2.交易都市 彼女の声(2)
夜の冷気が頬を刺す。目がチカチカと痛み、彼は立ち止まってマフラーをまき直した。今度は首だけでなく、口元まで覆うように。
裏路地を駆け抜け、街を出た。警備チームの詰め所も、外敵はともかく内側なら抜け道がある。住民ならなおのこと。上手くすり抜けて郊外に来る。
やってきたのは街の西側。なだらかに盛り上がる丘の頂上を、彼は今夜も目指している。
街の中ではなだめられていた夜気も、ここまで来ると吐息を白く染め上げた。文字通り、人工物に影響されない外気なのだから。
最後の世界大戦。200年前の戦争が乱した星の気候は現在も変わらず、この先も続いてゆくに違いない。昼となく夜となく、いつ何時、異常気象に見舞われてもおかしくない。むしろ異常性が日常なのだ。
急上昇または急低下する気温など序の口。真夏日の最中、ヒョウが降ることさえままある。今日でさえ、日中は炎天下だったのだ。
踏み出す度、靴裏でシャリシャリと音を立てる草原が良い例だろう。昼の湿気に濡れた若草が、月下の夜風に凍っている。気温を計るまでもなく、今宵、この丘は氷点下に達していた。
「ふぅ……」
再び歩き出そうとした彼は、その前にふと後ろを振り返った。
現在、彼自身も住民であるその街は、ここからだとさながら軍の要塞に見えてしまう。防護壁という名の堤防……金網と特殊繊維で土砂を包んだブロックが、外縁部を覆うべく積まれた様子は物々しい。
要所には前述した有人の詰め所と、そこで遠隔操作する半自律式の複合ターレットが設置されていた。機銃と対物榴弾を搭載する、ちょっとした固定砲台だ。野生兵器が現れたらすぐさま迎撃し、砲弾さえ撃ち落とす。
あの要塞の中だと、気温は比較的安定しているのだ。街を構成している複合建材が、熱を吸収し冷気に応じて放熱する。限度があるにせよ、街の中ならたとえ身ひとつで寝ても死にはしない。
「……何が幸運だよ」
ぽつりと落ちる、ニヒルな物言い。
こんな夜に外へ出る度、彼は街の暮らしを思い出しては皮肉癖に取り憑かれてしまう。
大抵の人々は、あの複合建材をありがたがる。しかしそもそも、あれは大戦中に生まれた技術だ。戦後に訪れる異常を予知していたのか、それとも別の理由があったのか。こんな世の中にした元凶に縋り、感謝さえする大人の姿が、彼にはひどく滑稽なものに映るのだ。
不幸中の幸いと言えど、不幸に変わりはない。この世に呪いをもたらした200年前の先祖たち。どこまで呑気なら、そんな連中をありがたがれるのか……と。
「やめだ。やめとこう」
月の凍てつく吐息のせいだ。普段から斜に構えたところのある彼は、けれどいつにも増して自分が冷めているのに気付き、かぶりを振る。
この世の不条理に気付いている少数派。そういう演出に浸りたくて家を抜け出したのではない。こんな夜更けに、顔見知りの警備兵に目を瞑ってもらい、わざわざ工具箱まで抱えて。
そう。ターレットのセンサーは誤魔化せない。結局のところ今ここに彼が立っていられるのは、彼の称するところの滑稽な大人による目こぼしありきなのだ。
そして何より過去の亡霊への批判を口にするのは、建材の恩恵とはまた別の視点で心が痛む。
彼は今夜も、まさに亡霊のもとに向かっているのだから。200年前の、たった一人の友人の声を聞くために。
また歩き出す。
霜柱を踏みしだいた先、その丘の頂上。ひとつのシルエットが鎮座していた。月下に浮かび上がる鉄塔。傍らに何かの施設が寄り添う。
灯りが無いのは、街と違って節電のためではあるまい。骨組みだけの塔は、誰の目にもひしゃげている。人の気配が窺えない。近づくごとに、そんな予感は確信へ変わった。
放棄された通信施設。
軍事目的にしては小規模だ。きっと戦前は民間の無線基地局だったに違いない。調べようがないのは、誰も興味がないからだ。
街にはちゃんとした通信設備があり、わざわざこの廃墟を使う必要はない。せいぜい来客の目印になる程度。ランドマーク以上の価値も関心も、ここになかった。
一人の例外を除いて。
「硬ぇな、このっ……!」
軋むばかりのドアと格闘し、こじ開ける。何度か手を入れているのに、数日空くとこの有り様だ。近くに転がっていた鉄パイプを取り、ようやく開いた隙間へ差し込む。結局いつも通りの力技。
どうにか通れるだけのスペースを確保し、滑り込んだ。普段は歯がゆくなる少年の身体も、こういう時にはありがたい。
すえた空気が出迎える。小屋と称して差し支えないほどの空間へ、雑多に敷き詰めたのは電子機器。施設の裏手に発電機があるため、外部とは完全に切り離されている。
ただし動くかどうかは、いつも賭けだ。
毎回、彼がドアを閉めて帰るのは、ここの設備を少しでも守るため。二〇〇年もの間、人知れず放置されてきた機械群である。経年劣化は言うまでもないし、事実、コンソールのいくつかはパネルが剥がれ、束になったケーブルを露出させていた。
おまけに外界の環境は前述した通り。いつも苦労しているドアを解放して帰ったら、全ての回路は何時間でショートしてしまうか。試したくはない。
「生きてるな」
彼はコンソールのひとつに近づくとディスプレイ脇のランプを確認し、安堵した。小さな非常灯が光っている。予備電源が動いている証拠。主電力が起動するのを待つ、スタンバイ・モード。
そこで一旦、彼は外に戻った。ぐるりと施設を半周。発電機に近づき、そこでようやく抱えてきた工具箱を開いた。
パーツを外し、取り換え、その度にまたコンソールまで戻って、さらに再び発電機へ。夜闇の底に、幾度となく行き来する。時折、溶接の明かりが瞬いた。
それから程なくして。
「頼むぞ、動けよ……」
主電源を起動。発電機の低い唸りが、忘れられた設備に命を蘇らせる。
「よし……! よし、よし……!」
思わず握った拳はすっかり冷たくなっていた。内心の興奮――事前にシミュレーションし、部品を揃え、今夜ついに成功した実感が、夜の冷気を忘れさせる。全身の血が沸騰するような高揚感だ。
あらかじめ補修しておいたコンソールに飛びつき、起動。ヘッドセットをかけ、接続プラグを繋ぐと、まず深呼吸を一度。胸の高鳴りを悟られないよう。成功にはしゃぐ子供っぽさを……年相応の一面を見せないよう。
彼はヘッドセットのレシーバーに吹き込んだ。
「エマ、聞こえるか?」
返事を待ち、数秒。横目でちらりと周波数を確認してみる。設定はいつも通り。間違っていない。
そもそも、すぐに応答のある方が珍しい。近くの居住区に連絡するのとはわけが違う。彼が呼びかけているのは、遥かな空の――。
「エマ? 聞こえてるだろ?」
『……ああ』
ノイズに意思が混じる。人間の、少女の声質。一拍挟んだ後、次はより明瞭に聞こえる。
『こんにちは、ノア』
「こんばんはだよ」
わざとらしく呆れた彼への、返事は苦笑を含んだ。
『ああ、そうだった。つい忘れる。羨ましいんだ』
「何の話だ?」
『君たちには時間が流れてる。君と話すと、よくわかる。私にはそれが羨ましくて、嬉しいんだ』
エマ、と。彼――ノアにそう呼ばれた少女は、感慨深そうに告げた。
声の印象で言うなら、二人は同年代だろう。どちらも子供。どれだけ成長したふりをしようと、無邪気さと好奇心が抜けきらない、幼い世代だ。
なのにエマの口調には、老人めいた風格が備わっている。
演技ではない。ノアのように大人ぶろうとしているのではなくて、むしろ見栄がない。言葉にした通りの感情を抱いている、本物の達観だ。
「さすが二〇〇歳のバアさん。言うことが違うな」
『正確にはまだだよ。でも私以外の女性と話す時は、もっと発言に気をつかった方がいい』
気安いやり取りに、どちらからともなく笑いがこぼれる。
二〇〇歳というのは何かの比喩か。ちょうど最後の世界大戦と同じ年。人類の文明が、頂点から終末へと目まぐるしく崩壊していった転換点だ。
しかし仮に当時の医療技術を総動員したとして、二世紀もの間、一人の人間を生かすことが可能なのか。何よりエマは、雰囲気こそ大人びているものの、その声は若く幼い。
『そっちの様子は?』
やはり少女の声が言った。
「ああうん、バッテリー、またアレンジしてみたんだ。調子良さそうだし、まだしばらく話せるだろ」
とは、先ほど作業していたパーツのこと。ここの設備、実はほとんどノアの手で修繕されていた。日々の合間に修理の手順を思い描き、時折、家を抜け出しては実践する。それが彼にとっての日常で、腕試しという建前の息抜きだ。
この丘の上で放棄された施設は、彼にとってお気に入りの遊び場である。
もっとも、近頃は他の楽しみの方が大きいかもしれない。
『相変わらずだね』
穏やかな微笑が思い浮かぶ。そんな雰囲気でエマは言う。ここでしか聞けない彼女の声。退屈な街の中ではなく、憧れても決して届かない外を感じさせる彼女との会話が、今ではノアが腕試しをする理由になっている。
「相変わらずだよ。野生兵器はいるし、どっかでドンパチはしてるし。俺も毎日毎日、機械屋の真似してるだけさ。そろそろ独立してーよな」
『応援してる』
「……マジで言ってる?」
自分で宣言しておいて思わずぎくりとしたところに、ノアの子供らしさがあると言えるだろう。日頃から師匠兼保護者の老夫婦にさえ、同じ口調で啖呵を切っているのだが、あの二人が相手だと軽くあしらわれてしまう。
けれど、エマは端的であれ真剣な口調を返した。それが一瞬、後に引けなくなったような印象を少年に与えたのだ。
『夢は大きくね』
「なんだよ、からかっただけか」
『からかってないよ。一人で通信施設を直せる天才なんだから。独立してもやっていけるよ』
「そうかぁ? ああ、でも……ははっ、そうだよな」
照れ隠しに鼻で笑うつもりが、いざ口にすると素直な笑みになってしまったことに、ノアは内心で驚いた。こうして自然に話せるのも、エマの前だけだ。
続く言葉は、引き出された純真さによるものだろう。
「いつか、あんたのとこまで行くよ」
『そんな日が来てくれたら、って。思わないわけじゃないけどね』
エマの声に、いくらかの物悲しさが混じる。
「応援してくれてもいいだろ」
『いいや、応援してる。これは本当。だけどね、ノア……私の居場所が遠すぎるのも、事実なんだ』
「距離がなんだよ。昔の人間は月にだって行ったんだろ?」
『ずっと昔の話だよ。私より何世代も前の』
「月よりは近いさ。俺は天才なんだろ? そんな大昔の連中に出来たんなら、俺にだって出来る」
きっぱり言い放つと、束の間、エマは黙り込んだ。何か言葉を探している。この少年に、もっと別の夢を追わせられる言葉を。
しかし、
『……ノアは頑固だものね』
やがて諦めた様子で呟いた声は、むしろ嬉しそうに期待を秘める。
「ジジイの仕込みだよ。機械屋ってのは、血の繋がりに関係なくこうなんだと。……なあおい。夢は大きく、って言ったのは誰だ?」
一拍。冷え切った地面に、開いたままのドアから月光が差し込む。
「現実的なあれこれは、天才が何とかするさ。きっかけが欲しいんだ。原動力ってやつが。独立も、そこまで行くことも。やるって決めれば、踏ん切りつけるのが楽になる。機械だってそうだろ?」
『どうかな。そういうことは考えたことがないよ』
「なら考えててくれ。気長にさ。そのうち俺が……」
そこまで言葉にした瞬間、何の脈絡もなく電源が落ちた。
「エマ? ……畜生」
暗闇の中、苦渋を噛み締める。
この通信施設は、前述した通りずっと昔から壊れていた。いつ限界が来てもおかしくない。そしてノアには、まだ全てを修理できるほどの知恵も技術もなかった。騙し騙しやってきたが、今夜、寿命が訪れたのだ。
呼び止める間もなく消えてしまった、エマの声。胸の中心を貫かれたような喪失感に襲われ、彼はただじっと立ち尽くす。
やがて冷え切った空気に混じる、言葉にもならない嗚咽。孤独の中で響く、少年の苦痛だ。




