底なし沼3
私はすれ違う瞬間かるく会釈をし、ちらりと男の顔を盗み見ました。立派ないでたちに不釣合いな童顔で、血行の良い紅い唇と涼やかな目元をした、凛々しい青年でした。
私はすれ違った後、暫し足を進めましたが、妙にその男が気にかかり振りました。
男は寺の門の前で立ち止まり、門前で落ち葉を掃いていた小坊主に対して、
「田中XXと申す」
と歯切れの良い江戸弁で言い、深々と頭を下げました。
小坊主は少し恐縮した様子でありましたが、男が、
「住職はおられるか」
と尋ねると、小坊主は、
「住職はただいま他行中の為、中にてお待ちください」
と言い、男を境内に招きいれました。
私はその男のことを不思議には思いましたが、大した気も留めず、足を戻しました。
私は糸を届けると、急いで家に帰りました。当家内山家は村の地主であり、屋敷の入り口には馬が数頭繋ぎ、家屋も立派なものでした。そして私は内山家の一人娘でした。内山家は使用人を数名雇い、農業の傍ら炭問屋を商い財産を築いておりました。私が一人娘であったために、旦那様を婿に取り、商いを継いでおりました。
私が井戸端で水を汲んでいると、旦那様がタンタンと足音を立ててやってきました。
「ただいま、帰りました。今日はお寺の梅がとても綺麗に咲いておりましたよ」
私は夫に対していつものように笑顔で答えました。
「先ほどから、太一がぐずって泣き止まぬ。つるが懸命に子守りをしているのだか。」
旦那様は眉間にしわを寄せながら困ったような表情で言いました。太一とは旦那様と私の間に生まれた赤子でございます。まだ生後8ヶ月ほどでありました。普段から奉公にあがっている、つるという少女に子守りをさせておりました。
「まあ、それは、それは。今すぐ見てまいります」
「ああ、それと」
そのとき旦那様の表情が曇りました。そして、なかなか続く言葉を発しませんでした。
「それと、何ですございましょう」
と私は尋ねた。
「それと、美代に話がある。あとで部屋に来ておくれ」
「ええ、わかりました」
私は頷くと太一の元に向かいました。
つるが必死に腕に抱いて、一生懸命あやしてはいるのだが、太一は大声をあげて泣いておりました。
「ああ、奥様。太一ちゃんがこのように、ずっと泣き止まないのです」
と太一を私に預けました。太一は母に抱かれて落ち着いたのか、指をしゃぶりおとなしく寝てしまった。
「やっぱり、お母様がいいのですね」
と、つるが太一の頬をなでながら言いました。
「まだまだ、甘えん坊で困りますねえ」
と私は笑いながら答えました。
そして、私は太一を抱きながら、旦那様が待つ部屋に向かいました。




