五月⑫ 紅い瞳のシキナ
「自分を人だと思うな。固定観念を捨てろ。自らを鉄の塊だと思え。人間だって認識があるから俺の攻撃程度で吹っ飛んじまうんだ。ダメージを逃がす必要はない。喰らいながら喰らいつくせ」
生身での戦い方をたっぷりたたき込まれたあと、スーツを使っての戦い方講座に移行した。
いくら自分が無敵の状態であったとしても、相手の攻撃による衝撃に対してダメージを極力減らすという自衛本能が無意識に働いていたようだ。認識を改める事で我勇さんの攻撃を普通に防ぐことが出来るようになってきた。
夕日が沈み始めた頃、これで最後だといわんばかりに強烈な蹴りを食らう。僕は両手でガードするが、数メートル後ろに吹き飛ばされる。しかし僕は防御の姿勢を維持したまま、倒れはしなかった。
「上出来だ」
その言葉を聞いた瞬間、体中の力が抜け、大きく息を吐き出す。ブレスレットに表示されている時刻を確認すると、十九時前だった。二時間以上もビルの屋上で戦い続けていたらしい。どうりで精神的な疲労が大きいわけだ。
軽い脱力感に襲われて地面に膝を突き、変身を解除する。
「気が済んだかしら?」
今まで一言も発しなかった静が我勇さんに声をかける。そこでようやく二時間以上も静を放置していたことに思い至る。
僕は慌てて静の元に駆け寄り、謝罪をする。
「ごめん、夢中になりすぎてた。ほんとごめん!」
「謝ることではないわ。別に刃月を待たずとも私一人で帰ることくらいできますしね」
「えっと……じゃあ別にまだ用事が?」
「私には特に無いけれど……ね」
脱いでいた上着を拾い上げている我勇さんに静が視線を送る。その視線に答えるように我勇さんが静に声をかける。
「静嬢。丁度いい時間だ、寄っていけよ」
「わざと丁度いい時間に合わせておいて、よくもぬけぬけと」
「ハハっ、まあいいじゃねえか。寂しがってるぜ、たまには会ってやれよ」
「彼女が寂しがるとは思えませんけどね。まあ──刃月にも顔合わせをさせておいたほうがいいでしょうし、行きますよ。その為にわざわざ待っていたのですから」
ふたりの会話の内容についていけない。静の言う彼女とは誰のことだ? 顔合わせ?
「行きましょうか、刃月」
静に促されるまま二人について行き、ビルの中に入って階段を降りていく。
七階に着いたところで廊下に向かう。マンションなら四戸分はありそうな距離を進んだところで止まった。部屋に入るための扉は途中には無く、突き当たりにひとつあるだけだ。
我勇さんが扉を開け、静の後について僕も中に入る。すぐに通路が左右に分かれていた。誰も靴を脱がないまま左に進んでいったので、僕も土足のまま二人の後を追う。
突き当たりをさらに左に折れると、ようやく生活感を感じられる広いリビングにでた。上の階まで吹き抜けになっている。中央にある大きなソファーには女性向けのファッション雑誌が乱雑に置かれていた。ソファーの向かいにあるテレビはつけっぱなしだ。
「あんの野郎、またつけっぱで──」
我勇さんは軽く舌打ちをすると、なにか閃いたのか今度は笑みを浮かべて僕に声をかける。
「ああそうだ、刃月君。食事でもご馳走しようと思うんだが、夕食の予定はあるか?」
「特に予定とかは……コンビニで買って帰ろうかと思っていた程度です」
「よし、じゃあ極上の肉を食わせてやる。手とかドロドロだろ、洗面所貸してやるから洗ってこい」
我勇さんの案内で部屋の奥に進み、細い通路に入って少し進んだ所で立ち止まる。
「右に扉があるだろ。あそこだ」
なぜこんな中途半端な位置までの案内なのだろうと少し疑問に思いつつ、お礼を言って洗面所に向かった。
生身の状態でも一時間ほど暴れ回ったものだから、我勇さんの指摘通り手はかなり汚れている。こんな手で汗を拭ったりもしたから、顔もさぞかし汚れてしまっているだろう。ついでに顔も洗わせてもらおう、そんな事を考えながらドアノブに手をかけ、扉を押し開ける。
そして目が合う。
洗面所の中にいた──裸の少女と。
「…………」
どういうリアクションをすればこの危機を脱することが出来るのか。死にかけたことが幾度かある経験上、人生最大の危機とはさすがに言い過ぎではあるが、二番目の危機くらいには言ってもいいのではないだろうか。
少女は腰まである長い髪をタオルに押し当て、水分を取っている姿勢で固まっている。その髪は真の闇と見紛うばかりの黒くて惛い色をしていた。僕を見つめ返すその濡れた瞳はルビーの様に赤く、紅く輝いている。
どう見てもこれは──風呂上がりだ。なぜこうなったのか、お互いに状況が理解出来ず固まってしまう。
けっして故意などではなく、言うなれば事故のようなものだが、それを説明して理解してくれるのだろうか。どんな説明をすればいいのだろうか。今すぐなのか、それとも一旦引いてあとで説明するのがいいのか。消去法で考えれば簡単だ。彼女が今現在裸である事を考えれば、今説明とかはありえない。さっさと出て行けですまされるのがオチだ。
そんなこんなを一瞬の脳内会議で済ませ、出した結論は、いたってシンプルなものだった。
何事もなかったように静かに扉を閉め、逃げよう。そして我勇さんと静のいる所に逃げ込む。我勇さんに事情を説明してもらう。この流れしかない。
僕は逆再生のような動きでドアを閉め、我勇さんと静のいるリビングにダッシュした。
リビングでは静がソファーで寛ぎ、我勇さんはキッチンで食事の準備を始めようとしていた。
「が、が、が、がゆうさ、ん」
「あん?」
「あ、あの、女の子がいたんですけど!」
「おう、そうか」
特に驚いた風でもなく、当然だと言わんばかりの普通の返事が返ってきた。そこで僕も少し冷静になる。
そもそも、あの少女は誰だ?
屋上での我勇さんと静の会話を思い出す。
彼女が寂しがるうんぬん。顔合わせがどうとか、そんな会話。
つまり、先ほどの少女が──静と僕が会うべき人。
……人……? 人……だったのか?
さきほどの少女の姿がフラッシュバックする。
静の黒髪よりもさらに黒い、漆黒の髪。一度も紫外線を浴びたことが無いのではないかと思うほど白く透き通った肌。そして──紅い瞳。
ふと背後に気配を感じ、意識が現実に引き戻される。
振り向くと、今逃げてきた通路からひとりの少女が走って近づいてくるのが見えた。速い。距離が一瞬で詰まる。
黒いワンピースを翻し、少女は僕の目の前で跳んだ。とっさに身構える僕を軽く飛び越え、そのままの勢いでソファーに座る静に抱きついた。静が支えきれるはずもなく、ふたり一緒にソファーに倒れ込む。少女が上体を起こし、声を弾ませる。
「静! 会いたかったよ〜! 今日来るって聞いて、がんばって早起きしたのよ!」
「……そ、そう。早起き……ね。久しぶりね、シキナ」
静は少し困惑気味に言葉を返す。
「メールしても短い返事だけだし、会いに行ったら留守だし、全然来てくれないし、静成分がたらなくて餓死するかと思ったわ!」
「そんな妙な成分に頼らなくてもあなたが死ぬことはないから安心なさい。それよりも、そろそろ解放してくれないかしら。この体勢のまましゃべるのは案外大変なのよ」
「あ、うん」
シキナと呼ばれた少女は素直に静から離れ、手を差し出して静が起き上がるのを手伝う。
「まだ帰らないよね?」
「ええ」
「そっか。よかった。後でゆっくりおしゃべりしようよ」
「あら、後でいいの?」
「うん。先に用事が出来ちゃった」
そう言いながら少女はキッチンにいる我勇さんに視線を向ける。
「が〜ゆ〜う〜」
「あ?」
我勇さんは興味なさげに返事する。そんな我勇さんの態度にも笑顔を絶やさず、少女は天井を指さしながら言った。
「ふふっ。ちょ〜っと屋上行こっかー」
その笑みと明るい口調とは裏腹に、目は笑っていなかった。