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闇に閉ざされた深淵から、微かな光の気配を感じた。レイルがゆっくりと目を開けると、そこには淡い日光が差し込んでいた。どうやら暗黒海の深淵から脱出し、どこかの地上に漂着したらしい。
しかし、安堵も束の間、右横腹に激しい痛みが走る。魔王に貫かれた暗黒魔法の傷だ。体力の消耗も著しい。レイルはすぐに回復魔法を唱え、応急処置を施した。だが、完全に治癒するには時間がかかるだろう。
森の中をよろよろと歩いていると、一人の少女と目が合った。彼女は試験着のようなものを身につけている。助けを求めようと口を開いたその瞬間、少女の掌から真っ赤な炎が放たれた。
「っ!」
レイルは反射的に防御姿勢を取る。手負いの身ではあるが、とっさに頭脳をフル回転させ、目の前の空間に三つの基底を生成する。これが、今の彼にできる精一杯だった。放たれた炎の魔法は、彼の固有魔法――『エーテル・マトリクス』によって演算が転置され、まるで幻のように軌道を反転。炎は少女自身へと向かっていった。
少女の驚愕した顔が、レイルの視界に映る。彼女はすぐさま防御魔法で炎を防いだが、その表情には困惑が色濃く浮かんでいた。
レイルは炎の魔法を放つ。単調な直線軌道。手負いのせいで魔法の制御がうまくいかない。それはすぐにわかった。少女は炎の魔法の不利属性である水魔法で防ぎつつ反撃しようとしたのだろうが、その水流を彼の炎はあっさりと押し切った。
「うそ……この子、もしかして、第4階位以上の魔法使いなの!?」
少女の戸惑うような独り言が聞こえてきた。
ここはどこなのか、そしてなぜ彼女は自分を襲ったのか。疑問は尽きなかったが、今はとにかく、この手負いの体を癒し、この場所がどこなのかを探る必要があった。
魔王に受けた暗黒魔法の傷を治癒し終えた時、レイルの魔力は完全に底をついた。体の内側から力が抜け、彼はそのまま意識を手放し、地面に倒れ込んだ。
リリアは気絶したレイルのそばに立ち尽くし、呆然と先ほどの出来事を反芻していた。自分の炎魔法をたやすく操り、不利属性の魔法を押し切った謎の力。そして、次の瞬間、彼女は再び驚愕に目を見開いた。先ほどまで少年の右横腹にあったはずの深い傷が、まるで最初からなかったかのように完全に癒えているのだ。
(まさか、肉体を再生するほどの回復魔法…!? それは、失われた古代魔法のはず…! 過去の宗教改革や戦争によって、その継承は失敗したとされているのに…!)
リリアの頭脳はフル回転し、目の前の現象の異常性を必死に理解しようとする。その時、試験終了を告げる合図が、静かな森に響き渡った。
意識を取り戻したレイルは、柔らかいベッドに横たわっていた。どうやら一時的に保護されたらしい。体はまだ重い。
しばらくして、一人の老人が部屋に入ってきた。彼はレイルを一瞥すると、鋭い眼光で尋ねる。
「何者だ、貴様」
レイルは素直に、かすれた声で自己紹介をした。
「レイル・アークライトです」
その名を聞いた途端、老人は鼻で笑った。
「アークライト? ふざけるのも大概にしろ! 貴様、この学院の試験会場に不正に侵入したな? 問題にしてもいいんだぞ!」
老人の声が部屋に響き渡る。その時、一人の若い男性が入ってきた。眼鏡をかけた彼は、落ち着いた様子で老人に声をかける。
「学長、お待ちください。まずは事情を伺いましょう」
男性は老学長をなだめると、優しい口調でレイルに問いかけた。レイルは、これまでの経緯を正直に話した。魔王との戦い、暗黒海の深淵に落とされたこと、そして目覚めた場所が試験会場だったこと。男性は首を傾げた。
「そうか。大怪我を負い、気が動転しているのだろう。無理もない」
彼はレイルの言葉を、混乱からくる錯乱だと判断したようだった。最後に、男性は一つの質問を投げかけた。
「君の故郷はどこかね?」
レイルは迷わず答えた。
「エルドリアです」
男性は驚いたような表情を見せた。
「エルドリア…? それは、随分と昔の名前だ。魔王が倒されてから500年、今は新生ゼノビアと呼ばれている」
その言葉に、レイルは愕然とした。
レイルが目を覚ましてから数日後、あの眼鏡をかけた男性が部屋を訪れた。彼はアルド・フェルナンデスと名乗り、レイルに魔法学院の追試を受けないかと提案する。
この数日で、レイルは自分の置かれた状況をある程度理解していた。500年の時が流れ、カイルも魔王も、自分が知る世界も全て過去のものとなった現実。それは彼の心を深くえぐり、何に対してもやる気が起きなかった。時折、ふと頭をよぎるのは、全てを終わらせてしまいたいという、暗い衝動だった。
レイルは、あてもなく街をぶらぶらと歩いていた。500年後の世界は、何もかもが目新しく、しかし同時に、彼自身の存在が宙に浮いているような感覚に苛まれていた。人々の賑わいも、眩しいほどの街の光も、彼の心には届かない。
そんな中、ふと、路地裏の一角から小さな声が聞こえてきた。見ると、幼い男の子が一人、手のひらを懸命に空に向け、何やら呪文のようなものを呟いている。足元には、彼が失敗したのだろう、水が飛び散った跡がいくつか残っていた。どうやら魔法の練習をしているようだ。それは、かつての自分を見ているようで、レイルの足は自然と止まった。
「こうすると、もっとイメージしやすいよ」
レイルは、気づけば少年の隣に立っていた。そう言って、彼は自身の指先で空中に水の流れをなぞるように動かし、少年がイメージしやすいように補助する。少年は目を輝かせ、レイルの動きを真似た。次の瞬間、少年の手のひらから、勢いよく小さな水の塊が飛び出した。
「やったー!できた!水魔法、できたよ!」
男の子は飛び跳ねて喜び、満面の笑みでレイルを見上げた。
「ありがとう!お兄ちゃん!」
その純粋な喜びの声と、真っ直ぐな感謝の言葉が、レイルの心の奥底に染み渡った。世界を救ったところで、誰も彼を知らない。失われた500年の時間の中で、自身の存在意義を見失いかけていたレイルの心に、この小さな光景はあまりにも温かく、そして、あまりにも眩しく映った。
こみ上げてくる感情を抑えきれず、レイルの目から大粒の涙が溢れ落ちた。それは絶望の涙ではなく、確かに、生きることを決意した涙だった。漠然と、だが確かに、彼の心に温かな光が差し込んでいく。
突然泣き出したレイルを見て、男の子は戸惑ったように首を傾げた。
「お兄ちゃん、どうしたの? 痛いの?」
小さな手が、レイルの服の裾をそっと引っ張る。その無垢な優しさに、レイルはさらに涙をこぼしながら、ゆっくりと首を横に振った。この温かさこそが、彼がこれから生きていく理由なのだと、心の底から感じていた。