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8時の誤解

掲載日:2026/03/29

A氏は完璧主義者だった。


目覚ましは3つセットするし、歯磨きは必ず2分。コーヒーはドリップ、しかも豆は前日に挽く。

そんな男が唯一やらかしたのが、「時間」だった。


「12時までに横浜駅ね。余裕じゃん」


昨夜そう言って、彼は自信満々に寝た。

そして今朝——彼はまだシャワーを浴びていた。8時に。


一方そのころ。


B氏は全力疾走していた。


「やべえ、やべえ、やべえ!!」


スニーカーの底がアスファルトを叩くたび、焦りが音になって跳ねる。

組織Xの連中は9時の新幹線に乗る。絶対だ。


そして絶対に、あの連中に渡さなければならない物がある。

遅れたら終わり。

すべてが終わる。


そしてその鍵を握るのが、あののんき野郎、Aだ。


「なんで“12時”って思い込んでたんだよ、俺……!」


組織Xからのメッセージを何度見返しても、「12時」の文字はどこにもない。本当の集合時間は「午前8時」だ。

——B氏は、勝手に“昼の12時”だと思い込んでいたのだ。その勘違いをそのまま、A氏に伝えてしまった。

なぜか? 昨日はしこたま飲んだ。夕方4時から翌朝4時まできっちり12時間の半日。


「人は見たいものしか見ないってやつかよ……!」

哲学的なことを考えてる場合じゃない。

二日酔いの吐き気もする。しかしそんなことを気にしてる場合じゃない。


「くそ、なんでAの野郎はLINEに出ねえんだよ?」


B氏はアパートの階段を二段飛ばしで駆け上がり、A氏の部屋のドアを叩いた。


ドンドンドン!!


「A!! 開けろ!! 時間が違う!! 今8時だ!!」


反応はない。


「嘘だろ……」


さらに強く叩く。


ドンドンドンドン!!!


ガチャ。


扉が開いた。


出てきたのはC氏だった。寝癖、パジャマ、完全にオフモード。


「……なに?」


「Aは!? いるか!?」


「え、A……? もう出かけたけど」


一瞬、世界が止まった。


B氏の脳内で、何かがスローモーションで崩れ落ちる。


「出かけた……?」


「うん。さっき。なんか“余裕っしょ”って言ってた」


(余裕……?)


B氏はその言葉を咀嚼する。


余裕。

余裕とは何か。

余裕とは、間違った情報に基づく安心である。


「……そっか」


B氏は急に落ち着いた。


「ありがとう。助かった」


「うん、どういたしまして」


ドアが閉まる。


カチリ。



そのころ。


A氏はシャワーの中で鼻歌を歌っていた。


「♪今日はいい天気〜」


彼の頭の中では、すべてが完璧だった。

時間も、段取りも、未来も。



9時。


新幹線は発車した。


組織Xのメンバーたちは、空っぽの手を見つめていた。


「……来なかったな」


「来なかったな」


沈黙。


その後ろで、駅の電光掲示板が無情に次の列車を告げる。



11時45分。


A氏は余裕たっぷりに横浜駅に到着した。


「ほらな、余裕」


改札を抜け、待ち合わせ場所へ。


誰もいない。


「……あれ?」


スマホを見る。


既読がつかない。


電話する。


出ない。


「え?」


そのとき、背後から声がした。


「A」


振り向くと、B氏がいた。


無表情だった。


「……あ、B。早いじゃん」


「早いのはお前以外全員だ」


「え?」


B氏は一歩近づいた。


「今、何時だと思う?」


「え、12時前……」


「そうだな。で、新幹線は?」


「……?」


「9時だよ」


A氏の顔から、血の気が引いた。


「……え?」


「“え?”じゃねえ」


沈黙。


駅の雑踏だけが、やけにリアルに響く。


「……俺、行ったよな?お前んち」


「え?」


「8時に。伝えに」


「え?」


「Cに会った」


「……ああ」


「Cは、“出かけた”って言ってた」


その瞬間、すべてがつながった。


シャワー。

寝癖のC。

そして、根拠のない余裕。


「……いや、待って」


「待たない」


「いやほんと待って」


「待たない」


B氏はため息をついた。


「人間ってさ」


「うん……」


「確認しないんだよな。大事なことほど」


A氏は何も言えなかった。


その横で、電光掲示板がまた光る。


「次の列車は——」


「……どうすんの?」


A氏が小さく聞く。


B氏は少し考えてから言った。


「とりあえず」


「うん」


「コーヒー飲むか」


「……いいね」


二人は歩き出した。


すべてが手遅れになったあとで、ようやく落ち着くのが人間だ。


そしてたぶん、また同じことをやる。


今度は、もう少しだけ上手に。

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