底なし沼7
「そうなのですか」と私はなんだか切なくなって弱弱しく言った。その愛した夫から別れを告げられて、さぞ、辛かっただろうと、想像した。
「愛していたのであれば、さぞ辛かったでしょうね」と私は言った。
「ええ、とても、とても悔しかったのです」と女は言った。
「ええ、そうでしょうとも」と私も答えた。そして女は続けた。
そして明朝、お寺に向かったのです。
きっと夫はお寺の沼のほとりで待っていると思いました。
でも私はまず、住職の住居に行き、「こちらに田中様はいらっしゃいますか」と尋ねました。
先日出くわしたお侍様が、旦那様をたぶらかしたに違いません。だから、何とかして都に行くのを辞めるよう説得いただくつもりでした。
住職は「田中様とおっしゃる方はこちらに居ませんが」と答えました。私には嘘だと分かっておりました。旦那様が先に手を回していたのだと思い歯がゆく思いました。
「いえ、確かに昨日、こちらに田中様がいらっしゃるのを見ました」と私も引き下がりませんでした。
「ええ、確かにいらっしゃいましたが、朝早くに帰ってしまいました」と答え、「居ない」の一点張りでした。
私は、説得することも出来ず、落胆して沼のほとりに向かいました。
沼のほとりに旦那様は出会ったあの日のように佇んでおりました。しかし、あの時のような笑顔はなく険しい顔をしておりました。そしてあの時のような美しい景色を私は見ることができませんでした。
旦那様は私を見つけると「おお、着たか」と声をかけました。
「これでお別れなんて、悲しく存じます。どうか考え直していただけませんでしょうか?」と私は懇願しました。
「それは出来ぬ」と旦那様は沈黙してしまわれました。
そして、しばらく無言が続いた後、
「俺は、貧しいきこりの四男坊で、お前の父上に拾われたようなものだ。その恩を捨てて旅立つことを、真に申し訳ないと思っている。一方で、本来、俺は名家の主人として、家を守ることが出来ない、落ち着かない男なのだ。何もかも自由にわが人生を全うしてみたいのだ」と旦那様は言いました。そして、
「お前の一族に気を使って、お行儀良く、家を守るなんて、こりごりになってしまったのだ」と続けました。
なんてひどいことを言うのだと私は思いました。あんなに仲睦まじく、幸せに暮していたというのに、それを全て否定された気がしたのです。憎悪というものでしょうか…私にも良く分からない感情が、その刹那、ぐわっと沸いてきたのです。まるで鬼に取り付かれたように。




