ブラックプールへ
見渡すかぎり一面に広がる銀世界の中、赤の姿はなく、わたしはなぜかひとり突っ立っていた。
辺りを見回すと、ロンじいが雪の上に背中を丸めて胡座をかいて、ぽつんと座っていた。
「‥‥‥じいちゃ?‥‥じいちゃ‥‥赤はどうしたんじゃろ。」
座ったまま、ゆっくり振り返ったロンじいの顔にはなぜか表情がなかった。
「あぁ、あやつは逃げよった。もう大丈夫じゃ。」
赤は逃げたのか‥‥そう思って少し胸を撫で下ろした。そして、そこで、ハルの姿が見えないことに気づいた。
「‥‥あっ!?そうじゃ、じいちゃ‥。ハルは、ハルはどこにおるんじゃ?」
すると、スッとハルがわたしの横に現れ、心配そうな目でわたしの顔を覗きこんで、ペロペロとわたしの頬を舐めはじめた。
「‥‥あ、や、やめ、やめぇ。ハル。‥‥ハル、死んでしもうたかと思ったんじゃよ。‥‥ほんに、ほんに、良かったなぁ。生きてて良かったなぁ‥‥」
わたしはハルの頭をわしゃわしゃと撫でて、首のあたりのもふもふを力いっぱい抱きしめた。‥‥‥ん‥?だけど、さっきはこの辺りから血が出ていたような気がした。赤に叩きつけられて、流れ出た血で雪を真っ赤に染めていた。あの時はかなり焦った。起きてはいけないことが起こってしまったんじゃないかと思って。
そんなわけないのに。そんなことが起こるわけないのに‥‥。
「ほんに、良かったなぁ‥‥。」
「‥‥‥ああ、良かったのぉ。」
声が聞こえたので仰ぎ見ると、いきなり、目の前に無表情のじいちゃが立っていた。
‥‥じいちゃも無事で本当に良かった。もちろん、あのじいちゃがあんな熊に負けるはずはないとは思っていた。でも、もしもってことはある。何事にも絶対ということはない。だから、じいちゃの顔を見れて、心から安心した。
「‥‥ん。良かったぁ。」
呟いて、目を閉じる。
喜びの感情が溢れてきた。
「よかったぁ。」
よかった。よかった。よかった‥ほんによかった‥‥。つむっている目から大粒の涙が溢れ出た。
涙というのはこういう溢れでる喜びから出るものなんだと思った。生まれて初めての涙だった。
でも、こんなにうれしいことはない。また、じいちゃとハルと一緒にあの山麓の暖かい山小屋で暮らしていける。
そういった思いを込めて、わたしはじいちゃに話しかけた。そして、もう一度じいちゃのあのやさしい顔を見ようとゆっくりと目を開いた。
「‥ほんに、良かったなぁ‥‥‥‥‥じぃ‥‥?。」
そう言って、開いた目の前には、見渡すかぎりの銀の世界と透きとおるような蒼い空だけがむなしく広がっていた。
―――――あれから、三年以上のの月日が流れていた。
わたしは今でも時折考える。あの時、どうすれば良かったのか。何が正解なのか。正しい道はあったのだろうか。だけど、今はそれに答えてくれる、じいちゃはいない。
もしもあの時、わたしが矢を射なければ、じいちゃは、ハル、は助かったんだろうか‥‥。もし、じいちゃが言った通りにあそこで逃げていれば‥‥。ハルを連れていかなければ‥‥。もしも、わたしにもっと力があれば‥‥。もし‥‥‥。
たらればを考えてもしょうがないことは知っていたし、もしも、なんてことはこの世界にはないこともわかっていた。
でも、そのことが頭からこの三年間ずっと離れなかった。
あの時、目を覚ますと、じいちゃとハルがこの世界からいなくなっていた。わたしは本当にひとりぼっちになったのだと思った。
胸を締めつけられるような恐怖とこれから来るであろう未来に対する虚しさを強く感じた。
わたしの心のほとんどを占めていたじいちゃとハルがいなくなったことで、わたしは空っぽの器となった。
空っぽになったわたしは、なんとかそれを埋めようと、赤を探して山を彷徨った。
数十日ほども山を彷徨い、やっと赤を見つけた時には、あの怪物も骸となっていた。じいちゃの槍が致命傷になったようで、槍が刺さったままひとまわり小さくなって、ひっそりと死んでいた。
じいちゃが言っていた。「殺した獲物の毛皮を身につけることで、その動物の力が貰えるんじゃ。」と。だから、ハルにもそうしたのだが、わたしは赤の毛皮も剥いで外套と胸当てを拵えた。ちなみに、ハルの毛皮からは美しく銀色に輝く腰巻きを作った。
そして、わたしは、あの時与えられた心の傷を三年以上かけてゆっくりと、本当にゆっくりと癒しながら、十六歳になった。十六歳になれば、冒険者ギルドに入隊できるとじいちゃから聞いていた。
山麓の深い雪が溶け始めた頃、わたしはカカ山の麓のあの夢のような日々を過ごした丸太小屋を引き払い、子どもの頃からの夢だった冒険者になるべくブラックプール港湾都市という新天地を目指したのだった。
「‥うわぁ。‥‥‥これが、じいちゃが話してたブラックプールかぁ!‥‥ほんにでっかくて綺麗な街じゃなぁ!」
港からは扇状にせりあがるような構造のブラックプールの街並が一望できる。特にわたしが上陸したこの日は雲ひとつない晴天で、太陽の光が山まで続くこの街並を美しく輝かせていた。
ロンじいからは聞いてはいたが、メイクーン島の小さな村しか知らないわたしにとって、このブラックプールの街並と人の多さには度肝を抜かれていた。右を見ても、左を見ても、建物がたくさん建っていて、人がたくさん歩いていた。
港に続いている石畳の大通りの両脇には、色とりどりで多種多様な商品を扱うたくさんのカラフルな屋台が犇めき合っていた。
「おっ!?おんちゃ、あれはなんじゃ?‥」
「ん?‥‥ありゃあ、大通りに毎日出ている夕市の屋台だな。」
わたしがおんちゃと呼んでいるのは、サンダンス商会に所属している行商人のロベルト‐ネクタルである。
メイクーン島に行商に来ていたことから、ロンじいが知り合いになり、毛皮や燻製などの取引を任せていた行商人で、商人らしく物腰の柔らかいふくよかな五十絡みの男である。
ロンじいとは二十年来の知り合いで、わたしとも面識があった。
ロンじいはこのロベルトを通じて、わたしの為にサンダンス商会の金庫にかなりの額のお金といくつかの書類を預けているという話だった。
屋台の並ぶ大通りに足を踏み入れると、わたしの格好が珍しいのか、たくさんの人達がわたしのことを見ているのに気がついた。時には、近づいて来てわたしの顔を直接覗き込む人まで現れた。
「‥‥‥‥おんちゃ。なんか見られとる気がするんじゃが、気のせいかの‥‥?。」
「ああ。エヴァさんはびっくりするぐらいのべっぴんさんだからなぁ。まぁ、みんなが見るのもしようがないと思うよ。」
「‥‥べっぴんさん言うんは美人いうことか‥‥?」
「ああ、そうだよ。でも、そんじょそこらの美人じゃなくて、エヴァさんはみんながびっくりするぐらいの美人というか美少女だな。」
「‥‥‥‥ふーん。わしはびっくり美少女なんか‥‥。」
今まで自分の容姿についてまったくの無頓着だったわたしは、この日始めて、周りから見るとわたしの容姿は美しい部類に入っていることを知るのであった。
ありがとうございます。




