白いタクシー
私は夢であった出版社に勤めている。
多くの物語を描く人と触れ合いたいという気持ちからこの業界を目指した。
今日は憧れの作家を含めた方々と上司と一緒に飲みに行くことが出来た。
ぶっちゃけトークも多く出版社の社員としては冷や汗の出るような話題もあったが、魅力的な物語を生み出す先生方の話は楽しくてたまらなかった。
本当にこの仕事に就けて良かったと思える。
そんなワクワクとした気持ちを残したまま私は終電で帰宅していた。
会社の最寄りの駅から一時間半ほどかかるところに住んでいるが、一人で暮らすには調度いいマンションがそこにはあった。就職してすぐはもっと会社に近いところに住んでいたが、慣れてきた頃に家賃の安くても良い物件を探して引っ越した。
住んでいるところは駅にも近いので今のところあまり不自由していない。
今日みたいな日は帰り着くのが遅くなるが、明日は休みなので問題ない。
今夜は気持ちよく寝れそうだ。
どこか浮ついた気持ちでいつもの駅に降り立つ。
深夜なので私以外に利用者はおらず、自分の足音が聞こえるくらいに構内は静かだ。
その反響する足音を楽しむように私は歩いていく。
その静寂を破るように改札を出た途端に携帯電話の着信音が鳴る。
なっているのは仕事用の携帯ではなく、個人用の携帯だ。
いきなりの大きな音にびっくりしながらジャケットの内ポケットから取り出す。
着信音の鳴り続けている携帯のディスプレイを見ると『母』とあった。母から零時を回った深夜に電話があったことなど今まで一度もない。
不思議に思いながら電話に出る食い気味に早口で母がまくしたてる。
『やっと出た! あんた、何度電話したのと思っているのよ! さっさと出なさいよ!』
「さっきまで仕事……」
母は昔から私の要件よりも自分の要件を重視するような性格なので苦手だ。
顔を顰めて携帯をやや耳から離して聞いていたが、次の言葉に凍り付く。
『父さんが死んだの! だから早く帰ってきなさいよ!』
そう言って電話は切れた。
……父が死んだ。
衝撃的な連絡に携帯を持つ手が震える。
父とは就職前に大喧嘩して以来あっていない。
八年ほど帰省も私から電話もしたことがない。
そんな父は昔の頑固おやじそのもので私とは良く意見が対立していた。
決定的だったのが就職について。
実家は小さな宿屋で、父は私に継いで欲しかったらしい。
私は一人っ子なので父の期待は大きかった。
しかし、私は嫌だった。
昔から本が好きでその制作に関わる仕事がしたかった。もしかすると、たまに泊まりに来ていた作家の姿を見ていたこともあるのかもしれない。
そのため、私が大学を卒業する前に就職のことで大喧嘩した。
私はそうなることが分かっていたので、在学中にアルバイトをして逃げるためのお金を貯めておいた。案の定、内定を貰った後にも反対してきたので決別した。
喧嘩別れをしたとはいえ、父は嫌いではなかった。
お客さんのために頑張る父を私は尊敬していた。
いずれ大きな仕事を成功させたら、改めて納得してもらうために会おうとは思っていた。
それなのに、いつも元気で病気など知らないような父の急死。
ショックが強くてその場から動けない。
帰らなければ。
父に謝らなければ。
もう会えないのか。
父の顔が見たい。
会ってもなんて言ったらいいのか。
そんな焦るような気持ちが心の中で荒れ狂っている。
足を引きずるように構内から出ると、一台の白いタクシーが目に入った。
私は弾けるようにタクシーに駆け寄って、助手席の窓を叩く。
「乗せてっ!」
「え? え? 落ち着いてください。今開けます!」
タクシーのドアが開くと転がり込むように中に入り、行き先を運転手に告げる。
実家はここから100キロほど。飲み会があったため終電を逃してもいいようにかなり多めにお金を用意していたおかげで足りそうだ。足りなくても母から一時的に借りるつもりだ。
場所を伝えられた運転手は嫌そうな声を出す。それは仕方がない。深夜にそんなに遠くまで誰も運転はしたくない。
「父が急死したんです……父に会いに行きたいんです」
私は涙を零しながら頼む。
迷惑な客であると思うが、今は我慢して欲しい。
「そうですか。ではおまかせください。超特急で行きますね」
私の思いが通じたのか運転手は明るい声で了承してくれた。
急発進するように勢いよくタクシーは走り出す。
私のことを思いやって急いでくれているようだ。
エンジンの音を響かせながら深夜の町から離れていく。
タクシーの中で下を向いて頭を抱えている。
後悔の苦しさに身体が震える。
電車を降りたときにあった高揚感は無い。
酔いも冷めて身体の奥からすべてが冷え切っている。
もっと早く帰れば良かった。
こんな別れを迎えるとは思っていなかった。
瞼の裏に浮かぶのは父との思い出。
怒られたり喧嘩したりした思い出は多いけれど、力強い父の姿が思い浮かぶ。
小さくとも旅行のシーズンには満室になる宿を心地よく使ってもらえるように、汗を流しながら働いていた。従業員も少ないのでビールケースも一人で運んで何往復もしていた。
お客さんには普段家族に見せないような笑顔で接する姿。
幼い頃は良く頭を撫でてくれていた。
喧嘩をした次の日にはいつも机にお菓子が置いてあった。
進学先も父の望みとは違ったのに学費を払ってくれていた。
父は私を見ていたのに、それを振り払ったのは私だ。父の力を借りなくても生きていけることを証明したかった。それだけのことに意地を張ってきた。
その成果を見せる父はもういない……。
「お客さん」
運転手が私に話しかける。
その声に私はゆっくりと顔を上げる。
バックミラーに移る運転手の口元が笑っているように見える。それがなんとなく腹立たしくて無言で目線を下に戻す。
「お客さんはどうしてそんなに急いでお父さんに会いたいのですか?」
私の反応を無視して運転手は聞いてくる。
その問いに私は戸惑う。
「別に明日でも良かったのではないですか?」
言われてみればそうだ。気が動転してタクシーに乗ったが色々と準備してから帰省すればよかった。
顔を上げて窓の外を見れば、実家のある街に抜ける山道に入るところだ。周りには住宅は無く、ぽつりぽつりと街灯があるだけ。その街灯が現れては消えてを繰り返すような速い速度でタクシーは走っている。ここまで来たらそのまま実家まで行った方が近い。
そんなことを言うなら乗ったときに言って欲しかった。
「それだけ会いたかったんですねぇ」
私が無言でいるのをどうとらえたのか運転手は嬉しそうな声でしみじみと呟く。
「謝りたいんです……」
無意識にその言葉が口から零れる。
謝りたい。
変な意地を張ってごめん。
心配かけてごめん。
そんな思いが心の中で溢れている。
「すぐに会えますよ」
運転手は明るく声をかけてくる。
すぐに会える。
死んでいるけどその父の顔を見て謝ろう。
許してくれないかもしれない。
でも、言葉を伝えたい。
励ましてくれた運転手にお礼を言いたくて顔を上げる。
目に映るのは舗装されてもいない山道を爆走する風景だった。
ライトで照らしているとはいえ信じられない速度で木々に囲まれた道を進んでいる。
「ど、どこに向かっているのですか!?」
私は叫ぶように尋ねた。
「お父さんに会いたいんでしょう? すぐに会えますよ」
その嬉しそうな声に私は凍り付く。
父は死んでいる。
父に会うには死ぬしかない……。
死にたくなくて運転を止めようと立ち上がろうとするが、足も尻もシートに引っ付いているように動かない。
ドアも開かない。窓を叩いてもびくともしない。
どうすることもできなくて手で顔を覆って目を瞑る。
一心に父に謝り続ける。
ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ……!
唐突に内ポケットの携帯から着信が鳴り響く。
その瞬間、身体全体を浮遊感が襲う。
落ちていく感覚に身を縮める。
蹲ったとき、背中から強く何かが絞め付けてくる。その絞めつけは痛くて、力強い。
ふっとその絞めつけが消えると同時に頭に何かが触れる。
頭を上げると電車の中だった。
車内アナウンスが住んでいるマンション近くの駅への到着を知らせる。
頭を朦朧とさせながらフラフラと電車から降り、何が起きたの分からずに改札を出る。
さっきまでのことを鮮明に思い出して、慌てながら携帯を取り出す。
そこには「母」からのメール受信を知らせる表示が出ている。
着信履歴には10分前に「父」の文字。
駅の構内を出れば目の前に白いタクシーが停まっていた。