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BLACK HAND -宇宙幽泳-  作者: 木山京
宇宙幽泳

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8.最後に残ったひとつ 打ち砕く腕(2)

 瓦礫の軋み。肺を犯す土埃のざらつきと苦み。全身に響く鈍痛。

 他に何も感じないし、何も聞こえてこない。鼓膜がどうにかしてしまったのか。それともこれが気絶の最中に見る明晰夢のようだからか。


 まぶたがひどく重かった。開けようと試みる度、まるで海底から伸びる怪物の触手へ絡め取られてしまったように、底へ底へと沈んでゆく。沈みながら、声なき声が耳朶に吹き込まれてゆくのだ。

 もう動けない。充分だ。これ以上、無理することはない。今までで充分すぎるほど必死に生きただろう、と。


 混濁する意識の底に、そんなことを囁く自分の声を聞きつつ、イブキはふと何かと思い出しそうになっていた。

 なんだったか。いつだったか。

 こんなことが前にもあったと思う。


 既視感? いや、そんなぼんやりしたものじゃない。もっとハッキリと、この身に焼きついた記憶だ。だけれど、いつの? 今じゃないいつかの、どんな頃の出来事だった?

 いいや……。


『ああ、そっか……』


 微かに右手が動く。黒い機械仕掛けの指がヒクついた。


『……あの時だ』


 そう遠くないはずの、過去。

 突然、それまでの全てが消えてしまった頃。

 唯一絶対の家族だと思っていた人に、わけもわからず捨てられた後で。独り、あてもなく影を追い放浪していた少女は、やがて機械たちの街にたどり着いた。時折、彼女がじっと聞き入る、あの音楽を演奏してくれた人々の街。


 フィルハーモニー。

 音楽を残すべく、かつて兵器だった機械たちが演奏を続け、ひょっとしたら永遠に来ることのない観客たる人間を待ち続けた場所。そして最後には、その人間の手で――復興軍という脅威によって滅びた街だ。

 家族を失ってからイブキはそこで育ち、そして再び失った。


 ある晩に押し寄せた急襲部隊の、銃口に対してさえ、彼らは演奏で応えようとし、言い換えるならば無抵抗のまま銃火に撃たれた。文字通り、フィルハーモニーにいた野生兵器たちは、懸命に遺そうとした音楽という文化に殉じたのだ。

 そしてイブキもまた、そうなるはずだった。

 しかし……。


『逃げなさい』


 楽団の指揮者たる老人は言った。正確には、戦前に生きた老人の人格を複製し、ホログラム投影で再現した機械が。人型であるものの本体は針金のように華奢で、さながら骸骨の標本のようだったのを覚えている。


『お前は逃げて、自分の人生を生き延びなさい』


 決して暖かくはないはずの繊手が、そう言って少女を送り出した。ビィという一機のドローンと共に。護身用に、と。まだ生身だった右手に、一丁の拳銃を持たせて。

 地上に逃げ場はなかった。だからイブキとビィは、地下へと逃げ込んだのだ。街の外まで続く、古い排水路を。枯れ果てて久しいその道を、ただ生きるためにひた走った。


『はぁっ、はぁっ……! はっ、はっ、んく……っ、はぁっ、はぁっ……!』


 頭上から聞こえる爆音に耐え。

 注がれる破壊に、揺れる昏い地下の道を泣きじゃくりながら。

 そしてもう間もなく、出口が見えるという頃だった。


『あ……っ!』


 きっかけはなんだったのか。近くの建物が崩落したか、それとも空爆が直撃でもしたのか。

 頭上に亀裂がはしる。とにかくそう思った時すでに、石造りの天井は建築物としての役目を失い、一転して脅威となり少女の体に降り注いだのだ。

 衝撃に朦朧としながら、気付けば走ってきた道は完全に塞がり、自分は奇跡的に瓦礫の直撃こそ免れて地面に伏している。唯一、右手の違和感を除いて。


『く……んぐ……っ』


 果たして神の奇跡か、悪魔の仕業か。壊れた建材同時の隙間に、幼い右腕は完全に挟まっていた。たぶん潰れてはいなかっただろう。指は動かせたし、感覚もあった。けれど、どうやって引き抜こうとしても右腕は全く抜けず、ただの少女の力で引っ張り出せるものではない。

 そうだ。ただの少女だったのだ。


 その時の、このイブキという娘は。


『ビィ……! ビィ、どこ……!? 助けて……! ……助けてよっ』


 後に相棒となる飛行ドローンは瓦礫を挟んで反対側に居たなどと、この時の彼女は知る由もない。無力に助けを求める、それしか術がなかったのだ。乞うように、祈るように。

 それがやがて、別の相手にもすがっていった。


『助けて、ビィ……助けて、ヴィル……。助けて……助けてよ、ミツバ……』


 友人のドローンから、楽団指揮者である老人へ。そして老人から、どういう理由で自分を捨てたのかもわからない最愛の人へ。

 大粒の涙をとめどなくこぼしながら、嗚咽は止むことがない。


『助けて……死にたくない、死にたくないよ……』


 生きろと言われたからでもなく、愛する人にまた会いたいからでもなく、ひたすら動物として生まれ持った本能が、幾度も幾度も少女に泣き声をあげさせた。


 頭上ではまだ爆発の音が轟いてくる。振動し、ギリギリで支え合っている建材が、今まさに崩れたとしてもおかしくない。

 そうしたら今度こそ死ぬだろう。間違いなく。このちっぽけな子供の体は、当然のように瓦礫へと押し潰され、誰に知られることもなく、暗い地下の奥底で息絶えるのだ。ぴしり、ぴしり、と周囲で鳴る地下道の悲鳴が、死神のカウントダウンにすら思えた。


 だから、もがくのだ。迫りくる死が怖いから。この地下に生き埋めにしようとする、瓦礫に挟まれた右腕。この腕さえどうにかすれば、まだ生きられるはずだから。


『嫌だ……! やだ、死にたくない……! 死にたくない、死にたくない……っ』


 すでに錯乱していたに違いない。死を目前に、冷静さなどを保っていられるはずもなく、ましてや、ここにいるのはごく普通のありふれた子供でしかないのだから。

 足掻いたところで無駄に決まっている。ここで息絶える他に道などない。独りの少女に、それ以外どんな選択が出来よう。――左手の指先へ、かつん……と。硬質の感触が当たるまでは。


『……!』


 先頃の崩落時、果たしていかなる経緯を辿ったのか。岩とは違う触り心地に、指で必死にたぐってみると、やがて左手に収まったのは銃だった。

 護身用として持たせてもらった、あの拳銃。子供が使うにはやや大振りで、しかしシングルカラムの弾倉を秘めたグリップは、小さな手でもなんとか収まるという、四五口径の自動拳銃。


 死神が選択肢をもたらした。

 この瞬間、少女の全身を包んだぞくりとした悪寒は、言語化するならばそうなっただろう。

 右腕は動かない。どうやっても抜け出せない。この右手さえ抜け出せば。この右手さえ無くなれば。


 ――死にたくない。


『はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ……!』


 ただひとつ記された生存への道に、全身が震える。考えただけで脂汗がにじみ、体の底から恐怖が迫りくる。当たり前だ。こんなのは正気の沙汰ではない。要するに二つに一つだったのだ。

 正気のまま死ぬか。狂気に染まって生きるか。


 だから彼女は、震える手で拳銃を掴みなおした。サムセイフティを確認し、ガチガチと震える歯へ精一杯の力を込め、スライドを咥えて初弾を装填。そうして体勢を変えようとすると、どういうわけだろう、いやに頭が冴えてしまい、一度は銃をそっと置く。

 やめたのではない。これからやるべきことのため、彼女は手ごろな岩をひとつ取って、自分の口へと猿ぐつわをしてみせたのだ。

 決して舌を噛まないように。絶対に仕損じないために。


『ふぅーっ、ふぅーっ、ふぅーっ……!』


 再び拳銃を取る。すでに発砲可能な銃口を、ガタガタと怯えながら――右手にあてがった。


『ッ!』


 思い切り瓦礫を噛むのと、四五口径の銃声とが重なった。幼い右腕を穿つ弾丸。声にならない絶叫が地下へと響く。意識が飛びかけ、目の奥でフラッシュでも焚かれたように白い光が浮かぶ。限界を伝える痛覚に、ただ意志の力だけでしがみついた。

 まだ足りない。一発では、この細腕は千切れてくれない。


『……ッ!』


 だからさらに撃ち込んだ。二発、三発。自身の右腕に撃ち込んでゆく。発射する度に筋肉が貫かれ、骨を砕き、しかし勢いに任せて四発目を放とうとした時、トリガーから手応えが消えた。カチカチと何度引いても発射しない。


 ジャム。弾詰まりだ。よく見れば薬莢が排莢口に挟まり、装填不良を起こしたのがわかっただろう。

 されども、この時の彼女にそんな知識はなく、銃が壊れたと思い込んで放り捨てるしかない。あとに残ったのは、中途半端に風穴があいた右腕。骨は砕けている。筋肉の大半も。簡単に切り離すには、まだ数発が要っただろう。


『がっ……あぁッ! ふっ、ふぅーっ……ぐっ、あぁ……ッ』


 涙と唾液と、自身の腕より飛び散った血と肉片と。何もかもで汚れた少女が呻く。


 まだ終わりじゃない。

 左腕も、両足も、いや全身を使って這い進みながら、壊れた右手を引きちぎりにかかった。


『あぁ……ッ、がぁあああッ! ぐ、ぎぃ……ッ、あぁああああッ!』


 絶叫と共に数ミリ進む。数ミリと共に、ぷつりぷつりと筋繊維のちぎれる音が脳髄へ響いた。鮮血が吹き出し、喉が避け、じわりじわりと右手が離れてゆく。

 まるで永遠に続く地獄のようだった。苦痛に壊れかけた脳を、死にたくないだけの衝動で無理やり現世に引き留め、少しずつ少しずつ右手の肉を限界へ追い込む。いつ果てるとも知れない狂気の苦痛。


 それが突然、終わりを迎えた。ブツン、と。頭の中で何かが壊れる残響と共に、少女の咆哮もまた途絶えた。


『あ……が……んぐっ、く……はっ、はっ、はっ、はっ……』


 気付けば右手の、前腕の半ばから先が途切れていた。奇妙な感覚だった。そこにはもう手などなく、剥き出しになった傷跡から血が溢れ出るだけなのに、まだ手があるような気がしてならない。

 そしてより不思議なのは、奇妙なほど冷淡な思考能力だ。


『逃げなきゃ……』


 汗と血にまみれた口元が囁く。すると体は、言の葉に命じられたように動いた。左手と犬歯を使い服の一部を引き裂くと、引きちぎった右手の傷口近くをぎゅっと縛る。最早、苦痛にも麻痺していたのかもしれないし、脳のどこかが本当に壊れ、タガが外れてしまったのかもしれない。


 そうして地の底より、イブキは這い出た。

 自身の腕を自ら切り捨てて。

 正気のまま迎える死を、一心不乱に拒み続けて。


 ――そして今、イブキはもう無力でなかった。


「……」


 あの時とよく似た、瓦礫の中。シャイアン・マウンテンの地下深く。土煙の中、むくりと身を起こす小柄な輪郭が浮かび上がる。


 彼女を狙った砲弾は、面制圧に向いた榴弾。しかし経年劣化によるものだろう。イブキを逸れて飛んだそれは不発の結果、単なる質量兵器と化して地下通路の外角を破壊した。

 運がよかった、と。彼女は声とせず呟く。


 今はあの時と違って戦える。無垢な少女が、脅威に立ち向かえるよう一足飛びに成長するため、必要な犠牲。その清算は、すでに終わっているのだから。

 土煙の中、青白い電流がほどばしった。


 こちらの被害はガスマスクの破損だけ。さっきまでなら致命的だろう。スプリンクラーは停止しているが、生きている。ノアとビィのおかげだ。このエリアのガスは、ギリギリ無効化されたらしい。

 警報が聞こえる。基地のスピーカーが緊急事態を知らせていた。


 そして帯電した黒い右手が、土埃を一閃。晴れた視界の先、こちらを睨む鋼鉄の猛獣がいた。いやそれだけではない。先ほどまで死んでいたはずの機械兵たち。その何割かが、まるで古の秘術を享受したかのように立ち上がり、独りの少女を睨んだ。

 二〇〇年前の戦車、X‐TDT140。知識としてはあった。対面など想像の埒外だが。この機体が、周囲のドローンを操っている。一対一でも少女と戦車という戦力的に無理のある構図。撃破するには対戦車装備の歩兵が、果たして何個小隊で足りるだろう。おまけに随伴歩兵までいる。


 状況はあまりに絶望的。常人ならば無意味とわかっても降伏の意を示すか、あるいは命を絶つか。

 でも、だからきっと、イブキはまたいつもの顔を浮かべたのだ。片頬に浮かぶ、不敵な微笑で。


「――来なよ」


 挑発めいたそれが戦車たちに聞こえたかどうか。ぎしり、と音を立てた砲塔が狙いを定め直した、刹那。同軸機銃が放たれ、ほぼ同時に機械兵たちが殺到した。

 それらより一瞬早く身を沈めて駆け抜ける、濡れそぼったローポニーの軌跡。

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