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エルは、新たな地で再び名前を変え、ルキウスとして生活することを決意した。エリュシオン魔法学院があった地域から数百キロ離れたこの辺境の地は、彼の研究にはうってつけだった。
この地域には、エリュシオン魔法学院とは比べ物にならないほど規模は劣るものの、国営の魔法学校があった。その名もアストラル魔法学校。国営ゆえに、蔵書は比較的豊富で、過去の資料なども多く保管されている。ルキウスは、自身の研究を進める上で、この学校の図書館が大いに役立つと考えた。
そして数週間後、ルキウスはアストラル魔法学校の入学試験に臨んだ。
アストラル魔法学校の入学試験は、エリュシオン魔法学院とは異なり、実技試験はなく、筆記試験のみだった。ルキウスにとっては拍子抜けするほど簡単な問題ばかりで、彼はやすやすと合格を勝ち取った。
合格通知が届いた日、ルキウスは淡々とそれを受け取り、荷物をまとめて新たな生活の拠点へと移った。アストラル魔法学校の校舎は古びており、石造りの壁には苔が張りつき、魔力の流れが時折その表面を揺らすように感じられた。華やかで洗練されたエリュシオンとは正反対の質素な雰囲気――しかし、ルキウスにとっては、その質素さこそが心地よかった。
彼は学生寮ではなく、学校の裏手にある古い小屋を借りて暮らすことにした。かつて教師が使っていたというその小屋は今や誰も住んでおらず、ほこりと静けさが支配していたが、ルキウスにとっては理想的な環境だった。魔法の研究に没頭するには、騒がしさや無意味な社交は不要だったからだ。
アストラル魔法学校での日々は、ルキウスにとって淡々としたものだった。エリュシオン魔法学院のような刺激も、ゼノス教授とのような衝突もない。彼は授業にも試験にも労力を費やすことなく、ただひたすらに自身の魔法をより洗練されたものへと強化していくことに時間を費やした。図書館にこもり、与えられた教材を読み解き、自身の「法則創生者」としての能力を深く掘り下げていく。時に実験室で、時に人気のない校庭の隅で、彼は自身の理解を深め、魔力の制御を磨き上げていった。同じような毎日が繰り返される中で、ルキウスの魔法は、確実に、そして静かに、その深淵を増していった。
アストラル魔法学校に入学して数ヶ月が経ち、ルキウスは静かな日々の中で着実に研究を進めていた。そんな彼の姿を、陰ながら見つめるひとりの少女がいた。彼女の名前は――
ミレイナ・セレスタ
貴族の家系に生まれながら、引っ込み思案な性格のミレイナは、いつも人混みの端で静かに本を読んでいるような少女だった。幼いころから周囲の期待や視線にさらされて育ったせいか、人と深く関わることを避けがちで、友人も少なかった。
それでも彼女の目は、いつも自然とルキウスを追っていた。
最初は図書室だった。誰もが魔術理論の本に囲まれた一角で、淡々と資料に目を通すルキウスの姿に、ミレイナは小さな衝撃を覚えた。何かが違う。彼の纏う雰囲気、視線、そして圧倒的な静けさ。そのすべてが、まるで深淵に立つ賢者のように感じられた。
「……すごい人だな」
そう呟いた自分の声に驚いて、慌てて周囲を見回してしまうほど、彼女にとっては特別な存在となっていた。
それからというもの、ミレイナはルキウスの行動を「偶然」を装って追うようになった。朝の登校時、廊下でのすれ違い、授業後の庭園、図書室の一角……彼女は常に「たまたまそこにいた」ことにして、ルキウスに声をかけるタイミングをうかがっていた。
けれど――
「……っ、やっぱり無理……!」
結局、いつもその勇気は喉元で詰まってしまい、声をかけられずに終わってしまう。心臓の鼓動が痛いほど鳴るたびに、彼女は自分の弱さを噛みしめていた。
ある日の放課後、ルキウスがいつものように人の少ない中庭の石畳に腰を下ろし、一冊の古文書を広げていたときのことだった。ページをめくる指先は迷いなく、しかしその瞳には明らかな警戒心が宿っていた。ここ数日、誰かの視線を感じることが増えていた。
その気配の正体はすぐに現れた。低い垣根の向こうからそっと顔を覗かせていたのは、同じ学年の少女、ミレイナ・セレスタ。淡い金髪をゆるく編んだ髪、揺れる瞳に少しの不安と興味が宿っていた。彼女はルキウスといくつかの講義を共にしていたが、これまで言葉を交わしたことはない。ただ、目が合えば小さく会釈をするだけ。それでも彼女は、いつも彼の近くにいた。偶然を装って。
ミレイナは、ルキウスのいる場所を見つけるたびに、遠巻きにその姿を見つめていた。自分でも、この感情がただの興味なのか、それとももっと違うものなのか、はっきりとはわかっていなかった。ただ、気がつけば彼の背中を目で追っていた。
そして今日、彼女は小さな決心を胸に抱きながら、ルキウスの隣のベンチにそっと腰を下ろした。「こ、こんにちは……ルキウスくん」――その一言が、震える声の中からやっとこぼれ落ちた。
ルキウスは一瞬、本のページを閉じかけ、鋭い視線で彼女を見た。その目は、彼女が何を知っているのかを探っていた。この本を見られた――彼はすぐにそう悟った。表紙には古代語で記された「光の円環と虚無の交差」。正規の図書目録には載っていない書物だった。
「……それ、難しそうな本だね」ミレイナは目をそらしながら言った。だが、その視線はしっかりと表紙に向けられていた。意味は理解していないようだったが、そこにただの興味以上のものが含まれていることに、ルキウスは気づいていた。
「幻想文学の一種だよ。昔の話さ」
その答えにミレイナは小さくうなずいた。「そうなんだ……文字がきれいだなって思って……」
ルキウスの警戒心は、ほんの少しだけ和らいだ。彼女の声に含まれる純粋さは、作られたものではなかった。
「君も、本を読むのが好きなのか?」
「え、うん……あんまり難しいのはわからないけど、図書室の匂いとか、静かな感じが落ち着くから……」
自分でもうまく説明できないのがもどかしいとでも言うように、ミレイナは少しだけ笑った。それは、まだ幼さを残した笑顔だったが、どこか心に引っかかるものがあった。
その日を境に、ルキウスの静かな日常は少しずつ変わっていった。
彼女は毎日のように、自然を装って彼の近くに現れるようになり、ほんの短い会話を交わす。ルキウスもまた、それを避けようとはしなくなっていた。いつの間にか彼は、彼女の声や視線を、受け入れ始めていたのかもしれない。