第十一話 悲過世界2
ウィルスの感染手順はこうだった。まず男軍のファイヤーウォールに専用のセキュリティホールを空けて、そこに裕也のウィルスを仕込む。もちろんこちらには完全無害だ。そして、夢想システムに繋がり次第そこを中継し、女軍ネットワークにウィルス爆弾を送り込む。
たった一発のウィルス爆弾は、網の目のようなネットワーク内を漂い、紫天使を探し出した瞬間に自動的に爆破。ウィルス感染した紫天使用のシステムは、夢想システム使用時に彼女の脳に通常以上の刺激を送り、彼女は精神に何かしら痛手を負う。
命まで無くすかどうかはやってみないと分からない。それは、女達を攻撃的にさせる精神操作システムの強度によるだろう。
だがこれは、裕也が述べたように『夢想システム自体に女を凶暴化させる機能』があって初めて成り立つウィルスである。その仮説が外れていた場合、夢想システムの通常機能が強化されて、紫天使はむしろ安眠を約束されるかもしれない。
しばらくは平穏だった。
現実世界の基地では、「ダメだったか?」「改良は?」「これ以上は無理だ」と、検討を重ねる裕也と正人だったが、夢想世界の学校では一切そんな姿を見せず高校生を満喫している。
そして、効果がついに現れる日となる。
その時の授業は体育、内容はドッジボールだった。
以前は男と女に分かれて戦おうとしていたものだったが、当然今は何も言わずとも男女混成チームとなっている。しかも、ジャンケンやくじ引きでチームを割った訳じゃない。自然と、言うならば『仲の良いもの同士』みたいなので各々チームを決める。裕也と沙織は同じチームであり、もちろん正人と美樹もいつも一緒だ。
俺はと言うと、戦力に乏しく劣勢になるだろうと思われるチームに入るのだが、どうしてかいつの間にか花音もいる。花音も俺と同じ考えなのだろう。
試合が始まってしばらくした後、コート内でうずくまる女子がいた。ボールの当たり所が悪かったなどでは無く、それは唐突にだった。その女子のそばに座り込み、心配そうに顔を覗き込むのは……裕也だ。
「沙織、どうしたんだ?」
「少し……眩暈がしただけです。大丈夫ですわ」
気丈に立ち上がる沙織だったが、俺には目の焦点が定まっていないように見えた。正人がすぐに俺に「女子は体調のすぐれない日があるらしいです」と、美樹から聞いたと思われる情報を小声で伝えてくる。それでつい納得してしまい、他の可能性がある事を忘れてしまっていた。
保健室に裕也と沙織は消え、次の授業の中ほどに帰ってきた裕也は皆に冷やかされた。だが、俺は裕也のまばたき回数が妙に多い事に気がつき、沙織の具合は改善されていないのだと考えた。
その日からしばらく沙織は学校を休んだ。
心配しているのだろう裕也は日増しに挙動不審になり、うわの空の時間が長くなる。それは、現実世界の訓練中も同様であり、正人の模擬刀を手首に受けて骨折までしていたほどだ。
「法次、俺……病気かもしれない」
「心臓の拍動回数は平常に比べて増しているが、それ以外は健康値だ」
生体スキャンの結果を見ながら俺はそう裕也に伝えたが、確かにデータは健常だと指しているのに、なぜか裕也の顔は青白かった。悩みが原因で頭痛がする程度なら俺も理解出来るが、女の事が気になった挙句体調を崩すなんて……ありえるのだろうか?
まあ、沙織が元気になり、無事学校に登校して来れば馬鹿の病も治るだろう。
俺は生体研究室で裕也と別れ、学校へ登校すべき時間が迫っていたので自室へ急いだ。その途中、通路右側にあった研究室のネームプレートが何気なく目に入る。
『高度機械研究室』
俺は後ろから殴られたような衝撃を受けた。同時に、胃液が逆流するような衝動が沸き起こる。
……ウィルス
なぜ忘れていた、その可能性を。
裕也達が送り込んだウィルスは、紫天使へ打撃を与えるはずだ。それが、成功したのではないか?
もしかして、紫天使は沙織……。
常に花音を立てて、あの目立たない沙織が……? 大人しく粛々としている沙織が……?
健太郎の体を腕で貫き、弘明を鉄拳で叩き潰した、あの、紫天使?
盲点だった。
体調を崩した沙織を風邪か何かと混同したし、何より、小柄な沙織があの荒々しい紫天使と結び付けられ無いでいた。しかしそう考えるならば、ショルダーハートである花音と紫天使が一緒に行動していたのも頷ける。
「……っ! くそっ! 最悪だ!! 俺としたことが……先入観など……」
俺は走り、自室に戻ると飛び込むようにベッドに入った。例え眠ったとしても定刻にならないと夢想世界に入れないと言うのに、俺は急いだ。
夢想世界マンションの自室に着くと、俺はとりあえず制服を羽織って学校へと向かう。
はだけたシャツから胸元を覗かせながら、俺は教室の扉を開けた。
「わ…ワイルドだなぁ、法次……」
裕也は俺を見て体を仰け反らせている。そんな裕也の下へ、俺はシャツのボタンを留めながら歩く。
「裕也……一つ聞きたいんだが、例のアレを駆除する……ワクチンは作れないのか?」
俺は、目の端で沙織が来ているか確認しながら裕也に聞いた。沙織の席は空席で、やはり今日も来ない可能性が高い。
「例のアレ? ……ああ、アレ? アレね! ワクチン? どうしてよ?」
「き……聞きたいからだ! ただの好奇心だ!」
これは時間がかかりそうだと思った俺だったが、すぐ隣にいた正人が答えてくれた。
「無理ですね。アレのワクチンと言うことは逆の特性、つまり、門に阻まれる訳です。アレが門の向こう側に行ってしまったなら、もう手出しできません」
そうか、女軍のネットワークを守るファイヤーウォールが仲間だと認識するウィルスを送った。それを駆除するウィルスとは、ファイヤーウォールが敵だと感知するウィルスになる。つまり、家の中に入り込んだネズミは、もう外からでは駆除できない……。
「何? 何の話? 門とか、薬とか? 沙織みたいに、法次君も何かの病気なの?」
そこに、正人と仲の良い美樹がぴょんぴょん跳ねながらやってきて言った。しかし、現実世界での軍事行動に当たるウィルスの事は女達には言えないし、裕也が作ったウィルスが、彼が心から心配する沙織の病気の原因だなんてあまりにも酷な話だ。
返事に詰まった俺だが、正人が美樹に答える。
「えっと、そうなんですよ。それほど重症では無いのですが、法次君は病気なんです」
「でも、門って話に出てたよね? どんな病気なの?」
流れで、俺はただいま病気中になってしまった。まあ、ウィルスの話は極秘だし、それくらい大した事ないか。
門について聞かれ、困った正人に代わって裕也が答える。
「門……つったらアレだよ。お…お尻!」
「お尻? あっ! ……ああ。法次君、見かけによらず……『痔』なんだ……」
「なっ! 何っ!?」
驚く俺を、美樹は哀れみを帯びた目で見ている。
ち…違う! 違う……んだが……。
こ…ここは、これで収めておくしかないのかっ? しかし……そんな恥ずかしい場所に患部が出来る病気に、どこから話が変わったんだ……?
そして美樹は、プライベートな事に踏み込んでしまったとでも思ったのか、気まずそうに一歩、また一歩と後ろに下がって離れて行った。
「すまん、法次! 病気と門から連想したら、こうも…」
「別に良い。俺が我慢すれば良いだけだ」
手を合わせて笑う裕也を前にして、俺の胃はきりきりと痛んだ。
授業が始まり、最初の休み時間になると俺はすぐに花音の席へ向かった。
「花音!」
「大丈夫? 痔って聞いたけど?」
「うっ……」
見事なカウンターパンチだ。もう知っているのか? どうして女達はそんなに話が伝わるのが早い?
「と…とにかく、来い!」
「えっ……」
俺は花音の腕を強く掴むと、教室の外へと急いで出た。そして、周りを見回しながら廊下を人気の無い方へ向かって歩き、隠れるように柱の影に花音を押し込んだ。
「どうして目を閉じている?」
「……?」
花音は俯いてもじもじと体を揺らすと、もう一度顎を上げて目を閉じた。
「だから、何をしている?」
俺が再度問うと、花音は大きな目を開けた。
「えっ? 違うの? てっきり唇を重ねてくるのかと思って……」
「何の儀式だ? それに、唇を二人で重ねてどうする? 話が出来ないじゃないか?」
花音は口をまさにあんぐりと開けている。宗教学の話題だろうか? だから俺の専門は遺伝子工学で……。
「強引にするから……絶対そうだと……」
「それよりもだ、沙織はどうしているんだ? 病気の症状は?」
「沙織っ?! ……どうして沙織の事を?」
「いや……学校を……何日も休んでいて心配だなって……」
すると、花音は上目遣いに俺を睨んできた。
「ダメだよ! 沙織は裕也君の事が……、あっ……でも……」
しかし、そこで眉尻を下げて唇を噛んだ。
「でも?」
「う…ううん。なんでも無い……」
[ガッシャーン!!]
突然、甲高い音が廊下に大きく響いた。ガラスが割れる音に間違いないだろうが、仮想世界でそんな事は珍しい……。
俺と花音が柱から顔を出すと、丁度俺達の教室外の廊下にガラス片が散らばっているのが見えた。顔を見合わせた俺達は、二人で教室へ戻った。
教室では、裕也が小柄な女の子に胸倉を捕まれて持ち上げられていた。長い黒髪のその後姿は、信じられないことに沙織だ。やはり、何かが起こっている。
「さ…沙織、ごめん……」
「下衆な男が気安く肩に触れやがって!」
沙織は裕也を投げ捨てる。それと同時に飛び掛り、裕也の喉を貫こうと右の抜き手を繰り出した。
しかし争いが禁じられているこの世界、沙織の手首から先が消えていた。その消えた部分を憎むような目で睨んでいた沙織は、憮然とした表情で教室の外へ向かった。
廊下に俺と立っていた花音に気が付いたが、沙織は一瞥すると同時に「やっぱり帰る!」と吐き捨て、背を向けて歩いていった。
教室の中は言葉を無くしたクラスメートで溢れる。
花音は、俺を見て気まずそうに言った。
「ちょっと沙織は……最近機嫌が悪くてマンションに籠もりがちに…」
「花音、これから一切夢想システムを使うな。絶対だ」
「えっ……?」
花音は思いがけない事を言われて驚いていたが、俺の真剣な顔を見て目を伏せた。
裕也達が作ったウィルスは、夢想システムに女子の攻撃的本能を刺激する作用があると仮定して作られたものだ。成功したと言う事は、それが裏付けられたとなる。
……つまり、夢想システムに男女間を争わせる何かしらの原因がある。
「嫌だよ! どうしてなの?!」
花音は顔を上げ、強い口調で聞いてきた。理由を説明していないため、疑問が浮かぶのは当然だ。しかし、どうして嫌だと即答するんだ?
「夢想システム、特に女側のシステムには怪しい部分がある。お前も、夢想世界を使った後は自分が攻撃的になっていると考えた事は無いのか?」
「そりゃぁ……あるけど。それは、夢想世界の情けない男を見て、より一層排除しようと確認出来るから……って言われてるけど……」
花音は言葉を濁した。もしかすると、納得できない部分もあったのかもしれない。
「俺が見たところ、男と女は、夢想世界と同様に現実世界でも仲良く出来るように思える。それを、好ましく思わない誰かが、夢想システムに仕掛けを施して女の脳に影響を…」
「でも嫌! だって……夢想世界に来なきゃ……現実世界のあの凄惨さに耐えられないよ……」
「それは違う。夢想世界に来るからこそ、現実世界が凄惨なものになるんだ。卵が先か鶏が先か、必ず先に来るどちらかがある!」
「やだって! 夢想世界に来たいもん! 会いにきたいもん! 法次のバカ!」
花音は背伸びをして頬を膨らました。
やはり、殺し合いをしている現実世界のストレスは花音も凄まじく、一時の休憩たる夢想世界に来ずにはいられないのかもしれない。
それに良く考えれば、花音に夢想世界を禁じるのは他の視点からも無理があるか。男軍もそうだが、夢想世界の使用は命令だろう。この世界に花音が自分の都合で来なければ、一体どうしたのだろうと他の女子達が騒ぎ出す。
だが、確たる証拠も無い上にウィルスの件もばらせない今の時点では、女軍に夢想世界の害悪を伝えるのは不可能だ。何より、男の俺が言ったところで誰も信じない。
一人だけ、とにかく一人冷静な判断が出来る人間を作れば……終戦への光明が見えるかもしれない。それは花音にやってもらいたいし、俺の話を聞いてくれる可能性があるのはこいつだけだ。
「なら……三十分、それだけ夢想世界から早く抜け出してくれ」
スキー体験学習の時の花音の様子から、投薬なり精神操作なりが行われるのが夢想世界終盤の午後四時間際。その少しでも前に目覚めれば、夢想世界での温和な性格のまま正気を保てるかもしれない。
「どっ……どうやって三十分も前に起きれるのよ? 夢想世界に入り込んでいる時間は、完全にシステムによってコントロールされて……」
「システムに手を加えろ。外からは不可能だが、ファイヤーウォールの内側にいるお前なら出来る」
「む…無理よ! 私はシステム系なんてからっきしだし……」
首をぶんぶんと振る花音の肩に俺は手を置いた。
「出来る。俺達なら可能だ。遺伝子強化を施された俺達なら、どの分野であろうと常人以上の力を発揮する」
「法次は元々頭が良いからそんな事を言えるのよ……」
俺と花音は、ある特殊なコミュニティで生を受けた。そこにいる全ての人間は、遺伝子的に強化された人々だった。
ただ、強化と言う言葉には語弊があるかもしれない。
俺や花音が受けた遺伝子強化とは、適正遺伝子以外を排除する行為、つまり、足を引っ張る遺伝子を全て削除する事だ。
病気になる遺伝子、集中力をそぐ遺伝子、運動を阻害する遺伝子、他には、外見の不釣合いを司る遺伝子など、様々な役に立たない遺伝子は取り除かれている。自分で言うのも何だが、俺や花音が美形と言われる原因もそこにある。もちろん、運動能力が抜きん出ているのもだ。
更に付け足すと、生物には自分の細胞能力を出し切らないように制限回路が設けられているのだが、俺達はその抑制力が弱められている。条件が揃えば、解除されて超人的な能力を発揮することが可能だ。これについてはコミュニティの子供達の中でも、解放時の力、開放頻度共に、俺がなぜかずば抜けていたのだが。
「でもヤダ! バカで鈍感な法次の意地悪な話なんて聞くもんかっ!」
「ど…鈍感?!」
花音は俺にあっかんべーをすると、教室の中へ入っていった。
……まあ、一回の説明では無理か。これから何度も繰り返して説得しよう。一度だけでも俺の言う通りにしてもらえば、俺の言っている事が正しいと理解してもらえるだろう。なるべく……早くしなければ……。