茨への輪舞曲
「やあ、来たな。彼女ならバルコニーにいるぞ」
「ありがとう」
寄付を企画する若手の集まりにやってきたロルフは、ちらちら見てくる野次馬の好奇心を感じながら、近頃すっかり恒例となっているセレスティアとの語らいの為に足を進めていた。
夕闇の下で見つけた淡いグレーのクラシカルなドレスを着こなすセレスティアは、声をかける前に振り向くなり、全身の毛を逆立てたような睨みを利かせてくれる。
ロルフにしてみれば、だからこそからかい甲斐があるというものだった。
冗談みたいな思いつきで始めたロルフの『憂いなき家出の為の失恋への布石』は、面白いくらい噂として盛り上がり、セレスティアには当然の如く逃げられまくっていた。
それでも、世の中にはお節介なロマンス好きが多いらしく、頼んでもいないのに誰か彼か協力を申し出てくれるので、ロルフは毎度労せずセレスティアに近づけるのだった。
「もう、いい加減にして。こんなに噂が広まったら、私の自由になる時間が短くなるかもしれないじゃない」
「その点に関しては心配無用だろ。ファーマード教授は約束事に厳格で有名な人だから、自ら発した言葉を反故するわけがない。それに、君がなびいている状態でもないのに焦って囲いに走るなんて、男としても教授としても格好つかないからな」
「……。だとしても、あなただって、教授の授業には出席しづらくて困るんじゃないの」
「その点は認める。だから、教授の授業は諦めた」
「へえ、ずいぶんな余裕ね。教授の講座は人気だって聞いてるわよ」
「できるなら、俺だってご教示願いたかったよ。それでも――」
言いながら、ロルフはセレスティアの器用で繊細な指先を優雅に掬い取る。
「君との時間を引き換えにするほどの魅力は感じなかったな」
視線を上げたロルフは、甘やかな微笑みでセレスティアを見つめたまま、手の甲に綿毛みたいな軽いキスを捧げてみせた。
もちろん、苛立つセレスティアをとっくり楽しむ手段として。
「最低ね」
「自覚しているよ」
ぱっちり整えてきた目元を大いにしかませるセレスティアに、ロルフはいとも愉しげに肯定してくれた。
スメラギ・ロルフという男は実に執念深く、セレスティアには悪魔の化身なのではないかと本気で思えるのだった。
それからというもの、セレスティアは女学校中の冷やかしや好奇心に晒されながらも必死に逃げ続けているのに、ことごとくロルフに見つけ出されてはおちょくられる日々を過ごしている。
「はあ」
セレスティアの元には、もう何十通もの情熱的な恋文が届けられていた。
婚約者からだって、これほどマメなアピールをされた覚えはない。
けれど、これらのどこにもロルフの心は込められていないのだから始末が悪かった。
「本当に酷い人ね。間違いなく史上最高の報復だわ」
嫌がらせの恋文の隣には、式場とドレスの候補案が雑に散らばっている。
まだ卒業まで二年近くもあるのだけど、噂を知った両家が素知らぬ顔で本格的な式の準備を始めたのだ。
「いつまでも、お遊びに付き合っていられないのよ」
セレスティアは憎らしげに手紙を弾いてため息をついた。
それから間もなく、セレスティアは学生ばかりの星空を愛でる集まりに出席することを決めた。
ロルフに完全なる別れを告げる為に。
* * *
見とれるほど満天の星の下、せめて別れる時くらいは雰囲気よくと考えて選んだ集まりだった。
「こんばんは、スメラギ・ロルフさん」
「へえ、珍しい。君から話しかけてくるなんて、槍でも降らせるつもりなのか?」
相変わらずなロルフのふてぶてしさも、これで見納めかと思えば愛着を感じないでもなかった。
しかし、挨拶もそこそこの内に、拘って編み込み、丁寧に結い上げた頭に気楽に何かを乗せられたものだから、やっぱり苛っとさせられてしまう。
「まったく、なんなのよ」
手に触れたものを掴んでみれば、正体は洒落た小物が入ってそうな、綺麗な箱だった。
見るからに贈り物らしいリボンをかけてある辺りが、今回はどんな嫌がらせなのかと疑いたくなる。
「開けてみれば」
うさんくさい笑顔で促され、セレスティアは未知との遭遇気分で警戒しながら慎重に開けた。
不思議なことに、中にはどんな罠も仕掛けられておらず、星が散りばめられた可愛らしいブレスレットがあるだけだった。
「何、これ」
「出会って一年の記念に」
初めてみる甘い微笑みを向けられて、セレスティアは頭が真っ黒になった。
「一体、なんのつもりよ」
「記念だと言っただろう。これまでの一年に対するお礼と、これからの一年の付き合いに対する賄賂だ。二年分と思えばそう高くはないし、センスだって悪くないはずだ」
軽く突き返されないよう、遠慮や引け目を感じさせまいと計算しつくされた発言であり、選んだ自分に絶対の自信が満ちていた。
その自信によって、これからもセレスティアの貴重な残り時間を占領されるのかと思うと恐ろしくて堪らなかった。
「こんなものいらない」
セレスティアは頭の片隅で謝りながら、箱ごと賄賂を投げ返した。
「もう、あなたとは金輪際会うつもりがないから、今後一切、私には近づかないで。それだけ回る頭があるのなら、他にいくらでも円満に家を出られる方法を見つけられるはずでしょう」
「どうしたんだ、いきなり。両家から何か言われてきたのか?」
「馬鹿にしないで。私は、私の意思で拒絶してるの。あなた、気持ち悪いのよ」
言いすぎたのはわかっているが、これくらい言わないと収まりがつかないくらいセレスティアの内心は荒れていた。
実際、セレスティアは、ぐらぐらと気分が悪かった。
悪いのはロルフではなく、セレスティア側の問題だという説明を省いただけにすぎない。
その夜、セレスティアは家に帰るなり熱を出し、しばらく学校を休むこととなった。
* * *
「ロルフ兄さん!」
放課後、いつものように商会で一働きして帰宅する頃、一緒に精を出していたレナルトがやけに力一杯呼びかけてきた。
何事かと待ち受けてみたら、お茶にしないかと誘ってくる。
だったら休憩室へと進みかければ、話があるからハーニッシュがいいと拘った。
男兄弟で喫茶店はどうかと思うのだが、誘ってきたレナルトが妙に必死な様子なので、たまには可愛い弟に付き合ってやるかという心境で承知した。
「ロルフさん、初めまして。わたくし、ディジオ・サマンサと申します」
店に入ってみれば、レナルトがつい先日から交際を始めた彼女が待っていた。
ロルフはなるほど、わざわざ兄に紹介する為に、あんなに力んでいたのかと納得をした。
「こんにちは、サマンサ。レナルトは優しくて優秀な奴だけど、案外抜けているところもあるから、しっかり見ていてやってくれ」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
これは噂以上にしっかりしたお嬢さんだと頼もしく感じたロルフは、家を出るのに安心材料が増えたことを内心で喜んだ。
「では、早速、本題に入らせていただきますね」
「ん?」
どうやらサマンサは、初対面にして挨拶だけが目的ではなかったらしい。
どういうことかとレナルトに目を向ければ、怒っているというか、拗ねているというか、とにかく何か不満がありそうな表情をしていた。
「わたくし、セレスティアとは友人関係にあるのです」
サマンサの告白に、これまた、なるほどと思う。
しかし、同時になぜ? とも考える。
ロルフ自身は賢くてセンスもいいセレスティアと会話するのを、家を出る言い訳に利用する以上に楽しんでいた。
毎度迷惑そうにしながらも、いちいち相手にしてくれるのがおかしくて、世話焼きで人がいい性格が透けて見えるようで、つい構いたくなるのだ。
ただ、先日だけは勝手が違った。
そこそこ選りすぐった贈り物をぶん投げ返されてしまったのだ。
品よく着飾るのが上手なセレスティアらしくない振るまいだった。
最初の印象はともかく、お嬢様学校に通っている相手をからかいすぎただろうかと反省したロルフは、今日まで言われた通りに会いに行くのは止めている。
「それで、彼女はなんて?」
「……ロルフさん。それ、本気で言っていますの?」
サマンサに聞き返されたロルフは、本気できょとんとしてしまった。
相手の探読みと先読みが得意なロルフにとって、これほど展開が見えないのは珍しい。
「セレスが、あなたについて語ることなんて、あるはずないでしょう」
眉目秀麗なサマンサが真面目に怒ると、妙に迫力があった。
「あなたは、一体、どんなおつもりで彼女に近づいたのですか」
自分以外の為に熱い情を見せるサマンサに、ロルフはセレスティアの明るい学校生活と、レナルトの頼もしい前途が想像できる気がした。
「彼女は俺が近づいた理由を知ってるよ」
「では、質問を変えます。あなたは、どんなおつもりでセレスティアの恋心を弄んだのかしら」
これには、さすがのロルフも答えを持ち合わせていなかった。
「どうせ、本気ではなかったのでしょう。セレスもそう言っていたわ。だったら、もっとそれらしく接していればよかったのに、どうして魅力的に振る舞って見せたの。これじゃあ、彼女があんまりだわ」
「……だったら、俺にどうしろと?」
「嫌いになるように仕向けてください。こんな男、縁を切って正解だ。婚約者と結婚するのは正しい道なのだと思わせてあげて。でなければ、わたくし、あなたを一生許すことができないわ」
「なるほど。君が言いたいことは、よくわかった」
ロルフは、だからどうするとまでは明言しなかった。
けれど、サマンサはこれ以上食い下がらずに店を出ていった。
後には、ぽつんとスメラギ兄弟だけが残された。
「レナルト、送っていかなくていいのか」
「今日はいいんだ。僕も兄さんに言いたいことがあるから」
「なんだ、お前も彼女と知り合いだったのか?」
「直接は知らない。サマンサに少し聞いているだけ。セレスティアさん、ここしばらく学校を休んでいたみたいだよ」
噂話が好きでお節介な学友達から、そのくらいの情報はロルフに聞く気がなくても耳に入っていた。
だからといって、どうすることもしなかっただけで。
「それがどうした?」
「今はもう出てきているらしいけど、これから卒業までは社交場には出ないって言ってるんだって。サマンサがすごく心配していて、がっかりもしてる」
「ああ、そういう仲か。サマンサ嬢なら、さぞかし彼女と趣味が合うのだろうな」
あれだけサマンサに言われたにも関わらず、あまりにもいつも通りなロルフに、レナルトは自慢の兄相手でもため息をつきたい気分に襲われた。
「兄さん。実は僕、サマンサとは反対のことを言いに来たんだ」
「へえ、嫌われても知らないぞ」
「それでも、言わなきゃいけないと思って来たんだよ。それに、サマンサも本音では同じことを願っているはずだから」
レナルトの主張を、ロルフは腕を組んで耳を傾ける。
「ロルフ兄さんが身内でもない女の子に個人的な贈り物をしたのって、初めてだよね」
「……そうだな」
購入した時には意識してなかった事実を言い当てられて、ロルフは弟相手に少々面食らってしまった。
「サマンサは嫌われてくれって頼んでたけど、僕は結ばれてほしいって心から願ってる」
人のよさが売りのレナルトが発したとは到底信じられない爆弾が投下された。
「知らないのか? 彼女は婚約者がいるんだぞ」
「だから、何? 気持ちがあるなら、どんな手段を使ってでも奪い取るべきじゃないの? ロルフ兄さんなら本気を出せば不可能じゃないでしょう」
「……」
あまりにも滅茶苦茶な理屈を、あの生真面目なレナルトが言ってのけるものだから、聞き間違いではないかと耳を疑ってしまいたくなる。
「あのな、レナルト。どこぞの玩具をねだるのとはわけが違うんだぞ。大体、俺は彼女をそういう目で見たことは一度もない。ただ、俺に都合がいい条件を有していたから、利用させてもらったにすぎないんだぞ」
「わかってないのは、兄さんの方だよ!」
むっとして、駄々っ子みたいな言い種のレナルトなのだが、同時に、どこか芯のある大人の意思も垣間見えるから不思議だった。
「このまま何もしなかったら、絶対に後悔するからね」
頑固に言い張るレナルトに、ロルフは逆に何を根拠にしているのかと尋ねてやった。
あくまで聞き分けのない弟に理詰めで言い聞かせようするロルフに、レナルトは見るからにむかっとしていた。
「兄さんの鈍ちん!!」
立ち上がってまで浴びせられた弟からの謗りに、ロルフは目を丸くするしかなかった。
「もういいよ、後で泣いたって知らないからね」
物心ついてから感情の揺らぎによって泣いた覚えのないロルフは、レナルトの捨て台詞にぴんとこないで、黙って見送るほか思いつかないでいる。
ぷんすかと、後ろ姿だけでも怒っているのが見てとれるレナルトは、このまま帰るのだろうと扉に手をかけたところでくるりと振り返り、肩を怒らせたままつかつかと戻ってきた。
大股で、見る間にロルフの前に辿り着いたかと思えば、ずずずいっと顔を寄せて更に迫ってくる。
「母さんのイヤリング!」
「……ちゃんと持ってるぞ」
レナルトの妙な迫力に気圧されながら、ロルフは引き出しにしまい込んで二度と取り出すつもりのない存在を思い出す。
「当たり前だよ。それ、セレスティアさんにあげられるか、よおく考えてみたら」
こんな言葉を押しつけると、レナルトは今度こそ店から姿を消した。
「ふう、やれやれだな」
額を押さえるロルフの気分は、まるで台風一過だ。
まさか、色恋に関して弟に意見される日が来るとは思ってもみなかったので、風が吹き荒れ去った今は笑えるほど珍妙な出来事に感じる。
「どう言われようと、あれほど嫌われたらな」
性格が悪いだの、目付きが不気味で恐いだのと言われたことは数あれど、気持ち悪いと評された経験はさすがになかった。
ロルフは少なからず驚いたし、密かに落ち込みもしていた。
だからこそ、今日まで弁明も関係修復もしないままできたのだ。
あれきり、彼女とは最初から出会わなかったことにしてしまうのが互いの為であり、内心で誰かを綺麗さっぱり消し去ってしまうくらい、器用なロルフにとってはさほど難しい芸当でもなかった。
なのに、レナルトに言われた言葉が無性に残っているようで、奥底にしまっておいたイヤリングとセレスティアの存在がころりと転がり出てきたような心地がするのだった。
* * *
少し古びた趣きのある緑豊かな館。
その眺めのいい一室で、セレスティアは毎日を退屈で持て余していた。
社交的な場所に出かけないと宣言したからには、一切の関連情報を耳にしたくなかったし、自分のドレスだけは見立ててもらいたいと頼んでくる級友達から逃げきる為には自宅に直帰して引きこもるのが一番だからだ。
「私って、思っていたより、ちょろい女だったのね」
他の女の子達みたいにミーハーに騒いだりしないし、詐欺師なんて呼ばれているせいで男の子を見る目も厳しいつもりでいた。
なのに、ちょっと嬉しい言葉をくれただけで、利用すると言い切って憚らない性格の悪い男に惹かれるだなんて情けないにもほどがある。
「でも、もう大丈夫。会わなければ、忘れられるわ」
幸い、結婚までは時間がまだある。
一年かけて好きになったのなら、一年かけて忘れてしまえばいいだけの話だ。
目を閉じて、何を考えるでもなく微睡んでいると、階下で来客を知らせる鐘が鳴った。
誰だろうと目を開ければ、窓辺にとんでもない闖入者が立っていた。
「……は?」
窓の外にいるのは紛れもなく迷惑千万なスメラギ・ロルフ、その人だった。
「ちょっと、何やって――」
セレスティアは勢いで怒鳴りかけて、慌てて手で口を押さえた。
こんなところを家の人に見られたらとんでもない騒ぎになってしまう。
勝手気ままな振るまいに腸が煮えくり返る思いだが、閉め出したままでいれば何をしでかされるかわかったものではない。
セレスティアには招き入れるしか選択肢がなかった。
「何しに来たの」
なるべくきつく見えるよう厳しく睨みつけたセレスティアの精一杯の主張はお構いなしで、まじまじと見つめてくる無言のロルフに簡単に相殺されてしまう。
セレスティアは体が震える恐ろしさを味わいながらも、泣き出してしまわないよう両手を強く握りしめた。
「一体、どんな用件があって、こんなところまで押しかけて来たのよ」
再び問いつめると、今度は返事があった。
「確認をしに」
全く意味がわからなかった。
「別れの言葉は告げたはずよ。今後、私の前に現れないで。迷惑なのよ」
声低く、奥底から怒っていることを全身で訴えてみせる。
けれども、ロルフは少しも意に介さないで何かを無造作に放り投げてきた。
「何?」
「ブレスレットが気に入らなかったみたいだから、代わりを持ってきた」
思わず受け取ってしまった手のひらを見れば、華奢な白い貝殻のイヤリングが剥き出しの状態で乗っかっていた。
「こんな物いらないわよ」
「今度は投げ返すなよ。それ、離縁した母親が残してくれた唯一の品なんだ」
「え? そんな物、尚更もらえないわ」
「残念。それ、呪いがかけてあるから返品不可だ」
慌てふためき困惑しているセレスティアをとっくりと眺める仕掛けた側のロルフは、冗談めかす余裕があるほど愉しげだ。
「何よ、それ。もう、いい加減にして。あなたのことなんか全部すっかり忘れたいのよ!!」
「だからだよ」
「……え?」
ロルフのささやかな呟きは、セレスティアには幻聴のように響いた。
「ロマンスを成就させるのに必要不可欠な茨の道を俺は行く。ヒロインはただ信じていればいい」
その言葉をとても真っ直ぐには受け止められなくて、ロルフの真意がどこにあるのか探り当てようと見つめ返してみるのだけど、セレスティアが確信を得る前にあっさり出ていってしまったのでわからず仕舞いとなった。
自分の鼓動だけが聞こえる静まり返った部屋には、意味のないたくさんの恋文と同じ香りが残されていて、セレスティアは腰がくだけて、その場にしゃがみ込んだ。
「ずるい人」
セレスティアの手には呪いのイヤリングが、耳にはロマンスの成就という呪縛の言葉が茨みたいに絡みついて離れなくなっていた。