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「船が着いたぞ」


「おー。そっち、気をつけろ」


逞しい男達の低く大きな声が飛び交うここは、交易で栄えるシンドリー国国営港。

大きく開けた入り江には、毎日のように荷物を乗せた業者の船が出入りしている。


そんなの港に到着した一艘の商船に、まだあどけなさを残した少年が完全に停泊するのも待てず、不安定な足場を駆け上がっていった。


「ロルフ兄さん、いるんでしょう!」


荷下ろし前の慌ただしい船に乗り込んだ少年は、甲板に乗り込むなり必死に兄の名前を呼びかける。


「レナルトか、俺はここだ」


手を上げて応えたロルフは、家が営んでいる商会の船をしょっちゅう隠れ家代わりにしているものだから、春だというのに日に焼けて浅黒くなった端正な顔で現れた。


「そんなに兄さんが恋しかったのか」


異国帰りのロルフが機嫌よくふざけると、レナルトはそれに構わず用件を告げた。


「父さんが当主に呼び出された」


たちまち、ロルフは何十年も刻みつけてきたような深い溝を眉間に湛えて不快感を露わにする。


「いつもの事だろう」


弟に当たっても仕方ないとわかっていながら、関係ないと聞き流す素振りができないロルフだ。

余計なことを口走る前に奥に消えようとすれば、レナルトに腕をがっしと掴まれて引き止められる。


誰に対しても負けん気が強く、やられたらやり返すの精神で立ち向かう勝ち気なロルフの弟であるレナルトは、兄弟でバランスを取るかのように物腰柔らかで、揉め事と知れば進んで仲裁を買って出る親切溢れた性格だ。

それが、今はただならぬ形相で見つめてくる。


「何があった?」


「母さんが出ていった」


ロルフはそうかと納得するのと同時に、考えていたより落胆した気持ちがわいてくるのに気づいて嫌になった。

だが、不安になっているレナルトを前にしては、自分の未熟さを嘆くより頼り甲斐のある兄に徹することを優先した。


「わかった、心配するな。一緒に帰ろう」


見るからにほっと胸を撫で下ろすレナルトに、ふと、ロルフの意識は第三者のものに切り変わる。


学校では優秀だと誉めそやされ、自分でも世間の常識と照らし合わせて賢い方だと自認する俯瞰的感覚さえ持ち合わせているロルフだが、こうまであからさまに慕われ、無防備に頼りにされていると不思議で堪らなかった。


いくら比較しやすい学力で高評価を受けようと、人間道徳の観念から眺めてみれば、決して秀でているとは言えない癖のある性格なのは充分承知している。

酷い皮肉屋で、目には目を、歯には歯をの精神でしか動かないロルフは、相手によって言動や態度を変えてしまう底意地の悪さを内包していた。


その点、弟は真面目で勤勉。

そのくせ柔軟さを併せ持つ懐の広さがあり、誰もが友人になりたくなる穏やかな人徳者だ。

それが、兄弟という繋がりだけで忠実な信頼を寄せてくるのだから、性悪の兄としては謎で仕方なかった。

もちろん、ロルフも可愛い弟だと思って接しているが、同じように信頼してるかと問われれば、否と答えてしまうだろう。


刷り込みされたひよこみたいに後をついてくるレナルトを尻目に、詮のない信頼についての考察を追いやると、現実的な問題に目を向けた。


父親がスメラギ家の現当主である祖父に呼び出されたことは、今更どうこう騒がずとも捨て置いていられる問題だ。

毎回理由に程度の差はあれど、大きく括れば簡単にまとめられる原因でしかないのだから。

肝心なのは、レナルトが勢い込んで知らせてきた通り、母親が出て行った件だ。


ロルフの中では母親を説得して思い留まらせる想定はすでになく、あるのは女主人がいなくなった家の采配をどうするかであり、母方の実家と財産分与で揉めない条件の落としどころの模索についてだ。

他で占めるのは、家族思いの優しいレナルトをどう納得させ慰めるか考えるくらいで、ロルフにとってはこちらの方がよほど頭を悩ませてくれる問題だった。

なぜなら、ロルフはとっくに家族を諦めていたからだ。


レナルトに気づかれぬようこっそりと脇でため息を洩らすと、ロルフは居心地の悪い我が家を目指して船を降りた。



 * * *



跡取りの嫁に逃げられたスメラギ家は、前々から嫌気が差している気配の若奥様を日々の暮らしで察してながらも、まさか本当に出て行くとは思っていなかった家人達が大いに狼狽えていた。

なので、混乱の真っ只中に戻ってきた未成年のロルフに対し、寄って集って過剰な期待を込めた眼差しを送ってしまうのも無理はなかった。


しかし、ロルフ自身は自分に貴族の暮らしが向いているとは思わず、いずれは家を出て、後継は弟に任せればよいと考えていた。

とはいえ、こんな状況で出て行けば重責逃れの弟不孝でしかなく、今すぐ実行しようとも思っていなかった。


ロルフは家人達に当分の箝口令と当面の指示を出すと、兄弟で連れ立って祖父の部屋に向かった。

目的の部屋に着くと、いつもは廊下まで響いている説教が聞こえてこない辺りで事態の深刻さが測れる。


束の間考えたロルフは、緊迫しているだろう空気を壊す為にノックもしないで入ろうと試みるが、珍しく鍵がかけられていた。


「誰だ」


やけに鋭い祖父の声音に、姿が見えなくてもピリピリした気配を感じ、ロルフは前言をまるっとひっくり返したくてならなかった。

できれば、全部見なかったことにして、今すぐ家を出て行きたい。


実行しなかったのは、やはり迷子の子犬みたいに見上げてくるレナルトの存在を意識したからだ。


「ロルフとレナルトです」


名前を告げたが沈黙しか返ってこなかったので、ロルフは踏み込んだ発言をしてみる。


「今後について、話をする必要があるかと思って参りました」


おそらく祖父は、ロルフと同じく母親をこの家に連れ戻そうとは考えていないはずだった。

そして、厳格だが情が厚い人でもあるので 、その決定をロルフやレナルトがいない場所で決めることもしないのだろうと見当がついていた。

すると、間もなく、ロルフの予想通りに閉ざされていた扉が開かれた。


厳しいながらも、どこか憐れみが見え隠れする祖父の肩越しに、泣き出しそうな優男と視線が合った。

心底、本当に嫌になる父親だと思った。


祖父は兄弟にソファーへ座るよう勧めると、再び部屋に鍵をかけた。

それを不安げに見つめるレナルトに気づいたロルフは、あえて声に出して確認してみせる。


「父が、母に会いに行こうとしているからですか」


「ああ、そうだ」


祖父が疲れたように答えると、ため息混じりに自分の席に腰を下ろした。


「どうしていけないのですか。父さんが迎えに行ったら、母さんだって考え直すかもしれないのに」


驚いたレナルトは、子どもなら思って当然の願いを口にした。

しかし、ロルフも祖父も、その段階は当に過ぎていると感じているのだった。


「レナルト。俺は、このまま一緒に暮らしていても母には辛いだけだと思っている」


本当は慰めの言葉をかけてやるべきなのだろう。

だが、現実から目を逸らし続けているわけにはいかないものだ。

この父親の子どもでいる限り、のんびりと夢を見させてくれる暇は与えてもらえないらしい。


「なあ、覚えているか。幼い頃、母がよく花壇の手入れをしていたことを」


唐突な思い出話に戸惑いながらも、レナルトは小さく頷き返した。


「穏やかに季節が巡る庭を愛でるのが好きで、毎日家の中が滞りなく回ることをとても大切にしていた母だった。そうだろう?」


レナルトは嫌な展開を無意識に予感しているのか、曇る表情でまた小さく頷いた。


「そんな母が何より嫌い、最も恐れていたのは急激な変化だ。だから、位が低いながらも代々貴族として安定したスメラギ家に嫁いで来た。ただ一つ、大きな失敗だったのは、夫となる男の性質を事前に考慮しなかった迂闊さだろう」


ロルフは力なく座っている父親にちらりと目を向けると、容赦ない言葉を口にする。


「こんな博打打ちの男だとわかっていれば、母は決して結婚なんてしなかったはずだ」


「兄さん、博打打ちだなんて!!」


孝行息子のレナルトは反論するが、ロルフの心には何も響かなかった。


「いくら人がいいからって、これで何度騙された? 今度こそはと期待をしながら気前よく大金を貸し、一体、これまでにいくら損失を出したか知っているか?」


「でも、父さんは優しいだけなんだ。誰かの力になりたくてしているだけなんだよ」


「だから、どうした。今じゃ、スメラギ家は、世間様から長葱どころか白菜・人参・玉葱まで背負った鴨に見られているじゃないか」


真剣なロルフの一蹴に、一同は内心で上手い例えだと感心してしまった。

が、次の言葉で和みかけた流れから、冷々とした氷の世界に引き戻される。


「他人には親切にするくせに、身近な人に限って省みない。こんな男の、どこが優しいと言える?」


本人を前にして本気の本音を吐き出したロルフだったが、隣で悲しそうな弟に見つめられれば、憂さなど、ちっとも晴れなかった。


「とにかく、母の幸せを想うなら、復縁なんて望んでやるな」


レナルトは俯いただけで了承しなかったものの、今度は反論することもなかった。


「私はこれで失礼します。今回の件による影響の対策として、これから商会の方に顔を出してきますので」


ロルフは祖父に素っ気なく告げると、追いすがってくる父親の視線を振り切って部屋を出て行った。


重苦しい家を後にし、ひんやりした風に見上げた空は、今の気分にも似た重たげな灰色をしている。


前に向き直ったロルフの歩調は徐々に早くなった。

知らずに奥歯をきつく噛みしめ、こぶしは強く硬さを増し、元々愛想のよくない顔立ちが無意識の内に険しくなっていく。


祖父や弟の前で、何より、あの、いつもその場限りの感情で生きているような父親の前で、激昂する自分の感情を見せることすら嫌で必死に抑えていたものが、一人になった今になって一気に溢れ出てきていた。


父親の後始末を、なぜ、まだ学生の自分がしてやらなければいけない?


強く疑問に思いながらも、疲れが取れにくくなっている祖父に任せて知らん振りしているのでは居た堪れず、それでも放置しておけば家や商会が関係者を巻き込んで傾いていくのが目に見えているだけに、出来るロルフは何もしないでいられないのだった。


ロルフは時々考える。

自分は、どうしてレナルトよりも先に生まれてきてしまったのだろう、と。


レナルトが兄なら、さぞかし弟を可愛がってくれただろうし、弟となるロルフだって気持ちよく補佐役に回っていられるはずだ。

そうすれば役に立つ度に誉めてもらえるし、いざ困った場面では堂々とレナルトを頼ることもできたのに。


「はあ……」


自分は疲れている。


つまらない妄想をして、ロルフは初めて相当に嫌気が差しているのだと意識した。

その瞬間、何もかも投げ出してしまえと、静かに、確かに、囁く何かが胸の底に住んでいた。


身一つでも、商船関係の仕事ならばどこでだってやっていけるだろう。

いっそ、一所に留まらない船乗りになるのもいいかもしれない。

自分ばかりが損をしなければならない家など、放り出しても構わない気分だった。

ロルフは深く見通さないまま、ふらりと目的の地ではない港に足先を向けた。


そんな時だった。

運命の歯車が、それとは知られずに動き出したのは。


ずきっと、ロルフの背中に衝撃が走った。

特段、おかしな姿勢をして筋を痛めたわけではない。

鋭利とまではいかない、先の尖った何かでつつかれたせいだ。


じわりと痛む背中で振り返れば、驚き、目を見開いた同年代の少女が立っている。

素朴な格好に素朴な顔つき、真っ赤な傘ばかりが鮮やかな印象で、大した階級の家の出ではないだろうと咄嗟に判断してしまうほど飾り気がなかった。


「あ、わっ、ごめんなさい。そんなところに人がいるだなんて思わなくって」


慌てて傘を後ろ手に回した少女は、申し訳なさそうに頭を下げて謝った。

だが、虫の居所が悪いロルフには、前半の謝罪よりも、後半のそんなところにという言い回しが強く引っかかる。


目の前に突っ立っている人が悪い。

そんな風にしか、今のささくれ立ったロルフには解釈する気がなかった。


「なぜ、雨も降っていないのに、傘を差しているんだ」


腕を組んで見下ろすロルフは、あからさまに上から目線で値踏みする態度だ。


「ええと、これはね、もうすぐ雨が降りそうだなと思って。でも、いつ降ってくるかなんてわからないじゃない? 実はこの服、今日、下ろしたばかりだから濡らしたくなくって。だから、早めに開いてみたの」


「では、何ゆえ、先端が俺の背中に刺さったんだ」


「それは、ほら、降り出しの一滴が見えないかと思って。それに、やっぱりまだ降ってもいないから、開いて差していたら変に思われるかもしれないでしょう。だから、差したり下ろしたりを繰り返していたものだから……」


ほとほと呆れた言い訳でしかなく、天然という単語が脳内に浮かぶ。

どことなくあの苛立たしい父親を想起させるので、この手のタイプはロルフと最も相性が悪いと言えた。


「他人の目を気にする心があるなら、まずは迷惑をかけないよう気をつけろ。あんたみたいに小心者ぶった輩に限って、申し訳なさそうな顔で、ちゃっかり周囲に迷惑をかけるんだから質が悪い」


八つ当たり気味に文句をぶつけて、少しだけ気の晴れたロルフは、少女の謝罪を受け入れることなく背を向けた。

だが、ぽややんとした印象が重なる少女は、ロルフの父親とは少々異なる性格をしていた。


「ご親切に助言をしてくれて、ありがとう。私、あなたをなんとお呼びすればよろしいかしら」


あれだけ言われても皮肉を感じないほどおめでたい頭しかないのかと呆れ返ったロルフは、まったく相手をしないで歩き出した。


「じゃあ、名無しの権兵衛さん。私からも一言忠告してあげるわね。たいした怪我でもないのに謝罪を受け入れる懐も持ち合わせていない人って、いくら格好よくても残念でみっともないわよ」


「な!?」


予想外の反撃に振り向けば、憎らしいくらいしてやったりな笑顔を浮かべていた。


「あ。あと、もうすぐ雨が降ってくるから、風邪を引かないようにね」


少女はこんな言葉を別れの挨拶にして、素朴な外見とかけ離れた強烈な反撃を繰り出して反対方向へと歩いて行った。

あまりの出来事に、ロルフはくるくるご機嫌に回されている赤い傘を呆然と見送ってしまった。


「なんだ、あいつは」


人を見分ける目に自信のあったロルフにとって、これほど印象と実体に開きのある人物は初めてだった。

もう、すでに姿の見えなくなった傘を追っていると、ぽつりと頬に当たる冷たいものに気づいて我に返る。


次に歩き出した時には、港ではなく、商会本部のある通りに足先が向いていた。

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