4話 2018年3月9日
【2018年 3月9日】
「珍しいですね。貴女から連絡が来るなんて」
瀬里と出会うなり、背広の女は軽く言った。
彼女は瀬里の元後輩で、仲間内の薬物取引を瀬里に勧めた人物でもある。昔から世渡り上手で、公安らしくない刑事だった。
場所は喫茶店、瀬里が刑事だったころによく仲間と麻薬の手配に訪れていたところ。店は繁盛しているが客層は固まっていて、定位置は決まっている。瀬里達が使っていた席は外からも中からも手元は見えず、しかも、外にいる者、入ってきた客を確認できる。
一言で言えば、都合の良い場所と言えよう。
「あんたは元気そうで何よりだよ。仕事の調子は?」
「上々です。貴女が倒れてから仲間内で依存者の掃除がありましてね。ライバルが軒並み消えて、代わりに入ってきたのはひよっこばかり。おかげで今年、警部補になりました」
「景気が良い話だな」
瀬里は、呆れながら煙草を取り出して火をつけようとした。
すると、警部補の女は驚いた顔をして、
「まだ、やめていなかったんですか?」
と。笑いながら問うた。
同窓会でどうでも良い思い出に陶酔するような、間抜けな顔だった。
「普通のタバコだ、バカ」
「そりゃあ、そうですよね。自分も吸っても?」
彼が取り出したタバコには、見覚えがあった。
自分をどん底に突き落とした一因。薬の入った巻きタバコだ。
勝手にしろ、と瀬里がいう前に周囲は紫煙に埋め尽くされた。これで誰かに読唇されることもない。開放的な密室となったのだ。
すると、女はカバンから二つのファイルを取り出した。
「まず、一つ目があるフェムライの医療記録です。勢力が一気に拡大した2011年以降、彼らは自ら出資する病院で管理され、まともな記録が隠蔽されていましたが、これは2015年に救急搬送された40代のフェムライの身元が分かる前にとられたものです。脳みその項目を見てください」
「脳科学は専門外なんだが……」
「自分もです。ですが、専門家の解析が下に書いてあります。それによると、前頭葉が異様に発達しているらしいんです」
「元からじゃあないのか? 頭が良い奴はだいたい前頭葉の働きが活発と聞いてる」
男はもう一つのフェイルを開いた。
「そこで、二つ目の資料です。これはこのフェムライの個人的な記録です。こいつは10歳のころから非行に走り、強盗や窃盗を繰り返して少年院を二回、刑務所を三回行き来する根っからのワルでしたが、ムショで外のフェムライたちと奉仕活動をするうちに興味を持って入信。それ以降、再犯はしなくなり見事更生を果たしました」
「宗教様々だな」
「そうだと良かったんですがね……」
瀬里は促されるまま資料をめくる。
目に飛び込んできたのは、先ほどの医療記録。それも脳のCTスキャンの画像だった。
「これはいつのだ?」
「2010年、二回目の服役中に喧嘩に巻き込まれて脳震盪を起こした際にとられたものです」
「……」
瀬里は、驚いて声も出せなかった。
2015年と比べて、2010年に記録された前頭葉の領域が小さすぎたのである。
幼い頃から複数回服役していることから、発達障害の疑いもある彼が、40代という年齢で急激な脳の発達をすることはあり得ないからだ。
「フェムには、脳みそを活性化させる秘密がある。そう睨んでいるのか?」
「前頭葉に関わる障害は、『社交性の増加・減少』、『IQを低下させないまま精神的柔軟性や自発性の低下』、『危機管理や規則の順守に関する感覚の障害』、『性的興味の減少』。二つ目についてはどうか分かりませんが、他はすべてフェムライたちに見られる代表的なイメージです。そして、この異様な発達。無関係、と言い切る方が難しい。もっとも、上は薬物が関係している、と確信していますがね」
そう言う彼女の姿を見て、瀬里は昔の自分を思い出した。
自分にあり得たかもしれない姿。
その記憶に蓋をするように、瀬里はファイルを一緒に渡されたサンプルの薬物の小袋と共に自分のカバンに詰め込んだ。
「正直、ここまできちんとした情報が来るとは思っていなかった。その内、内臓を売れと言われそうだ」
冗談を言って、瀬里は席を立とうとする。
が、女が引き留めた。
「そこまでヤクザな商売ではありませんよ。頼みたいのは、簡単な仕事です」
女から笑みが消えた。
瀬里も知っている。これから仕事の話をする、そんな顔だ。
「瀬里さん。貴女、『元刑事のジャーナリスト』として成功しているそうじゃあないですか……」
「これについてあたしに記事を書け、と?」
「えぇ。もちろん、貴女自身のブログに挙げてもらいます。なんなら告発動画を撮影してネットに流してもも結構です。ですが、主要な週刊誌、新聞でも記事をあげてもらいます。各編集社には、こちらから話は通してあります。枠も、偽の記者のプロフィールもつつがなく」
ふと、瀬里が周りに気を配ると、店の中に何人か緊張している者がいる。きっと瀬里の知らない刑事、女の言っていたひよっこたちだろう。
「断る、とは言えないな」
「断る気なんて毛頭ないくせに」
瀬里は彼女の手を振り切って、席を立つ。
すれ違いざまに彼女は、
「身の安全は保証します。貴女も、香子さんも」
そう言って、瀬里の背中を見送った。
*
自宅に帰ってきた瀬里は、力なくソファに横たわった。
ため息をつき、いつもと変わらない部屋をぐるりと見回す。
変わらないはずなのに、いつもよりも広く感じる。自分が動かなければ発せられる音は何もなくて、待っているだけでは食事も出なくて、孤独を忘れさせてくれる存在もいない。
瀬里はいたたまれなくなって、携帯に記録された留守番電話を開き、最後に送られた2月の着信を再生する。
『瀬里。これから少し会えなくなるかも。色々と忙しくって。でも、心配しないで。ちゃんと信頼できる人たちと一緒だから……。隠さないほうが良いね。私、フェムに参加するの。瀬里が仕事でフェムライについて調べてたことも知ってるし、危険かもしれないとも思ってる。でも、これっきり。やりたいことが終わったら、もう二度と関わらないから。だから、待ってて。またね。愛してる』
短い、メッセージ。
これを聞く度、香子の姿が鮮明に思い出される。
自分に似てきた、香子の姿が。
香子の雰囲気が似ている、と瀬里が感じ始めたのは年が明けてから少し経った、1月のことだった。最初は共同生活を終え、支援者と患者の関係を超えた恋人関係となったことでそう感じていると思っていた。
が、今思えば、それは勘違いだった。
瀬里が『独立』した時期から考えて、香子がフェムにハマっていったのはちょうどその頃、つまり1月である。
それから、香子は急に瀬里と同衾しなくなり、口では「愛してる」と言っても目には疑問の色がにじんでいた。
だが、瀬里はそれを問いただそうとは思わなかった。
元々、香子はレズビアンではない。同性愛とは無縁に生きてきた彼女が、何の疑問もなく同性である瀬里と恋人になれるとは、彼女自身思っていなかった。関係を重ねるうちに、そういった問題には直面する、と覚悟していた瀬里は落ち着いて香子の変化を静観していたのだ。
今となっては、その行動を後悔している。
ボランティアに精を出す香子は、自然とフェムライたちと過ごすことが少なくなく、今まで彼女なりの区切りをつけている、と高をくくっていたが、実際はその逆だ。
未知の壁にぶつかってしまった香子が、その答えを追い求めるばかり、自分を愛してくれる瀬里に心配を駆けまいともがくばかり、一番身近で一番危険なフェムライたちを頼ってしまったのだ。
そして、『香子が似てきた』と感じたわけは、きっと薬物を定期的に摂取していたからだろう。今日の会談で、それがはっきりと分かった。
「くそッ!」
自分の愚かさに嫌気がさして、瀬里は持っていた携帯を天井にぶん投げて粉砕した。
そして、粗暴に受け取った資料とパソコン、そして動画をとるための機器を揃えて考える。何もしていなければ、怒りと後悔と不安でどうにかなりそうだったからだ。
*
そうして、ようやく全ての工程を終わらせた瀬里は、公安の元後輩に連絡を入れたのは、それから二日が経った、3月11日のことであった。
フェムライたちが称賛され。
この国が変わり。
運命と出会った。
奇しくもそれと同じ日に、瀬里は香子を救い出すために行動を起こすのである。
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