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8.5幕 洞木周の独白

 

 洞木周は男装女子大学生である。だがそれは女性である意識を放棄したことには繋がらない。

 確かに男装という性質上、普段はあまり女性らしい身嗜みはしていない思う。週に5回の大学は全て男装して通っている。そのため世の中の女性のように忙しい朝の合間を縫って化粧はしていないし、服もシンプルなものばかり選んで身に纏っている。しかし部屋には使用頻度は低いものの化粧は手に取りやすい場所に安置されているし、服だって可愛らしいものからスマートな出来る女性を意識したものまで衣装棚に取り揃えられている。休日となればそれらを身に付けて高校時代の友人に会いに行くこともあれば当然のことだった。


 とはいえ。割合的に洞木周という少女は男として過ごす瞬間の方が多い。大学生活も三ヶ月目に突入した現在、スカートよりもジーパン、化粧よりもハードワックスの方が手に馴染むようになってきてしまって少し複雑な心境なのも本心だった。自ら望んでやっていることであるとは言え、男装は目的ではなくあくまで手段。女装が趣味な保月二千翔とは全く違う。保月なら女装の為に必要な行為なら喜んで努力して手間も掛けるだろうが、普通の感性に近いものを持つ洞木は毎日の男性らしいヘアスタイルに整える瞬間も、服屋で男性らしい服装を選ぶ瞬間も、どれも身も心も女の洞木にとって億劫なものでしかない。


 今日もミルクチョコレートのように茶色い髪の毛に櫛をさっと通すとドライヤーで癖を付け、ワックスで素早く毛を束ねていく。

 それから鏡で確認する。鏡像を見る限りではそこに立っているのは中性的な容姿の青年。女性らしさが完全に消えている訳では無いが、髪型や服装などが相まって少し女性ホルモンの強い青年という枠内に収まっている。雰囲気的にはアイドル系、実際に駅前でスカウトされたこともある。一考もせず断ったが。


 表情を変えずにそれを認識すると洞木は手に荷物を持って家を出た。今日も普段と同じように大学が待っている。


 洞木は実家住まいだ。家から大学のある最寄り駅まで電車で20分ほど、スマホを適当にブラウジングしていれば一瞬で着いてしまう距離である。


 改札を出ると外は雨が降っていた。反射的に傘を開く。六月上旬。梅雨シーズン到来かぁ、と洞木は僅かに心が重くなった。

 雨は苦手だ。空気は湿っているし傘は嵩張る。電車の席に座るときなんか特に邪魔だ。濡れた傘を持って椅子に座ろうとすると必然的にズボンが触れる形になり、じわじわとした冷たい水分の感触が太腿に走って、次第に乗っている内に今度は体温で温まって何とも言い難いもわもわ感を発するようになる。本当に嫌なシーズンだと思う。梅雨前線など消えた方が世界の為だ、とまでは思わずとも軽く嫌悪感を抱くくらいには負の対象だ。


 キャンパスに辿り着くと、その足で一限が行われる大講堂へ足を運ぶ。

 その講義は唯一、洞木と保月、それから最近知り合った安栖羽実と肩を並べる週一回の授業だった。

 ……いや。肩を並べるというのは正しくないのかも、と洞木は訂正する。何故ならその中の一名、保月だけは毎回机に寝そべっては睡眠の姿勢に入っているから肩を落としているのだ。

 だからこそ羽実の存在は有難かった。今まで実質一人で受講していたが羽実と知り合ってからは分からないことがあっても一人で悩むことが無くなったのだ。因みに今までに保月に聞いたこともあったが「え、えーと……板書見ますか?」とスマホで撮影した黒板を見せてきて以来一度も相談を持ち掛けていない。既に洞木の中で保月は勉強が出来ないカテゴリの人間として判別が終了していた。……第二外国語だけはちゃんとやっているのは意外だったが。


 大講堂には大まかに左、中、右に分けられた三つの列がある。洞木は開かれていた扉から入ると、思い惑うことなく定位置である左列のちょうど真ん中に位置する席に向かった。

 歩いている最中に保月と安栖が先に来ていたことに気付く。珍しい事ではない。安栖はともかく保月は真面目とは対極に存在する性格の人間なのだが、時間に限っては割と順守するタイプなのをこの二か月の間に洞木は知っていた。新歓の時も嫌々っぽさが垣間見えつつも25分前に来ていた。その真面目さはもっと普段に活かされるべきじゃないかと思う。

 洞木がやって来たのを保月は認識すると「おー」と気怠げに声を上げる。今日は安栖もいるからかやけに似合いすぎる女装姿ではないようだ。


「おはよう……何だか眠そうだね」

「……まあなぁ……ちょっと夜更かししたら午前四時になっててそれから寝てない」


 よく見れば目の下に薄く隈が出来ている。本当のことなのだろう。それにしても、午前九時の一限に出るために徹夜を敢行したと考えると変に真面目だなと感じる。基準が分からない。授業は寝てていいのに時間を厳守したり、寝不足を押してまで一限に出たり、何が彼の使命感を駆り立てるのだろうかと洞木は内心首を捻る。因みにもしそれを本人に問えば「え? いや時間に遅れたら相手に迷惑掛かるだろ。一限に来たのも今日二限に語学あって、一限を睡眠時間に当ててサボったらそのまあ勢いで二限をサボりそうで怖いからさ。必修を落とすのはマズいでしょ。寝るだけなら講義中に幾らでもできるしな」と半分真面目半分不真面目な言葉が返ってくるだろう。


「午前四時……何してたんだい?」

「いやー、この前勧められたWEB小説が案外面白くてな……ねむっ」

「そうなんだ。じゃあ羽実さん今日もよろしく頼むよ」

「え、聞いておいて無視?」


 洞木は保月の隣に座ると、その一つ隣に座る安栖に向けて軽く会釈をした。その際に保月のことは居ないものとして視界から省いた。決して「絶対日南さんの推薦だろ……いつの間にそんな仲良くなったんだい君たちは」とか思って嫉妬心が湧いた訳ではない。万年ボッチを自称していたくせに僕以外のしかも女の子に手を広げているなんて、とか思ったわけではない。これはそう、自己管理の出来ない愚かな友人への愛の鞭なのだ。

 淀みなく自己弁護を完了すると、洞木は荷物を置いて教科書やノートを広げる。この講義に教科書は不要であり、教室にいる人間一人一人に丁寧な持ち物検査をしても間違いなく誰も持ってきていないのだが真面目な洞木は授業中に分からないがあればすぐに調べられるよう毎回辞書代わりに持参している。それはこの講義のみならず全ての講義で共通する洞木の授業スタイルだった。


 そうして用意を整える間にも保月が反対側の安栖の方向を見て言った。


「じゃあ俺寝るから、終わったら宜しく」

「アンタね……はぁ……まあ良いわよ。殴って起こしてやるわ」

「もっと丁寧に起こして……まあ頼んだ……」


 言ったきり保月は何一つ机に物を準備することなくクッション代わりに組んだ両腕の上に頭を乗せると、そのまま目を瞑る。寝息こそ立てないが間違いない、夢の世界にトリップしてしまったみたいだ。


「こいつ……キャンパスライフに憧れる高校生には見せられない人間よね本当に」

「あははは……まあそれを言ったら二千翔以上に他にも見せられない人たちはいるからさ」


 洞木は苦笑気味に言葉を返す。

 事実、大学生となるとそれまで制限が多かった為に枷が外れて自由になり過ぎる輩も多い。高校ならば授業中にスマホを弄っていると、ぬっと教師が目の前に出現し速攻没収の刑を食らう訳だが大学は違う。授業中にソシャゲのイベントを周回してようとパソコンでアダルトゲームをしてようと誰も注意しない。あくまでが学生の自主性を尊重する構えを取っているのだ。それが生徒と学生の違いである。教授が注意するのなんて精々が授業中も五月蠅く喋るおしゃべり屋か寝息を立てて他の学生の受講を妨害する人間くらいなもので、それ以外には一切ノータッチとする教授が大多数。洞木たちが受けるこの講義も例に漏れず、授業中にもスマホが手放せない人間が多数存在している。まあそれはかなり可愛い方で、エグイのになると過去に洞木は授業前に酒を飲んでそのまま講義に臨んでいた見知らぬ上級生の姿を見ている。どれだけ理性を焼け切ればそのような暴挙に出るのか、洞木には想像すら出来ない。


 安栖は渋い表情を浮かべて首を縦に振った。


「そうだけど、それとこれとは別よ。他人ならともかくそれが私の幼馴染っていうのが嫌だわ。普通に身内の恥じゃない」

「身内……かぁ」

「……ん? 洞木さんどうかした?」

「何でも。ただ幼馴染なんだなぁって感じただけ」


 洞木は取り繕って言った。嘘は言っていない。自然に身内と言える安栖の保月に対する強い親近感は、二人の関係性を嫌でも洞木に感じさせた。

 しかし、全てを言っている訳でもない。

 不思議なことに、洞木はこうも思っていた。その肩を寄り添えるほどの関係値が羨ましい、と。


 さっきもそうだ。保月は寝る直前、授業後に起こしてくれる相手としてノータイムで洞木ではなく安栖を選んだ。それも信頼と、気安さの証左なのだろう。聞けば保月と安栖は小学六年から大学に入るまであまり会話を持たなかったらしく、つまりその関係は長い間で熟成されたものではないようだがそれでも洞木にはその二人が眩しく見える。

 ……いや、違う。

 自分に嘘を吐かずに言えば、眩しいのは安栖羽実。ただ一人だ。


(……気のせい、だと良いんだけど)


 洞木は一瞬、脳裏を過った可能性に首を振る。

 こんなこと、今まで一度も経験は無かった。誰かを羨望して、誰かに嫉妬を感じることなんて洞木の18年に渡る人生、一回たりとも思い当たる節が無い。


 だがそれを特別な感情と認めてしまえば、きっと後悔する。根拠は一切無いのに、洞木の予感は全身を絶え間なく引き締めた。そう、一度も得たことの無い感情であるということが等号で特別であるということと結びつかないはずだ。これはただ無知なだけで、見知らぬものだから持て余しているだけだ。

 そう自分に言い聞かせても、何故か自分の心は思い通りにならない。この肉体は自分の身体で、この心は自分の魂で、この感情は自分の脳味噌が根源であるはずなのに、まるでハッキングされてしまったかのように脳の命令を無視して勝手に独立して作動する。それがまた一段と洞木の戸惑いを煽る。


 思えば、保月二千翔という人間は変だった。

 理由も無く、まるでスリルを楽しんでいるかのように大学で女装していて、試しに何で女装するのかと聞けば「女装した俺は可愛いから」という呆れたことを宣う紛れもない変人の類だった。本当に好きでやっているのだ。

 洞木にはちゃんと目的がある。告白してくる男の気持ちを知りたいという、疑問解決行動としての目的が。だから理由もなくそんなリスキーな行為を取り続ける保月のことを最初は呆れた目で見ていた。それは確かだ。


 洞木が女であるという事実を知った後は、一瞬は扱いに困っていたようだがすぐに元に戻った。元に戻る、即ち保月は男友達のような気兼ねの無い言葉を洞木に投げかけることに決めたのだ。

 異性に対するコミュニケーションとしては些か乱暴なものもあったかもしれない。流石に気を遣ったのか性的な表現やニュアンスは避けていたようだったが、その気安い言葉には男同士の温かみのような何かが洞木の中に去来した。

 洞木もそれに対して楽しんで言葉を返した。新鮮だった。今までの友人関係からすれば仕方が無いのかもしれない。洞木の通っていた高校は有り体に言って富裕層が通うような学校で、そこで仲良くなった相手はイングリッシュガーデンで紅茶を飲むのが趣味という華やか人物だった。冗談を全く言わなかった訳じゃないが、保月が言うような乱暴なジョークはあまり好まない人物である。


 そうして時間が経って気付くと、今度は不思議なほど目を惹く存在になっていた。何故だろうと考えてみる。


 保月二千翔という人間は口が裂けても立派な人間とは言えない。暇な時間は全て部屋に閉じこもって過ごしており、コミュニケーションも自分からガンガンと行くタイプの人種ではない。女装趣味さえなければ普通の陰気な大学生だろう。

 なら他に何がと言えば、容姿は悪くは無いが眉目秀麗という評価は出来ない。身長は大抵の女子より低く、顔立ちも整っているが大学生にしては幼く見える。普段引き籠っているためか肌は白いが、それは男の容姿を鑑みるに当たって加点か減点かと考えると微妙なところだ。結論を言ってしまえば保月は男性的な見た目とは少し離れた出で立ちであると言える。


 じゃあ他に理由を、自分がそうなった発端には必ず理由があるはず──────そう考えて、雷に打たれたかのように洞木は思考を止めた。


 理由を知って、何になるというのだろう。


 この場合、解決したい事項は何故保月二千翔という人間に自分が執着心を抱いてしまっているかということだ。それを元にこの感情に対する対処療法(・・・・)を考えようとしている。

 

 そう、それだった。

 何で自分は対処しなくてはならないと信じてしまっていたのだろう?


 感情に貴賤は存在しない。ただあるがまま、恣意的に、本能に基づいて脳から発せられるもので、それを有意識の元にありのまま迎合するのは不可能である。感情は無意識から生み出されたもので、管理するには自己否定を必要とする。

 ただこの感情というのが自己否定しなくてはならないほど醜悪で非道徳的であるかと問えば、洞木自身違うと断じることが出来る。


 認めたくないだけなのかもしれない。自身の感情を。

 根拠のない予感もそれがトリガーになって産み落とされただけの、虚構のものでしかないのだ。きっと。


 再び疑問は回帰する。

 この理由を知って、何になるというのだろう。


 ……そりゃ自分自身のことなのだから気になるのは当然だ。だけど知ってどうこうするには相手が少々大き過ぎる。

 そもそも理由がどうあれ、現実は変わらない。洞木が保月に安心感と共に好意のようなものを感じているのは何回否定しても無い事にはならない。理由を知れば漠然たる自分自身と現実への見方は変わるかもしれないが、それは後の話で。理解したその瞬間にのみ限って言えば難解な数式を解いた時の爽快感にも似た深い納得を齎すのみで終わるだろう。


 今まで理屈だと思っていた。容姿の善し悪し、性格の善し悪し、共通の趣味の有無。さながらフローチャートのように必要な条件分岐を繰り返して、その果ての理想像に得られる感情が恋心だと思っていた。

 だが違うのだ。

 月並みな言葉かもしれない。それでも。人を好きになるという感情は理屈ではなく本能だ。


 そう考えると堪らず愛しくなって、授業前の喧噪感に紛れて洞木は優しく保月の後頭部を触ってみる。ウィッグではなく地毛のそれは指に触れるとふわりと優しく揺れる。授業前の短い時間で完全に寝入ったようで、保月は洞木のその行為を意に介さずすやすやと睡眠を続ける。


「二千翔がどうかしたの?」

「いや、髪の毛に埃が付いていたからさ。気になって」

「ふーん……」


 突拍子もない行動に安栖が思わずといった感じで口を開き、洞木はそれを誤魔化した。それでも安栖の目には奇特に映ったらしく眉を顰めた。数秒ほど変なものを見るような視線をすると、口籠りながら言う。


「あーその……ええと……やっぱ何でもないわ」


 逡巡したように曖昧に言葉を選ぼうとして、上手く言語化出来なかった安栖は言葉にするのを諦めた。

 目の前の洞木に一つ物申したいことがあった。だがストレートに言うのはダメだと思った。


(───だって今の洞木さん。凄いホモに見えるのよね……いや勘違いだろうけど! いや勘違いよね? 同性同士なら寝ている友達の頭を撫でるくらい……ないわ)


 心中で安栖は自分自身に頷く。これはもしかしたらもしかするわね、と。

 ちゃんと洞木にこのことを聞けばこの誤解は否定されていただろう。男装しているからノーマルだ、と言いたい気持ちを抑えて保月の名誉の為にもちゃんと弁明に走っただろう。

 安栖は二人の姿を視界から外すと軽く頭を抱えた。

 

次話は15日17時です。

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