ノミと毒薬と家主の少年
投稿する際、ジャンルに迷いました。
あるところに家がありました。
一般的な家庭、と想像すると、だいたいそうなるような、ちょっと安めで他の家とだいたい同様に見える、普通の2階建ての家に、普通の高校生が居る部屋がありました。
その部屋の片側には高校に上がってから買い換えた洒落た勉強机があって、備え付けのクローゼットと硝子扉のある本棚、壁にはお気に入りのアーティスのポスターがでかでかと一枚、張ってありました。
もう片側はベッドと、服を下げる事ができる、枝のように突起物が付いたポールが立っています。
今は、学校で使う鞄が重そうに掛かっていました。
本来の用途で使われなくなって久しいのか、少しだけ歪んでいます。
部屋の中央にはガラス張りの、足の低いテーブルがありました。
そこにはよくある耐久性の高いガラスを使用したコップがあり、それには、氷が入り、冷えた烏龍茶が半分ほど入っています。
そのテーブル上の、何もない――何もないように見える空間を、一人の学生が制服姿のまま、じっと見ていました。
目つきは異様なほど鋭いです。
「聞こえなかったのでしょうか。ではもう一度。――今日は」
部屋に、成人男性にしてはひょうきんで甲高く、子供っぽい印象を与えるような――けれどもどこか、ビジネスライクに慣れた声が響きましたが、コンサートホールでもないのですぐに消えます。
部屋の中にはその声の主は見当たりません。この部屋には、ベッドに座っている少年しか一見すると見当たりません。
学生服の少年は、声が出た空間を凝視して口を開きます。
「……今日は」
同じく声が高めですが、若い印象を与える声質です。
今はやや低めで返答を返しました。
時間からするとこんばんわになるのですが、そんな些細な事は今はどうでもいいようです。
すると即座に、また何もないように見える空間から返答が来ました。
どうやら声は、ガラステーブルの上から響いてきます。
「今日は。ご挨拶大変ありがとうございます。まずは改めて自己紹介をさせてください。――私はノミと申します」
ノミ。
ほんの微かにテーブル上に見えます。
少年は眩暈がするとばかりに眉間を揉み、目頭をぐにぐにと掴み、両耳が正常であることを確認するように首を振りました。
そして立ち上がると、ドアを開けてふらふらと廊下に出て、そしてドアを閉じました。
ノミは、特にすることもなくぼうっとしているようです。
いえ、時折、なるほど、と呟いているところを見ると、現環境を把握しようとしているように見えました。
ほんの少しだけ待った後、すぐに扉が開きます。
ノミが見ている前で、わしゃわしゃとタオルで頭を拭きながら戻ってきました。
ノミがもう一度、他に聞こえないぐらいの大きさで、なるほど、と呟きました。
少年の精神状態を理解したようです。
「どうでしょうか、ここが夢ではないとご確認出来ましたでしょうか?」
「あぁ……」
ノミの声は、それなりに淡々としていましたが、少年の声は輪をかけて淡々とした声でした。
まるでありえない現象を見るかのような虚ろな瞳をしています。
部屋を出る時よりもなお、ふらふらとした足取りでベッドへと座り、スプリングの歪む音がぎしりと鳴ります。
「突然、お邪魔して申し訳ありませんが、私をここで飼って頂けないでしょか」
少年はノミを凝視し続けています。
沈黙が続き、氷が溶けてカランと音を立てました。
その音を切欠にするように、少年が口を開きます。
「意味が解らない。何か、理由があるのか?」
「はい。ノミの世界は大変窮屈でして、年々長期滞在には不利な環境が続いております。そのことに危機感を覚えた私は、人間との共存が必要だと考え、こうして接触を図りました」
その話の区切り部分で、少年はまたしても目頭を揉むような仕草を行い、その体勢のまま、続きを促します。
「続けて」
「はい。私は先鋒的存在です。仲間達が様々な生物や動物へと交渉続けており、私は人を選びました。私というテストケースがうまくいけば、新たなノミの進化が、しいてはノミ革命が起きると信じてこの身を捧げております。つきましては、その、えー家主様、あー……」
ノミ革命……と呟き、少年は更に虚ろな瞳になりました。
そして、ノミが口澱んだところで、なんだろう? という表情を少年は見せましたが、やがて何かに思い至ります。
「斎藤だ」
「ありがとうございます。斎藤様には、私を飼って頂き、ノミの利便性を知って頂きたいと思います。そうすれば、同様のノミを増やし、よい豊かな生活をご提供し、人間との共存ができることで、お互いがWinWinの、長期的生存がより可能になることでしょう!」
使命感を帯びた声で言い切ると、そこでノミの語りは終えました。
拳をぐっと握りしめた、デフォルメされたノミの映像が脳内に流れました。
思わず少年は、そんなことあるか! と叫びたくなりましたが、ぐっと我慢しました。
ノミの数がどれくらいいるのかは少年は知りませんでしたが、そこら中からこんな声が聞こえてくるなら、精神が病む自信があります。
少年は、夢ではないのなら、自分が幻覚症状を見続けているに違いないと考えています。
ゆっくりと立ち上がり、若干物置にもなっているクローゼットに向かいます。
それをノミがじっと見ていました。
「殺虫スプレー……」
思わず、必要な物を探すために口から出たような呟きが零れました。
「殺生な! 酷いです鈴木様!」
「斎藤だ」
「斎藤様! まだ話して数分しか経ってないのに、そんなバルサンを焚くだなんて!」
「バルサンを焚くまでは行わない」
「それにしても酷いです。ほら、これから利便性のお話もします。きっと斎藤様にとってとても都合の良い話が聞けますよ? ほかのノミではできないことも私はできます」
「そりゃ、喋るノミだなんて聞いたことすらない」
「それはほかのノミの根性が無いだけです。ノミは本来優秀な頭脳を持っているのです」
断定口調に言われました。
少年は、知性は脳みそに宿ると考えていましたが、若干、体に格納されない次元に知性をつかさどる領域があるのではないかと考え、生物に関してかつてないほどの強い興味を抱きました。
夢も希望も特に持っていない少年の、図らずして人生の方針が決まった瞬間でした。
「では、お伝えします。私はですね――」
勿体ぶって一瞬、声を止めて、一秒。
そして自信を持って言い出しました。
「毒を持っているのです!」
「殺虫スプレーどこだ」
「あぁ!もうちょっと! もうちょっとだけ話を聞いて! だから、座ってください!」
一瞬、少年は止まりました。
ノミは、ここで少年を落とすしかない! と懸命に声を上げます。
自分のアピールポイントならば、絶対に自分に食いついてくれるに違いないと確信と自己暗示を己が心に問いかけて、自信をもって言います。
「そう、私は心を操る毒薬を出すことがあー! 待って待って、クローゼット開かないでください! あー! その赤い缶は、ああああ!」
ぶしゅうー、という音が続いた後、小型の掃除機をかける音がして、そのあと、テーブルの上のコップ持って少年は部屋から出ていきました。
部屋はとても静かになりました。
数分経って戻ってくると、少年はまた、先ほどとは別のタオルで、胸元まで濡れるぐらいに濡らした髪を拭いてました。
じっと時計を眺めて、寝ぼけてたのかだろうかと呟くと、ベッドに倒れこんで、すぐに寝てしまいました。
時刻は、夜中の3時でした。
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「なぁ斎藤」
「なんでしょうか、先生」
「お前、なんか目的でも見つけたのか」
進路の用紙を持った担任の問いかけに、ちょっと目を瞑る斎藤。
あるときから、勉強にも何処か力を入れる様になったように見える。
そして、提出された進路希望の用紙には、幾つかの大学名が記載されている。しかし、それが予想外の名前なのだ。
斎藤は、ふふっと短い思い出し笑いをして、口を開いた。
「少し前に、ちょっと変わった体験をしまして。ノ――、いや、生物全般に興味が出ました」
用紙には、生物研究に特化している研究室がある大学の名称が三つほど、記載されていた。
友人と三つのお題小説をやった際に出てきた、「ノミ」と「毒薬」と(確か)「少年」で作ったものです。奇妙な非日常を一瞬だけ感じていただけたら幸いです。