第1話
最後に見たのは濁流にのまれる堤防の亀裂だった。
「だから補強が要るって言ったんだ……」
豪雨の夜だった。
点検に出た俺は足を滑らせ、そのまま暗い水に落ちた。
インフラ設計の仕事をして十二年。
安全率を何倍も取れと言い続けて、予算が足りないと突き返され続けた人生だった。
次に目を開けたとき、俺は赤ん坊になっていた。
知らない天井。知らない言葉。
のぞきこんでくる金髪の女性は、とても優しい目をしていた。
最初は夢だと思った。
だが腹は減るし、おむつは冷たい。
夢にしては不便すぎる。
ここが前の世界ではないと確信したのは、一歳の冬だった。
母が暖炉に手をかざし、短く何かを唱えた。
それだけで薪に火がついたのだ。
マッチもライターもない。
あるのは魔法だった。
◇
それから五年。
俺はノア・ヴァン・クレイドルとして生きている。
魔物の森に面した辺境伯家の次男だ。
王国でいちばん貧しい領地だと、陰ではよく言われている。
「ノア、緊張してないか」
隣を歩く兄のレオンが俺の頭をぐしゃりと撫でた。
十二歳の兄は剣で大人を負かすと評判で、俺にはとにかく甘い。
「平気だよ。兄さんのほうが顔こわばってる」
「そ、そんなことはない」
今日は五歳の適性検査の日だ。
この世界では五歳になると教会で魔法の適性を調べる。
それで将来がほぼ決まるらしい。
兄は五歳のとき【身体強化】の適性を授かった。
騎士になるには最高の適性だ。
姉は【氷結】で、王都の魔術学園から声がかかるほどの腕前になった。
二人とも当たりだった。
だから家族は、末っ子にも当然のように期待している。
前を行く父グレンは熊のような大男だ。
母イレーネはその腕に手を添えてにこにこと笑っている。
姉のエリザは九歳なのに、俺よりずっと落ち着いていた。
「ノアなら【炎槍】あたりが出るわよ。お父様の子だもの」
「エリザ、気が早いぞ。だが【炎槍】ならいいな! 森の魔物を焼き放題だ!」
父が豪快に笑う。
家族の期待が重い。
◇
教会の祭壇には水晶玉が置かれていた。
白い髭の神官が、穏やかに手招きした。
「ノア様、こちらへ。手を乗せるだけですから、怖くはありませんよ」
「はい」
「ノア、思いきりいけ!」
「あなた、教会ですよ」
父の大声が天井に響いた。
神官が苦笑いを浮かべる。
俺は小さく息を吸って、水晶に手を乗せた。
水晶がぼんやりと白く光った。
「これは……【生活魔法】ですな」
礼拝堂が静まり返った。
【生活魔法】。
火を灯し、水を出し、風を送り、土をならす。
汚れを落とし、温かさを保つ。
どれも暮らしの役には立つが、戦いには使えない。
平民の子でも半分は持っている、いわゆる外れ適性だった。
神官が気の毒そうに目を伏せた。
後ろの席から領民のひそひそ声が聞こえる。
「辺境伯様のところの坊ちゃんが、生活魔法か」
「森の魔物とは戦えねえなあ」
父の肩がわずかに下がった気がした。
だが次の瞬間に父は俺を抱え上げた。
「いいじゃないか! 風呂を沸かせる男は嫁に困らん!」
「あなた、それは慰めになっていませんよ」
母が笑い、兄が俺の手を握った。
「ノアは俺が守る。だから何の適性でもいい」
ありがたい。本当にありがたい家族だ。
けれど俺の頭は、まったく別のことを考えていた。
◇
帰りの馬車は静かだった。
父は窓の外を見ながら鼻歌をうたっている。
無理に明るくしているのが丸わかりだった。
姉が小声で俺の袖を引いた。
「ノア、気にしなくていいのよ。生活魔法だって立派な魔法なんだから」
「うん。気にしてないよ」
「……本当に?」
本当だった。
むしろ俺は、早く家に帰りたくてうずうずしていた。
生活魔法の中身を、もう一度頭の中で並べてみる。
【点火】。【注水】。【送風】。【土工】。【洗浄】。【保温】。
全部で六つ。どれも出力は小さい。
だが出力が小さいことと、役に立たないことは違う。
前世の現場では、小さな力をどう組み合わせるかがすべてだった。
向かいの席で、兄が真剣な顔をして言った。
「ノア。森の魔物が来たら俺の後ろに隠れていればいい」
「兄さん。俺まだ何もしてないよ」
「何もしなくていいんだ。お前は風呂でも沸かしていろ」
「父上と同じこと言ってる」
母がくすくすと笑った。
父の鼻歌が少しだけ本物の明るさに戻った気がした。
◇
その夜。
俺は自室の窓辺で指先に小さな火を灯した。
「【点火】」
ろうそくほどの炎が揺れる。
これが生活魔法の火だ。竈に火を入れる程度の熱量しかない。
次に、もう片方の手を向けた。
「【送風】」
そよ風が炎に当たる。
炎はふっと揺れて、細く鋭く伸びた。
色が変わった。
オレンジから青へ。
「やっぱりか」
燃焼には酸素が要る。
風で酸素を送り込めば、炎の温度は一気に上がる。
鍛冶屋のふいごと同じ理屈だ。
青い炎を窓枠の留め金に近づける。
数秒で金具が赤く光り、とろりと溶け落ちた。
「……うわ」
鉄が溶けたなら千五百度は超えている。
とても生活魔法の火とは思えない温度だった。
慌てて火を消す。
窓枠に小さな穴が空いていた。母に怒られる。
心臓がばくばくと鳴っていた。
「ノア? 何か焦げた匂いがするけれど」
扉の向こうから母の声がした。
「な、なんでもないです! ろうそくを倒しかけただけです!」
「そう? 火には気をつけるのよ。生活魔法でも火は火なんだから」
「はい母上」
足音が遠ざかっていく。
俺は穴の空いた窓枠をそっとカーテンで隠した。
でも、それどころではなかった。
火が出せる。水が出せる。風も土も操れる。
ひとつひとつは弱くても、組み合わせ方を知っていれば話は別だ。
前世の俺は十二年間、その組み合わせ方だけを考えて生きてきた。
「外れ適性どころじゃないぞ、これ」
声に出すと、ようやく実感がわいてきた。
この領地は貧しい。
冬は寒く、森からは魔物が来る。
父も兄も、毎日のように体を張って領民を守っている。
前世の俺は、誰かを守るための設計図を引き続けてきた。
今度は自分の手で、それを形にできるかもしれない。
窓の外には黒々とした魔物の森が広がっている。
その奥で何かが低く唸ったような気がした。




