第3章
キッズスペースからジョシュの姿が忽然と消えたことに気づいたザラは、血の気が引くのを感じた。心臓が警鐘のように胸を打ち鳴らす。
「ジョシュ?」
彼女は必死に呼びかけるが、返事はない。不穏な沈黙が、色とりどりの遊び道具に満ちた空間に重くのしかかる。壁に設置された監視カメラが、まるで無感情に彼女を見下ろしているように思えた。
「どこなの?」
ザラの声は震え、焦燥感が募っていく。
彼女はすぐに、領事館の警備員たちに助けを求めた。
「息子が見つからないの」
彼女の顔には、恐怖と混乱がはっきりと浮かんでいた。警備員の一人が冷静に対応しようとする。
「待ってください」
彼は落ち着かせようとするが、ザラは尋常ではない事態を感じ取っていた。
「私にドアを開ける権限はない」
ザラは警備員にジョシュの行方を問い詰めた。「あなたの、上司と話したい!」彼女の切迫した声に、警備員は「すみません、彼女が問題を…」と奥に向かって助けを求めた。すると、恰幅の良い男が二人の部下を連れて現れた。
「地域警備長の、エリック・キンチです」
キンチはザラに手を差し伸べ、事態の深刻さを理解していることを示そうとした。
「息子さんがいないと…」ザラは震える声で状況を説明する。キンチは真剣な表情で耳を傾け、すぐに建物内の捜索を始めた。彼はザラを伴い、広大な領事館内を見て回る。
「どのくらい遊び場に?」キンチが尋ねた。
ザラは自責の念に駆られ、目を伏せた。「一人にしなけりゃ…」。その言葉には、もし自分がジョシュをキッズスペースに残さなければ、という後悔が滲んでいた。
キンチはザラの苦しみに共感するように頷いた。「私には娘が」。彼は自分の経験を引き合いに出し、ザラに寄り添う姿勢を見せた。
キンチは冷静に状況を分析しようと試みる。「外に出たのかも」。しかし、ザラは彼の言葉を遮るように反論した。「このエリアの出口は1つ」。彼女は先ほど目撃した不審な光景を思い出した。
「別の出口がある」とキンチが言いかけた時、ザラは確信に満ちた口調で続けた。「ここで男女がバッグの受け渡しを。まるで何か隠してるように」。その男女の顔が脳裏に焼き付いていた。
キンチはザラの言葉に戸惑いを見せる。彼は彼女が精神的に不安定になっていると考えているようだった。
「何か?」キンチの問いに、ザラは必死に説明しようとする。「もし、2人が関与してたら?」。彼女は、その男女がジョシュの失踪と関係している可能性を訴えた。
ザラはキンチ警備長に連れられ、薄暗い個室に案内された。そこにはキンチの部下である海兵隊員も同席していた。キンチはザラの履歴書を広げ、その内容を読み上げていく。
「特殊部隊で訓練し…」
キンチの視線がザラに注がれる。
「退役軍人ですか」
まるで尋問のような口調に、ザラの苛立ちが募る。
「アフガニスタンに?」
キンチはさらに問い詰める。ザラは冷静を保とうとしながら答える。
「2017年まで」
突然、海兵隊員が口を開いた。
「今朝の受け付けはあなただけが」
その言葉に、ザラは驚きと怒りで目を見開いた。
「何かの冗談?ジョシュも一緒にいたわ」
彼女は激しく反論するが、海兵隊員は無表情に一枚の書類を差し出した。来館者リストだった。ザラがそのリストに目をやると、信じられない事実に直面する。ジョシュの名前がどこにも載っていなかったのだ。
「息子は見ていません」海兵隊員はきっぱりと言い放った。
ザラは震える声で尋ねる。「息子は来てないと?」。事態は彼女の理解を超えていた。
「監視カメラの映像は?」
彼女は最後の望みをかけるように尋ねた。しかし、キンチと海兵隊員は顔を見合わせるだけで、沈黙を守った。
ザラはキンチ警備長と海兵隊員に囲まれ、ジョシュの不在を巡る状況にさらに混乱していた。海兵隊員が冷徹な声で尋ねる。
「ウソをついてると?」
ザラは激昂しそうになるが、キンチが制止する。
「いいから頼む」
ザラは怒りを抑え込み、最後の手段に出た。
「ドイツ警察と話したい」
彼女の言葉に、キンチは渋々電話を取り、警察に連絡を入れ始める。
「エリック・キンチです。ウォルフさんが話したいと」
電話がザラの手に渡されると、彼女はすがるような声で状況を説明した。
「不当な扱いを受けてる…こちらへ来てほしい」
しかし、電話の向こうから返ってきた言葉は、ザラを絶望の淵に突き落とすものだった。
「我々が建物内に入ることができません」
ザラは顔を歪ませ、信じられないという表情で問い返した。
「それはどういう意味?」
キンチは静かに説明した。「アメリカの領土と言えます」。つまり、この領事館はアメリカの主権が及ぶ場所であり、ドイツ警察であっても許可なく立ち入ることはできないというのだ。
ザラはキンチ警備長からの、この領事館がアメリカの領土でありドイツ警察は入れないという言葉に、怒りが頂点に達した。彼女はテーブルを叩き、激しく立ち上がった。
「おい!」
キンチは反射的にザラを羽交い締めにし、その暴れる体を抑えつけた。
「落ち着いて」
彼は必死に宥めようとする。ザラの表情は苦痛に歪み、息子を失った母親の悲痛な叫びがそこにあった。
「ウォルフさん、お願いします」
キンチの懇願にも、ザラの抵抗は止まない。だが、やがて彼女の体から力が抜け、観念したように頷いた。
「分かった」
キンチはザラを解放し、数歩下がった。彼は冷静な口調で指示を出す。
「でも警察が来るまで、この部屋にいてください」
海兵隊員がザラを監視するようにその場に残り、キンチは部屋を出て行った。去り際に彼はザラに向かって、皮肉めいた、あるいは嘲笑うかのような言葉を投げかけた。
「幸運を祈ります」
ザラは一度は落ち着きを取り戻し、椅子に座り直した。しかし、彼女の心の中は嵐が吹き荒れていた。息子を失った痛み、領事館の欺瞞、そして無力感。彼女はテーブルに置かれた電話に手を伸ばし、母親に電話をかけようとする。
「母さん、私よ」
震える声で、絞り出すように告げる。
「ジョシュが消えた。ここの誰かがジョシュを誘拐したの」
母親の声が電話の向こうから聞こえる。「ザラ、薬は飲んでるのよね?」。その問いかけに、ザラの心に冷たいものが走った。自分が精神的に不安定だと思われている。
「それと何の関係が?」
彼女は感情的に問い返す。
「つらいのは分かるけど、落ち着かなきゃ」母親の言葉は、ザラの心を逆撫でするだけだった。ザラは精神安定剤を服用していたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
彼女は電話を荒っぽく切ると、顔を上げた。目の前には、依然として無表情で立つ海兵隊員。ザラの心に、燃えるような決意が宿った。このままではいけない。息子を取り戻すためには、自らの手で動くしかない。
ザラはゆっくりと立ち上がり、部屋の出口へと向かった。海兵隊員がその動きを察知し、行く手を阻むように前に出る。
「ここから動かずに」
海兵隊員の声は冷たく、命令的だった。しかし、ザラの目は既に彼の背後にあるドアを見据えていた。彼女は迷うことなく、海兵隊員に体当たりを仕掛けた。
巨漢の海兵隊員は、突然の攻撃に一瞬たじろいだ。しかし、彼はすぐに体勢を立て直し、ザラの腕を掴んで捻り上げる。ザラは痛みで顔を歪めるが、決して諦めない。彼女はかつて特殊部隊で培った戦闘技術を瞬時に呼び覚ます。関節技で海兵隊員の腕を固め、重心を崩して床に叩きつけた。相手がよろめいた隙に、彼女は素早く懐に飛び込み、喉元を狙って肘を打ち込んだ。鈍い音と共に、海兵隊員は苦悶の表情を浮かべた。ザラは彼の拘束を振り切り、間髪入れずに彼の脇腹に強烈な蹴りを叩き込む。海兵隊員は呻き声を上げ、膝から崩れ落ちた。ザラは倒れた彼に馬乗りになり、その顔面に容赦ない連打を浴びせる。拳が顎にめり込み、鼻血が飛び散る。海兵隊員は意識を失い、ぐったりと床に沈んだ。




