9.こゆるぎさんはついている
推しの母校訪問という一大イベントを終え、興奮とプロ意識とで張り詰めていた精神はかなり疲弊していた。
人は楽しいことでもストレスを感じるというし、週末はゆっくりしようと決めていた。
ただ――その日は、朝からずっとそわそわして落ち着かなかった。
一昨日AKIが訪れたばかりの職場の空気は何だか少し浮ついていて、推しの影を感じてどきどきしたが、それ以上に、とある通知を待ち侘びていたのだ。
(神様仏様どうかお願いします……!)
いつ来るか、いつ来るかと携帯が気になって、仕事の合間に何度も確認してはため息をつく。
その繰り返し。
結局仕事が終わり、帰宅して、週末に夕飯を作る元気もなく、冷凍ご飯とカレーを解凍している時に、それは来た。
――ぴろん。
電子レンジの低い唸り音に紛れて、携帯が震えた。
ばっと反射的に視線を落とす。
通知欄に並んだ件名を見て、息を呑む。
『【S:ync Dome Tour】抽選結果のご案内』
レンジの音だけがやけに大きく聞こえた。
心臓が、どくん、と一拍遅れて跳ねる。
(……ま、まって)
指先が少し震えて、画面をタップするのに失敗した。
深呼吸を一つして、今度こそメールを開く。
ドキドキとうるさい心臓をおさえ、怖くなって目を細めながら、そうっと目を向ける。
白い画面。
事務的な文面。
その中に、はっきりと目に飛び込んできた一行。
『お申込みいただいた公演は、厳正なる抽選の結果、当選となりました。』
一瞬、音が消えた。
次の瞬間。
「……っ、え?」
思わず、声が漏れた。
当選。
最終日。
ドーム。
理解が追いつかず、何度も同じ行を読み返す。
スクロールして、戻って、また読む。
何度見ても、文字は変わらない。
画面を見下ろしたまま、固まる。
(ちょ、待って。え? 当たった? ドーム? 最終日?)
一度、画面を閉じる。 もう一度、開く。
(うん。当選って書いてある)
もう一回。
(書いてある)
「……当たった……?」
膝から力が抜けて、床に座り込んだ。
「……ちょっと待って……」
口元を押さえて、息を整えようとする。笑っているのか、震えているのか、自分でもわからない。
「……っ、あ……」
喉が詰まって、息がうまく吸えない。
胸の奥が熱くなって、視界がじわりと滲んだ。
当たれ。当たってください。何度も祈ったことが、実現した。
一昨日、目の前にいた人。
笑って、懐かしそうに空を見ていた人。
カメラの外で、少しだけ素の顔を見せた人。
『ライブのチケットを当てます』と宣言した相手。
その人の『本番』を、私はこの目で見るのだ。
「……嘘じゃないよね……」
呟いて、もう一度画面を確認する。
日付。
会場。
確かにそこにある、自分の名前。
電子レンジが「チン」と間の抜けた音を立てた。
それが合図みたいに、張り詰めていたものが一気に切れて。
「……やば……」
嬉しい。
怖い。
信じられない。
全部がごちゃ混ぜで、涙なのか笑いなのかわからない表情のまま、凪沙はしばらく動けなかった。
『もうすぐツアーが始まるので、暫く連絡できなそうです』
申し訳なさそうな犬スタンプと共に、送られてきた言葉。
『了解しました。体調に気をつけて、ライブ頑張ってください』
そう送ろうとして、少し考えてから、文字を続ける。
『最終日に当選しました。微力ながら応援させて頂きます』
ぺこりとお辞儀をする犬と共に送ると、良かった! 嬉しい! 頑張る!
と怒涛の犬スタンプの連打が返されて、驚きつつ思わず笑った。
そして――まさかの、着信。
「え!?」
慌てた瞬間応答を選んでしまった。
「あっ――!」
『――もしもし、凪沙さん?』
「あ、ハイ……」
『こんばんは』
「ハイ……コンバンハ……」
『ごめん、ちょっとだけお願いがあって』
「は……」
カチコチと硬い返事しかできない凪沙に対し、AKIの口調は柔らかい。
『暫く連絡出来ないから――頑張れって、一言言ってくれないかな』
「え……」
『そんなこと言われなくても頑張れってのはわかってるんだけどさ。ファンで友達の凪沙さんから言ってもらえたら――すごく元気出そうなんだ』
(ひ……人たらし……!!)
凪沙の胸中を色んな想いが駆け巡り、叫び出したいような胸を掻きむしりたいような頭が爆発しそうなそんな気持ちになりながら、空気を飲み込んで。
「……楽しみにしてます、から。無理はしないで……っでも、頑張ってクダ、サイ!」
こういう時、何を言えばいいかわからない。
それだけを必死に言うと、携帯の向こうから、ひどく柔らかい声音が落とされた。
『――うん。ありがとう。頑張る。凪沙さんも、身体に気をつけて。――じゃあ、また』
ライブで待ってる、という言葉と共に、通話が切られた。
ありがとう、おやすみ。
そんなメッセージとスタンプと共に終わった画面を前に、凪沙は呆然としていた。
「あーもうっ! ずるい!」
まるで。
何だか自分が彼の特別になったような。
いや、国公認のマッチング相手で特別なのかもしれないが――それだけじゃなくて、何かこう。
(自惚れちゃ駄目!)
そう思うのに、相手は人に夢を売る仕事をしているのだから、思わせぶりな仕草は常なのだろうから――と考えても、やっぱり。
「アキずるい! かっこいい! 可愛い! これ以上沼らせるなー!」
思わず走って自室のベッドに飛び込み、枕に向かって叫ぶ。
つい抱きしめた抱き枕の推しにぎょっとして引き剥がし、顔を手でおさえてうわぁぁと左右に転がった。
社会人にもなって、人から見られたらドン引きされる光景だ。
はあ、とため息をつく。
「……でも、世界で一番推せる……」
結局の所、それに落ち着くのだ。
その後、温め直す気力もなく食べた、冷めたカレーは味がよくわからなかった。
お読みいただきありがとうございます。
よろしければ、下の☆に評価を頂けると、大変励みになります。モチベ維持の為よろしくお願いいたします。




