底なし沼4
障子を開くと、旦那様が暗い表情で座っておりました。私はびっくりしました。何故ならば、旦那様はお侍様の格好をしていたからです。脇には大小の二本の刀まで置いてありました。
「どういうおつもりでしょうか」
私は太一を抱く手を小刻みにふるわせながら言ました。赤子は私の変化には気づかず、安らかに眠ったままでした。
「まあ、中に入っておくれ」
旦那様は私を見上げながら言いました。
私はふるえながらも部屋に入り、障子をピシャっと閉めました。
「何故、そのような格好でいらっしゃいます」
「実は、明朝、京に上がろうと思う」
旦那様はおっしゃいました。
「今、世間は荒れている。開国をしたために物価は上がり、ここいらでも強盗が増えている」
「確かにあなたの仰るとおりです。しかし、生糸も高く売れるようになりましたし、私達の生活は何も変わらないのではありませんか」
「変わらないのは、困る。これを機にこの国を変えたいのだ」
アメリカの“黒船”が浦賀沖に来航したのは嘉永六年、今から十二年前のことでございました。この黒船は武力を背景にし、幕府に開国を要求してきたのです。その結果、江戸のお殿様は二百五十年にわたる鎖国を解き、開国をしました。この結果が民衆に多大な影響を与えていたのでございます。
まず米や生糸など物価が急激に騰貴しました。そして世の中が物騒になり、強盗も増えました。この小さな村も確実に影響を受けているのは確かでした。
「都では、天朝様を押したて、新しい日本を創るため全国の浪士が集結しているという」
私はそんな世間の話題など、ほとんど知りませんでした。都も江戸も遠く離れた村であるから無理はないのでございます。
しかし、旦那様は違ったようです。内山家の当主であり、江戸の商人とも取引をしているから、若干の知識があったようでございます。ゆえに世間の情勢には敏感だったのでしょう。
「しかし、あなた様は炭問屋の当主なだけですよ。お侍様ではございません」
私は何故、商人の夫が都に行く必要があるかわかりませんでした。
「いや、郷士の株は買ってある」
私はあっと、思いました。夫は一年前に八王子の千人同心株を買い取っているのでございました。そのような思いがあって、同心株を買っていたとは思いも寄りませんでした。
「それ故、武士として国論を論じるのは当然の成り行きである」
「しかし…、あなた様は内山家の跡取りとして私と縁組したのです。それを今更…。今更、そんなことを言い出すのは無責任と言うものです。だいいち、私達は太一という子もいるのですよ」
私がそう言って引き止めると、旦那様は大きな刀を抜いて、ぎらりと光る刀を私に向けました。
一瞬にして私の全身の毛穴が粟立ちました。まさか、この温和でいつも弱腰な夫が自分に刃を向けることになろうとは、思いもよらなかったからです。
「美代、お前がどうしても止めるというのであれば、その赤子の息の音を止めてしまおう。そして、お前は他の男を婿に取り、今まで通り暮らせばよい」
旦那様は細い目を精一杯開いて博徒のように私を睨みながら言いました。本気であることは私にもわかりました。その瞬間、太一がワっと泣き出しました。
「わかりました。止めませぬ。しかし、この子は無き父に似て賢そうな顔をしていますので、このまま私の子として内山家を継いでもらおうと思います。故に命ばかりは堪忍くださいませ」
「そうか、わかった」
旦那様は頷くと、刀を鞘に収めました。いつもの目のやさしい旦那様に戻っておりました。




