8時の誤解
A氏は完璧主義者だった。
目覚ましは3つセットするし、歯磨きは必ず2分。コーヒーはドリップ、しかも豆は前日に挽く。
そんな男が唯一やらかしたのが、「時間」だった。
「12時までに横浜駅ね。余裕じゃん」
昨夜そう言って、彼は自信満々に寝た。
そして今朝——彼はまだシャワーを浴びていた。8時に。
一方そのころ。
B氏は全力疾走していた。
「やべえ、やべえ、やべえ!!」
スニーカーの底がアスファルトを叩くたび、焦りが音になって跳ねる。
組織Xの連中は9時の新幹線に乗る。絶対だ。
そして絶対に、あの連中に渡さなければならない物がある。
遅れたら終わり。
すべてが終わる。
そしてその鍵を握るのが、あののんき野郎、Aだ。
「なんで“12時”って思い込んでたんだよ、俺……!」
組織Xからのメッセージを何度見返しても、「12時」の文字はどこにもない。本当の集合時間は「午前8時」だ。
——B氏は、勝手に“昼の12時”だと思い込んでいたのだ。その勘違いをそのまま、A氏に伝えてしまった。
なぜか? 昨日はしこたま飲んだ。夕方4時から翌朝4時まできっちり12時間の半日。
「人は見たいものしか見ないってやつかよ……!」
哲学的なことを考えてる場合じゃない。
二日酔いの吐き気もする。しかしそんなことを気にしてる場合じゃない。
「くそ、なんでAの野郎はLINEに出ねえんだよ?」
B氏はアパートの階段を二段飛ばしで駆け上がり、A氏の部屋のドアを叩いた。
ドンドンドン!!
「A!! 開けろ!! 時間が違う!! 今8時だ!!」
反応はない。
「嘘だろ……」
さらに強く叩く。
ドンドンドンドン!!!
ガチャ。
扉が開いた。
出てきたのはC氏だった。寝癖、パジャマ、完全にオフモード。
「……なに?」
「Aは!? いるか!?」
「え、A……? もう出かけたけど」
一瞬、世界が止まった。
B氏の脳内で、何かがスローモーションで崩れ落ちる。
「出かけた……?」
「うん。さっき。なんか“余裕っしょ”って言ってた」
(余裕……?)
B氏はその言葉を咀嚼する。
余裕。
余裕とは何か。
余裕とは、間違った情報に基づく安心である。
「……そっか」
B氏は急に落ち着いた。
「ありがとう。助かった」
「うん、どういたしまして」
ドアが閉まる。
カチリ。
⸻
そのころ。
A氏はシャワーの中で鼻歌を歌っていた。
「♪今日はいい天気〜」
彼の頭の中では、すべてが完璧だった。
時間も、段取りも、未来も。
⸻
9時。
新幹線は発車した。
組織Xのメンバーたちは、空っぽの手を見つめていた。
「……来なかったな」
「来なかったな」
沈黙。
その後ろで、駅の電光掲示板が無情に次の列車を告げる。
⸻
11時45分。
A氏は余裕たっぷりに横浜駅に到着した。
「ほらな、余裕」
改札を抜け、待ち合わせ場所へ。
誰もいない。
「……あれ?」
スマホを見る。
既読がつかない。
電話する。
出ない。
「え?」
そのとき、背後から声がした。
「A」
振り向くと、B氏がいた。
無表情だった。
「……あ、B。早いじゃん」
「早いのはお前以外全員だ」
「え?」
B氏は一歩近づいた。
「今、何時だと思う?」
「え、12時前……」
「そうだな。で、新幹線は?」
「……?」
「9時だよ」
A氏の顔から、血の気が引いた。
「……え?」
「“え?”じゃねえ」
沈黙。
駅の雑踏だけが、やけにリアルに響く。
「……俺、行ったよな?お前んち」
「え?」
「8時に。伝えに」
「え?」
「Cに会った」
「……ああ」
「Cは、“出かけた”って言ってた」
その瞬間、すべてがつながった。
シャワー。
寝癖のC。
そして、根拠のない余裕。
「……いや、待って」
「待たない」
「いやほんと待って」
「待たない」
B氏はため息をついた。
「人間ってさ」
「うん……」
「確認しないんだよな。大事なことほど」
A氏は何も言えなかった。
その横で、電光掲示板がまた光る。
「次の列車は——」
「……どうすんの?」
A氏が小さく聞く。
B氏は少し考えてから言った。
「とりあえず」
「うん」
「コーヒー飲むか」
「……いいね」
二人は歩き出した。
すべてが手遅れになったあとで、ようやく落ち着くのが人間だ。
そしてたぶん、また同じことをやる。
今度は、もう少しだけ上手に。




