっ、素直だな」
我勇さんに促されるままソファーに座ると、煎れたてのコーヒーを出してくれた。
「ジュースのほうがよかったか?」
「いえ、好き嫌いは無いのでなんでも大丈夫です。あ、でも砂糖はほしいです」
「シキナに聞かせたい台詞だなぁ」
魚嫌いを宣言していた昨晩のやり取りを思い出し、僕は苦笑いをする。
我勇さんはテーブルのほうに戻り、コーヒーをひと口飲んでから話し始めた。
「さて。本題にはいるか。とりあえず知名度を上げるという点では、満点の結果だ。俺のPCはマスコミからの取材依頼メールで埋め尽くされている。取材は受けないと書いてもおかまいなしだ。まったく迷惑極まりない」
「そういえば電話番号とかサイトには載っていなかったですね」
「問い合わせ関連はメールかサイト内チャットでのやり取りだけにしているからな。仕事をこなす人間は世界中にいるが、なにか問題が発生した時にそれをとりしきるのは俺とシキナのふたりだけ。電話対応なんてやってられねぇ。チャットでの問い合わせは知り合いの兄妹にまかせてるがな」
「なるほど。そういえばシキナさんは……?」
「爆睡中だ」
「……夜中に仕事とか大変そうですね」
「あいつは夜じゃなきゃダメなんでな。丁度いいんだよ」
「夜じゃないとダメ……?」
「理由を知りたいか?」
ニヤリと笑う我勇さん。プライバシーに関わることだし、遠慮しておこう。
「いえ……それより、僕に出来る仕事、ありそうですか?」
「ん? あ〜、今の所は特に無いな。お前に回してもいい案件もあるが、逆に言えばお前じゃなくてもいい仕事だからなぁ。適正レベルが低すぎる仕事しかない」
「なにか過大評価されすぎてる気がしますが……雑用みたいなのでもいいので、なんでもしますよ?」
「お前には俺やシキナと同レベルの仕事をしてもらう予定だ。一の仕事を百するよりも、百の仕事を一で借金返済のがいいだろ?」
「ちゃんと返済さえできれば僕はどちらでもかまいませんが……。いきなり我勇さんと同じように仕事が出来るとも思えないですし」
「シキナに出来て、他のやつが出来ない仕事なんざ無いから安心しろ」
シキナさんの過小評価っぷりがすさまじい。昨日のいざこざを見ている限りでは僕よりも戦闘力は上だと思うのだけど。
「ま、そう焦るな。利子とかは無ぇしよ。あとな、返済が済んだあとも仕事を続けていいんだぜ?」
「ありがたいお言葉ですけど、まだ将来の事とかあまり考えていないので……卒業してどこかに就職すれば、今みたいに時間に余裕のある状況じゃ無くなるでしょうし」
「そうだな。大学に行くも良し、就職するも良し。自分の将来だ。じっくり考えて結論を出せばいいさ」
「……はい」
失礼な話ではあるが、あまりに真っ当な返答に少し驚く。普段の言動などから、もうすこしいいかげんな人かと思っていたけれど、ちゃんとした大人だったんだと認識を改めさせられる。
「あの、質問してもいいですか? 昨日の強盗の件ですけど……もし事前に分かっていたのなら、僕がその時間にあそこに着くように調節する事は出来なかったのですか?」
「仲のいい情報屋が押し売りしてきた情報の中に偶然この近辺のものがあった。やばい薬を買った奴がハイロー九尾店に入っていったってな。何か起こりそうだったから静嬢に打診してみただけだ。俺だって全てを知ることができる訳じゃない。知らないことはある。たとえば──お前がちゃんと過去のトラウマを克服しているのか、そこまでは知らない。だから今回は静嬢を選んだ」
「トラウマ……?」
「そうだ。お前はちゃんと戦えるのか? 大勢の人がいる前で──展望エリアのレストランで刃物を振り回しながらレジの金を奪おうとしている相手を見て、平静でいられるか?」
ニュースを見た時は何も感じなかったのに、我勇さんの言葉を聞くと、まるでその現場にいるかのような錯覚に陥ってしまう。刃物。人だかり。それは──
「何を──知っているのですか?」
「俺が知っているのは過去だけだ。今より先は何も知らない」
過去という言葉を聞いた瞬間、ある映像が脳裏に蘇り心臓の鼓動が少し早くなる。
繁華街に繋がる大きな駅。母に手を引かれ、乗り換えるために電車を降りた時、ホームに突然悲鳴がこだました。
あまりにも人が多くて何が起きているのか僕には分からなかった。
少しすると人だかりが開け、隙間から刃物を持った若い男が見えた。
ひとりの女性が僕達の方に逃げてきた。男はその女性を追いかけるように奇声を発しながら僕達の方に走ってくる。女性が背中を斬られ、目の前で崩れ落ちていくのがスローモーションのように見えた。僕は恐怖の余り足が震え、動くことが出来なかった。そんな僕をかばうように立っていた母が僕の目を見ながら言った。
「向こうに逃げなさい! いいわね?」
それは、僕が聞いた母の最後の声。母は僕の背中を押し、男のほうに走っていった──
「死傷者二十五名──うち十名死亡。そんな六年前に起きた通り魔事件において、ひとりの女性が英雄と称えられた。男に単身立ち向かい、自らの体に刃が刺さったのを良しとして、それを抜かせまいと堪え、そして警察が男を取り押さえるのと同時に力尽きた。名前はたしか──空門楓」
「…………」
「同じような場面で、お前はちゃんと動けるのか? 強力な力を得た今、正しい行動をできるのか?」
正しい行動。それはきっと、平静を保ち、相手を殺さず捕まえることができるのかという問いかけだろうか。
大丈夫だ。今の僕なら──大丈夫。復讐や憎しみで人を傷つけてはいけない、憎む相手と同じ事を自分がしてはいけないと刑事さんに諭された。その時、僕の中にくすぶっていた怒りの感情は消えた。
もちろん、あの日の光景を思い出すと今でも悲しくなる。平気ではいられない。一生忘れる事なんて出来ないだろう。だからこそ、母がそうしたように──今度は僕が誰かを守る。そう決めたんだ。だから──
「大丈夫です」
「そうか。だったら次は静嬢を通さずに連絡してやるよ」
大丈夫。それはもちろん自信があっての言葉だ。しかし今は少し事情が違う。今の僕には力の加減を少し誤るだけで簡単に人を殺してしまえる力がある。それを思い出し、少しだけ不安になってしまった。その不安を口にする。
「でも……もし僕が間違った行動をしてしまったら……止めてくれますか?」
「おう。そん時は俺が殴り倒してやるよ」
乱暴な言葉ではあったが、それでもなぜかこの人は信用してもいいんだと思えた。
なぜ静にまかせたのか、疑問のひとつは解消した。続けて疑問を投げかける。
「もうひとつ……強盗がいたのは展望エリアですよね? さらに上にあるヘリポートから静が落ちるのと関連は無いですよね? あと、事前に落ちる告知も意味不明だってニュースでも言ってましたよ?」
「ああ、そのへんは近いうちにデモンストレーションだったと白状するつもりだ。今はまだ謎のままにしておく。あえて議論の余地を残す。全ての解答がでてしまったら世間からの関心が無くなってしまうからな」
「悪質な宣伝だと叩かれませんか?」
「名前さえ一度広まってくれれば、あとはなんとでもなるさ。責任はラストリゾートが持つ。エッジの名前には汚名が残らないようにうまく処理するさ」
「でも、それだとラストリゾートが……」
「水道管だの犬猫探しだの、そんな表の顔の儲けにはそれほど依存してないんだ。ラストリゾートの名前の由来──最後の切り札。どうしようもなく追い詰められた人間が最後にすがる場所。そんな裏の顔こそが本職だから何も問題ない」
裏の顔……僕なんかが立ち入ってはいけない世界のような気がして、それ以上は聞けなかった。
「お前が心配するような事じゃない。せいぜい仕事でヘマをしないように、そっちを心配しとけ。仕事の失敗までは面倒見ないぜ」
「はい……肝に銘じます」
「フフン、いい子だ。このあとは静嬢ん家に行くんだろ? よろしく言っといてくれ」
「だから、先を読まないでください……」
我勇さんは笑いながらキッチンで後片付けを始める。昨日見た時は、その風貌とキッチンとのギャップに違和感があったが、二回目ともなればさすがに見慣れてしまう。
僕は立ち上がり、お礼を述べて我勇さん宅を後にしようとした──その瞬間だった。
ドンッ!
重い音が頭に鳴り響き、まるで何百人もの人間が僕の上に乗りかかってきたような奇妙な錯覚に襲われ、思わず片膝をついてしまう。
その重みは一瞬で僕の体を通り過ぎ──『助けて』という言葉を残して下に抜けていく。その際、僕の全身には鳥肌が立ち、冷や汗がにじみ出る。
おかしい。
全身の違和感とともにやってくる声は新月か満月の時にしか聞こえないはずだ。そして夜限定。今はそのどれにも該当しない。
それにもうひとつ。声と一緒に視えるはずの場所が明確にイメージできない。どこに行けばいいのか分からないのだ。身体の違和感もいつもより重く、少しだけ長かった。
声が聞こえる事以外は初めてのことばかり。
……なんだ? どうなっている?
自問自答をするが、答えなどあるはずもなく困惑していると、我勇さんが誰に言うでもなく独りごちる。
「ほぅ……こいつは久々に大きな仕事がきそうだ」
我勇さんが楽しそうに言う。今の「声」が聞こえたのは僕だけではなかったのだろうか。それともまったく関係のない独り言?
「この程度の思念にうろたえるなよ。本番はもっとキツいぜ?」
今度は僕のほうを向いて語りかけてくる。
「本……番?」
「ああ。静嬢の願いを聞き入れたんだろ? 悪魔とケンカするのなら、もっと心を強くしとけ。そんなんじゃあ『奴』を見た瞬間に心が死ぬぞ」
まるで静の言うところの悪魔を知っているかのような言いよう。
我勇さんのさっきの言葉を思い出す。どうしようもなく追い詰められた人間が最後にすがる場所、ラストリゾート──
ひとつの疑問がわいてきて、口にする。
「あの……もしかして、静は我勇さんのところに依頼を……」
「ああ、来たぜ。それが知り合うきっかけだったしな」
あっさりと肯定されてしまった。矢継ぎ早に質問を続ける。
「引き受けなかったのですか?」
「ああ」
「なぜです?」
「なぜだろうなぁ」
他人事のように言って我勇さんは答えをはぐらかす。二人の間にどんなやり取りがあったのだろう。僕が戦う相手というのは我勇さんでも勝てない相手なのか、それとも他に理由があるのか……。
気にはなるが、これ以上追求しても答えが返ってくるとは到底思えなかったので、ここは素直に諦め、新しい性能を追加されたスーツを受け取るために静の家に向かうことにした。
ここで追求することをあきらめてしまった事を、僕は今でも後悔している。
無知ならば無知なりに知ろうという努力をするべきだったのに、僕はそれをしなかった。その結果、誰も望まない──いや、静だけが望む結果になってしまったのだから。