2.こゆるぎさんはゆらぎだす
思わず声が出た。
「や、」
「や?」
「あ……いえ、何でもないです」
隣席の先輩に声を拾われて、冷静に返すと、「そう?」と不思議そうに首を傾げられたが深く追及はされなかった。
安堵して、携帯端末に視線を戻す。
もう一度見た文字に、心の中で盛大に叫んだ。
(やっっっっったー!!!!!)
今度は、声を漏らさないように歯を食いしばった。
『S:ync 8thアニバーサリーイベント ミニライブ&トーク当選』の文字が、画面上で光り輝いているようだ。
(夢じゃないよね……?)
沸き上がる歓喜に胸の奥がぎゅうっと熱くなり、携帯を握る手と身体の奥が震えた。
心臓が飛び跳ねてダンスしているようだった。
推しのアイドルグループS:yncは、今年秋に結成8周年を迎える。
8周年を祝う企画が少しずつ発表されはじめ、まだ五月だというのに、ファンは既にお祭り騒ぎだ。
今回当選したのはアニバーサリー最初のイベント。
冬に告知されてから早数カ月。
応募してから、アキの祭壇に毎日祈りを捧げていた甲斐があった。
このイベントは、会場でミニライブだけでなく、撮影会や握手会も行われるため、複数の抽選が必要になる。
当選発表の今日は朝からそわそわしっぱなしで、休憩時間になった途端、携帯を確認した結果だった。
凪沙はくじ運が悪いのか、推しに出会ってこの方、7年追いかけてきても、握手会などの至近距離イベントは尽く外れてきた。
数回取れたライブの席も端の方ばかり。
自分の会員枠では徳が足りないのかと、姉に頼んでファンクラブに入会してもらい、申し込んでもらったチケットが一番近くてアリーナ寄りの場所だったくらいだ。
今回も、どうか当たりますようにと祈っていても、心の何処かでは諦めていたのに。
(嬉しすぎて私、舞い上がっちゃう〜……ん?)
脳内でミュージカルのようにくるくると回転していたら、もう一個……いや、二個通知があることに気づいた。
(なん、うぇっ!? うそ嘘えぇぇ!?)
『S:ync 8thアニバーサリーイベント撮影会(A枠)当選のお知らせ』
『S:ync 8thアニバーサリーイベント握手会(B枠)当選のお知らせ』
思考が一瞬止まった。たぶん世界も止まった。
「――えっ……今日地球最後の日……?」
「な、凪沙ちゃん……? どうしたの?」
物凄く怪訝そうに先輩が尋ねたが、凪沙は、暫く放心してしまって、何も答えられなかった。
◇◇
――夜。
仕事中からずっと浮足立っていて、帰宅するまでの記憶が曖昧だ。
気付けば風呂を済ませてドライヤー片手に、携帯を見つめていた。
半ば夢心地のままルーティンを済ませていたようだ。
何度見返しても、当選通知は残ったまま。
メールの送り先も公式からと確認済み。ファンクラブページにもちゃんと当選結果が表示されている。
「夢じゃない………」
撮影会と握手会は混雑回避のため、基本はどちらかしか当たらないようになっているものだ。
同時当選なんて都市伝説だと思っていた。
まさか、くじ運のなさには自信のある自分が、こんな強運を発揮するだなんて――。
7年間、外れ続けたイベントの落選結果を思い出して、自分の推し活が報われたようで、じわりと涙が滲む。
「うれしぃぃ〜」
ばたんと倒れ込み、抑えきれない喜びでじたばたと手足を動かして――ふと、思い至る。
「……今後の運全て使い果たしたとか、ないよね……」
まだまだ応援していたいので、それだけはご勘弁を。
最高潮の興奮に浸るやいなや、頭に浮かんだ最悪の未来にやや青ざめた。感涙も引っ込んだ。
良いことがあれば悪いことを想像してしまうのが、根暗な自分の欠点だ。
いかんいかん、と首を振り、推しのポスターを見つめて深呼吸。
暗い気持ちを吐き出した。
「……よし」
ひとまず、感謝を捧げよう。
起き上がると、いそいそと推しの祭壇――整然と並べられたグッズ達――に向かって、お礼の気持ちを込めて深々と頭を下げる。
(神様アキ様ありがとうございますぅぅぅ)
ポスター、アクスタ、ブロマイド……推しの顔を見ていると、いつも心が暖かくなる。
『君に出会えた幸運に感謝して進もう』
かけ流していたS:yncの歌声が耳に入る。
ふへ、と頬が珍しく緩んだ。
そうだ、今は奇跡を祝うべき。
じわじわと染み渡る喜びで叫び出したいくらいだ。
(祝杯をあげようかな……!)
にやつく顔を押さえながら、視線を移し――その先で、小さな額縁に納められた封筒を見て、凪沙は動きを止めた。
「……あー……」
――あの手紙。
眉尻が下がっていくのが自分でもわかる。
視界の端に入っただけで、胸の奥がざわつく。
ひと月ほど前。
『過度な精神的ストレス』で倒れて運ばれた病院にて、もらった手紙だ。
差出人はAKI――推し本人からと書かれていたが、未だに信じきれずにいた。
筆跡はファンクラブの会報などでよく見ているものに似ているけれど……。
「遺伝子マッチングで推しと会ったとか……誰にも信じてもらえないしなぁ……」
誰に言っても夢か詐欺かと言われそうで、相談も出来ずにいた。
遺伝子マッチング自体が国家プロジェクトながら、まだ始まって日が浅い。
通知が届いたことも誰にも伝えていなかったので、相手が相手だけに、妄想ではないかと頭の方を疑われそうだ。
入院の際、家族に『何があった、豪華な差し入れは誰からだ』と心配されたが、『ストレスだ』とか『仕事の関係かな』と誤魔化したことは記憶に新しい。
今でも8割くらいは夢だと思っているから、余計に。
地味で平凡極まりない凪沙にも、多くはないが友人はいるし、家族には恵まれている方だと思う。
けれど、自分でも信じられないことを誰が信じてくれるのか――とも思うのだ。
『退院したら連絡を』と、手紙にそう書かれていたのに、結局何もできずに一ヶ月以上が過ぎていた。
……検査のため入院したが、翌日健康そのものと太鼓判を押されて退院したにも関わらず、だ。
「荷が重すぎる……」
推し直筆の手紙かもしれないものを適当に置くことも出来ず、額装して飾っている次第だった。
封筒のまま、というのは、万が一誰かに見られては憚られる個人情報が書かれているから。
(推しの連絡先なんて国家機密だよ!)
本来なら賞状のように飾りたい所だが、平凡極まりない一般人には扱いに困る。
そっと、硝子の上から文字をなぞる。
『小動凪沙様』と書かれた右上がりの読みやすい特徴的な文字は、世界に一つしかない宝物と言えるけれど――
「……とりあえず、イベントのことを考えよう……」
奇跡の当選への喜びから現実に引き戻されてしまったが、イベントが楽しみな気持ちは消えていない。
開催は半月後。何を着ていこうか、差し入れはどうしよう――などなど考えることはたくさんある。
物販にいくら予算を割くか、いつから並ぶべきかなど、当日の動線も確認しなければならない。
夢か現かよくわからない遺伝子マッチングから時間が経ち、凪沙がうだうだしている間にあちらからも特にアクションはなかったので。
もしかしたら、やっぱりなかったことになったりしたのかな、なんて――この時は、気楽に思っていた。
仕事であれば、報告連絡相談などよく確認して取り組む凪沙だったが、自分のプライベートに推しが絡むとなると、ひとまず見て見ぬふりをしてしまったのだった。
「ふぅ……」
普段あまり内心が表情に出にくいだけに、感情の落差で短時間で動かした表情筋が心なしか疲れた気がする。
頬を手で軽くマッサージしながら、イベントに向けてリサーチを重ねているうちに、夜は更けていった。
◇ ◇ ◇
会場の巨大な外観が視界に入った瞬間、圧倒されてしまった。
(……大きい……)
朝の光を受けて輝くS:yncのロゴが、まるで別世界の入口みたいだった。
現実なのに、どこか夢の中を歩いているようで、足取りがおぼつかない。
(今日、ここに……アキがいる)
その事実が急に胸に落ちてきて、呼吸がほんの少し浅くなった。
ずっと画面越しや、遠い席から米粒のように小さくしか目視出来なかった推しが、今日だけは目の前にいてくれる。
ようやく辿り着いたんだと思うと、喉の奥がつんと痛む。
思わず、深呼吸を一つ。
――大丈夫。ちゃんと来れた。
「――行こう」
きりっと気持ちを引き締めて、凪沙は戦場へと足を向けた。
(……この光景、なんか懐かしいな)
物販――戦場――の列に並びながら、凪沙は小さく息を吐く。
S:yncのイベントは落選続きだが、物販だけは毎回参加してきた。
その分懐は痛んだが、推しへの課金は既に生き甲斐と化しつつある。
ライブ本編や握手会に入れなくても、グッズだけでも手に入れたい――その一心で、通い続けた日々。
もしかして会場の音が漏れ聞こえてこないかななんて、期待しながら。
炎天下の夏も、凍えそうな冬も。
朝の始発に揺られ、長蛇の列に慄きながら。
欲しかったグッズが目前で売り切れて、膝から崩れ落ちた日もある。
(まあ……たいてい入場はできないんだけど……)
何度となくグッズだけ買って帰ることを繰り返した。
だから、列の流れの感覚も、スタッフの案内の癖も覚えている。
特にお手洗い――激混み戦区――の場所だって脳内マップに叩き込んでいるし、全部が身体に染みついている。
(今回こそ……この戦いの後に、イベント本番がある……!)
それだけで胸が熱くなる。
「次のお客様〜どうぞ〜!」
「はいっ!」
反射的に元気な返事が出た。
足取りも無駄に慣れている自分がいる。
(ああ……久しぶりに帰ってきた感あるなぁ……)
長年の習性で、レジに向かう前に財布を左手に、携帯のメモを右手に準備する。
買い漏らし防止も完璧だ。
もう、この瞬間だけは――凪沙は完全に『物販界の歴戦の勇者』だった。
ただし。
(今回……本当に……この後アキに会えるんだよね……?)
心の声は、新米のファンみたいに震えていたが。
列を抜けると、凪沙は手に入れたグッズを入れたトートバッグ――もちろん過去の戦利品――を軽く抱きしめ、売り切れだったものに心の中で涙を流しながら別れを告げた。
そして、いよいよライブ会場に向かう。
会場は、想像していたよりもこぢんまりとしたホールだった。
最大収容は千人ほどだろうか。今日の観覧は300名程なので、パイプ椅子の並びに気持ち余裕があるようだ。
ステージは腰の高さほどで、メンバーの表情までしっかり見える距離。
ドームでしかライブを見たことのない凪沙にとって、近すぎるその距離は緊張感すら覚えた。
開演前のため、ライトも照明も控えめだ。人々のざわめきと静かな期待感が漂っているようだった。
(……わ、近い……!)
チケット片手に見つけた席は、流石に目の前ではないけれど、大会場より明らかに距離が近く見やすい。
ドームならアリーナ席だ。
隣の人に頭を下げて、座席に腰を下ろす。
ステージ横の大型スクリーンに映されたS:yncのロゴが回転している。
前後左右には、ペンライトを握ったファンたちがざわざわと座っている。光が揺れ、ざわめきが押し寄せるたび、胸の奥が高鳴った。
「ねぇ、ファンみんながS:yncと目が合いそうじゃない?」
「ねー! すっごい近い!」
近くでそんな声がした。
たしかに、ファン一人ひとりの顔がステージから見えているのではないかという距離だ。
胸の奥がぎゅっと熱くなり、組んだ両手を握りしめる。
(ここからは……ただアキを見て、楽しむだけ……!)
凪沙は息を整え、心を落ち着かせる。
興奮しすぎて倒れないようにしないと。
なにせ前科――夢かもしれないが――があるもので。
開演前の注意アナウンスにお行儀よく耳を澄ませるファンたち。
BGMとして流れているデビュー曲によって、会場の空気に高揚感が満ちた。凪沙のテンションもより高まっていく。
ペンライトやうちわを用意して、皆とそわそわとS:yncの登場を待つ。
(ああ……なんかもう、幸せだなぁ……)
曲に合わせて脳内で歌いながら空気に浸っていた、その時。
――ブゥン、と音が揺れた。
「え……?」
照明がかすかに揺れて見えた。
スピーカーからザーっと小さなノイズが走り、スクリーンのロゴが一瞬揺れた。
ざわ、と背筋に嫌な感触がした。
周りのファンからも「え?」「機材トラブル?」とざわめきが漏れる。
しかし、次の瞬間。
――空気が、整った。
そうとしか言いようのない感覚だった。
何かとても清涼な感覚がして、何事もなかったかのように、会場に落ち着きが戻る。
首を撫でると、何とも言い難い嫌な感じだけが、ほんの少し残っていた。
(……今の、なに?)
答えが出ないまま瞬きをした次の瞬間、会場がぱっと明るくなった。
ステージ奥が柔らかく光り、三つの影が鮮やかに形を取る。
「――S:yncです。今日は来てくれてありがとう!」
いつもと変わらない推しの笑顔。
きゅんとときめく心は素直で、周囲の黄色い悲鳴に合わせて金色のライトを振る。
――凪沙の胸の奥は、まだ少し落ち着かなかったけれど。
(……ちょっとしたトラブル、だよね)
ステージの中央で、AKIが手を振る。
慣れ親しんだイントロが鳴り響く。
視界が一気に明るくなり、凪沙は思わず歓声をあげていた。
推しが、とても近いステージに立っている。
それだけで泣きそうだ。
――このときはまだ知らなかった。
この異変が、自分の“適合率”と深く繋がっているなんて。
ブクマ評価感想頂けるとモチベーションがあがりますので、何卒よろしくお願いいたします。




