2話 2017年5月
【2017年 5月】
「お疲れ様、ミーティングの成果は?」
「ぼちぼち。みんな同じような不幸話で気が滅入ってくるよ」
「薬物依存になった話よ、ハッピーなわけないでしょ」
瀬里と香子との共同生活が始まって、早二ヶ月。二人の距離は着実に縮まっていた。
初めて出会った3月のあの日、瀬里は自分がレズビアンだと告白した。24時間離れずに行動を共にする生活で隠し事をすることは不可能だと判断した彼女の決断は、香子との関係に良い方向に作用したと言って良いだろう。
定期的に行われる依存患者たちのグループセラピーに参加し、その日に得たことを報告する。治療というには単純すぎることだが、実際に瀬里は少しずつ社会復帰に歩を進めていた。
「香子」
セラピー会場の市民会館を後にしてしばらく、気晴らしに寄った公園で瀬里は彼女を呼び止めた。
「何?」
「……」
瀬里は、黙っている。
長い足をジーンズで強調し、白色のシャツと革製の上着で凛々しさを纏わせた彼女は、心なしか弱っているように見えた。
香子は言葉を引き出そうとはしない。
ただ、瀬里が自分自身と向き合って言葉を紡ぎ出すのを待っていた。
元気な子供たちの声と幸せをかみしめる親たちの会話が錯綜している中、ようやく瀬里の口が動いた。
「次のセラピー……、あたしが話す順番なんだ。あたしが、薬に手を出した訳を話す、順番。なんて言うか、その……、不安なんだ。何が、ってことじゃあないんだけど、ただ、不安なんだ」
「話さない、ってこともできる」
「それじゃあダメなんだッ!」
瀬里の声が、公園に反響する。
子供たちの声はやんで、親たちの会話は好奇な視線となった。
そんな周りとはお構いなしに、瀬里は続ける。
「逃げちゃダメとか、そんな意地の話じゃあないんだ。諦めようとしたときに、この二ヶ月あたしと暮らしてくれた君に申し訳ないと思えてくるんだ。ビアンのあたしを、今までこんな風に接してくれた人なんていなかったから……。感謝というか、あたしがちゃんと前に進んでるってところを示してあげたいんだ」
瀬里は、泣いていなかった。
曇りのない彼女の瞳が真っすぐ香子の姿を反射して、まだ言葉になっていない気持ちを必死に言葉にして伝えてきたのだ。
「じゃあ、今夜はおしゃべりしましょ。寝落ち厳禁、隠し事もなしの、ね」
だから、香子は詳しく聞かなかった。
瀬里も、ただ「ありがとう」と言うだけだった。
*
夜、二人は食卓を挟んで向かい合った。
安いアパートには似合わないイタリア料理たち(作ったのではなく宅配で手配した物)を並べ、飲み慣れていないワインを半分開けたところで、香子は今夜の議題について話し出した。
「瀬里。今日、私がなんで晩御飯を豪華にしたか分かる?」
「さぁ。あたしがこれから辛い昔話をするから、かな?」
瀬里は戸惑いながら答えた。
元々食事に関心のない彼女は、依存症になる前から食が細く、今夜用意されていたの半分も食べていない上、酒は一口しか飲んでいなかった。
その代わりに、香子がすべて平らげている。瀬里は最近香子が太ってきたとぼやいていた原因を見つけたが、本人のためにそっとその事実を飲み込んだ。
彼女がそんなことを思っているとは知らずに、香子は続ける。
「ま、特に理由なんてないけど」
「はぁ!?」
「だって、ドラマとか映画で腹を割った話をする時ってだいたいご飯食べながらするじゃない。自白を勧める時だってかつ丼出すでしょ」
「それ、フィクションだよ。実際はそんなことしてない。あたしの時だって―――」
瞬間、瀬里の記憶が蘇った。
焦りと。
苦痛と。
解放感。
そして、屈辱。
だが、不思議と今すぐ吐く出したくなるような不快感や話したくなくなる気分ではなかった。
恐る恐る香子のの顔を見ると、彼女はただ優しい瞳で瀬里を見つめている。自分で言葉を紡ぎ出すのをただ待っていた。
瀬里は大きく息を吸い込んで、
「じゃあ、まず、最初から話すよ」
ゆっくりと過去を紡ぎ出した。
*
「キャリアの刑事っていうのは、新人でもそれなりの地位が保障されているんだ。
いわゆるエリートってこと。何年か仕事をこなして、それなりの成績を出していけばトントン拍子で出世していく。将来性はバッチリだし、給料ももちろん良いんだけど、とてつもない激務でさ。何日も眠らないで捜査するのは当たり前で、ろくに家に帰って休んだ記憶がないよ。
それでも、所轄の奴らに面子を保つために弱音は吐けない。仕事のパフォーマンスも落とすわけにはいかない。キャリア刑事が扱うのは重要な事件だからな。そんなことできる人間は限られてた。もちろん、あたしはその類じゃあなかった。
どうやって食らいついてたと思う?
覚せい剤だよ。
押収したやつでも、売人から買ってきたやつでもない。そっち方面にパイプとゆするネタのある同僚から貰ってた。度重なる激務に、凶悪事件のストレス、上下からの圧力に、突き付けられる圧倒的な才能の差。くたばりそうな奴は一目でわかる。
そうやって口伝えで広まっていって、あたしも仲間になった。
薬の形は様々。注射、錠剤……、喫煙者にはタバコに混ぜたやつなんかもあった。元々身のこなしは上手い人間の集まりだったから、バレることはなかった。
まぁ、罪悪感はなかったわけじゃあなかったよ。仮にも刑事だからな。だけど、気分が軽くなった。1週間の徹夜も苦痛に感じなかったし、閃きも推理も冴えた。自信がみなぎってきて、自分が無敵の敏腕刑事になった気分だったよ。
それで、依存症になった。
全員じゃあない。仲間内であたしだけが、依存症になったんだ。みんな、頭の隅っこに残ったミジンコばりの良心でセーブしてたんだろうさ。薬でそれすらもぶっ飛んじまったあたしは、破竹の勢いで事件を解決していって、公安にまで上り詰めて、重大な任務を言い渡された。
フェムライたちの調査だ。
もう何年も前になるが、3.11以降、フェムライはオウム以来最大規模の新興宗教になった。当然、テロの可能性を疑う。あのフェムという礼拝法が怪しかったが、確証がなくて調べられなかった。それをあたしが、調べることになった。
結果から言うと、失敗だった。
前任の捜査官同様に、怪しいのは確実だ。捜査も確実に引き継いだ当初より進んだ。だが、あと一歩、近づけなかった。真実は手を伸ばしたすぐ先にあるのに、届かなかった。確実に黒であるはずなのに、黒と言い切る、確固たる証拠を、掴み切れなかった。
そこで、打開策として思い出したのが薬だった。
もう決められた量を摂取してしてたけど、より多く体に取り込めば、掴める気がした。その自信も、十分にあった。
それで、持っている薬を全部摂取した。
注射も。
錠剤も。
タバコも。
一年間使っても使いきれない量を、いっぺんに。
当然、過剰摂取でぶっ倒れるわな。
運よく様子を見に来た同僚に助けられて公安の治療施設に搬送。二日間生死の境をさまよい続けて、目が覚めた次の日には治療施設に隔離されてた。
上は最初、あたしがフェムライに薬物攻撃をされたと疑ってたが、すぐにあたしが自分で墓穴を掘ったと気がついて、即刻クビにされた。
表向きは心労による退職だったから退職金はたんまりと出たけど、施設でのリハビリはなかなかエグかったかな。
言ったろ。娯楽がなかった、って。麻薬依存になった刑事が、ネットにつながった環境で何をしでかすか分からないんだからな。仕方がない…………」
言い終わって、瀬里は唾をのんだ。
もう何年にも及ぶ依存症生活の後、リハビリの身となった彼女が初めて言葉にした屈辱の記憶。思い出すのも辛くて、情けなくて、罰する誰かもいない。ただ、彼女は自分のしでかした愚行を恥じていたのだ。
そんな彼女を見て、香子は、
「瀬里、こっち座って」
二人が初めて出会ったソファに、瀬里を座らせた。
そして、力なく座る彼女をゆっくりとだが確実に抱きしめた。
わずかに心音が届く乳房に瀬里はその顔を埋めて、香子の温もりをかみしめる。
「よく頑張ったね。瀬里は凄い人だよ」
「お世辞は良いよ」
「お世辞じゃないって。ほんとにそう思ってるの」
「なんで?」
「なんで、って。瀬里は今までこのこと誰にも言えなかったんでしょ?」
「まぁね。上司に言われた最後の命令みたいなところもあるし、こんなこと世間にバレたら大変なことになっちまうだろ」
「だから凄いんだよ。依存者が再犯する理由って、だいたいは孤独が原因だと私思ってるの。だから、ずっと一人で抱え込んでてもまた薬に手を出さなかった瀬里は偉いの。凄いの」
香子は、そう言って瀬里の頭を撫で始めた。
「やめろよ、子供じゃあないんだから……」
口ではそう言っても、嫌がるそぶりは見せない瀬里。
「子供でしょ。私の方が2歳も年上なんだからね」
「そういう問題じゃあ―――」
瀬里が頭に乗った手を払い、顔をあげた時だった。
二人の鼻が擦り合う程近かった。
瞳は互いの瞳を見て、酒に灼けた顔を映し出し、世界が時を止めて二人だけのために回っているような高揚感を感じた。
「……」「……」
そして、沈黙。
密着していた肌から高鳴る鼓動を抱きながら、静かに唇を重ねる。
キスは、かすかにワインの味がした。
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