ハルとアカ
目が覚めると小さな小屋の中はまだ暗く、隣に寝ていたはずのエヴァの姿が布団の中になかった。
すぐにエヴァがどこに行ったのかはわかった。このところいつものことなので、心当たりがあったのだ。
「‥‥‥毎日、毎日、ほんに精が出るのぉ。」
そう呟いて、小屋の外に出てみるとエヴァが短槍を片手に槍術の訓練に励んでいた。
それは、二年ほど前にアーロン自身が半世紀も昔、冒険者だったころ修行していたサザン流槍術の基本動作をエヴァに教えたのがきっかけだった。
最初はエヴァの護身術にでもなればと思い、軽い気持ちで槍術の基本を教えたのだが、すぐにエヴァはすっかりサザン流槍術にはまってしまったのだ。
そして、しばらくの間、アーロンは毎朝四時に起こされて槍術の訓練に付き合わされるようになるのだった。
ここ最近は起こされて訓練に付き合わされることは少なくなったのだが、エヴァ自身は早朝の暗い内から日が昇るまでの三時間ほどの間、槍術の訓練をすることが毎朝の日課になっていた。
ここ東の山の竹林の中に佇む猟師小屋の裏手には、小さな渓流が流れていた。
「‥‥はうぅっ!!やっぱり、冷ゃっこいなぁ。」
エヴァは早朝からの激しい訓練でかいた汗を流そうと、真っ白い真綿のような雪の間を流れる清流に、裸になって飛び込んだのだった。
「んーっ。でも、気持ちええ‥‥。」
水は刺すように冷たかったが、激しい運動で火照った身体には格別に気持ち良い。
そして、エヴァはかたくなった脚の筋肉を揉みながら、シックスパックに割れている自分の腹筋を見つめて、にやにやしていた。
エヴァは子供のころからそうなのだが、とにかく、強いものや強靭なものに執着と言っていいほどの憧れを持っていた。だから、自分の鍛えられた足腰の筋肉や腹筋を見ているだけで幸せな気持ちになれた。それなのに‥‥。
「‥‥‥なんじゃ、これは‥‥。」
一年ほど前から胸に贅肉がつきだしたのである。そして、その贅肉はこの一年で確実にボリュームを増しつつあった。
ロンじいに相談してみると「‥そういうもんじゃ。そういうもんじゃ。」と言うだけで、まともに取り合ってくれなかった。
だけど、このボリュームは弓を射つとき、とんでもなく邪魔だった。
結局、きつめの胸当てを作ってもらい、その時は解決したのだが、今ではその胸当てでは収まり切らないほど成長していた。
「‥‥‥ほんに、困ったのぉ。」
胸についた贅肉を揉み潰しながら、本当に困ったことになったと思っていた。
エヴァは今、ロンじいのような一流の猟師になりたいと本気で思っていた。しかし、これ以上胸が大きくなってしまうと、弓が扱えなくなる。
これは、猟師を目指すエヴァにとって、本当に死活問題であった。
「うひゃーっ!!さぶい、さぶい、さぶいー!。」
エヴァは裸のまま、小屋の中に飛び込んだ。
「な、なんじゃ!なにしとる、エヴァ!?。」
囲炉裏の前に座って、朝食の支度をしていたロンじいは目を丸くして驚いていた。
「‥裏の川で水浴びしていたんじゃ。」
「ほういうことじゃあないわ。なんで裸なんじゃ。」
そう言うロンじいの手元を見ると、パンの上に燻製ベーコンととろとろのチーズをたっぷり乗せた、わたしの大好物を囲炉裏の火で温めていた。
わたしがそれをじぃっと見ているのに気づいたじいちゃは、いつものあのあたたかく優しい顔になった。
「‥‥早よう、服を着てこい。朝飯にしよ。」
「うん。」
そう返事をしたわたしは、このとき、これがじいちゃのあの暖かくて優しい笑顔を見る最後の機会になるとは、夢にも思っていなかった。
この日、わたしは猟師小屋のある竹林を出てすぐに違和感を感じた。
合流してきたダイアウルフのハルが、なぜか目の前を何かに警戒した様子でわたしを守るような格好で歩きだしたのだ。
「‥‥‥どうしたんじゃ。ハル。なんかおるんか‥?」
ハルは振り向いて、「‥‥クゥーン。」と小さく鳴いた。
「‥‥なにやら、山の様子がおかしいんじゃ。ハルも何か感じてるんじゃろ。‥‥‥聞いてみい、エヴァ。朝やゆうのに、鳥が鳴いとらん。」
そう言って、ロンじいもなにかしらの違和感を感じているらしく、あたりを警戒しながら、いつもよりゆっくりと歩を進めているようであった。
「ん?‥‥‥‥ほんまやなぁ‥‥いつもはチュンチュンうるさいぐらい鳴いとるのに、今日は鳴いとらんなあ。」
そう言うと突然、ハルが足を止めて、うなり声をあげはじめた。
「グルゥルルルゥ‥‥‥‥‥。」
ハルが銀色の毛を逆立て、犬歯を剥き出しにして威嚇しはじめた。
「‥‥‥ど、どうしたんじゃ。ハル。」
すると、ロンじいはザッと足を止め、すぐさま、背嚢をドンッと地面に降ろし、特製のコンポジットボウに矢をつがえ、ギリギリと音を立てて、弓を引き絞った。
「‥‥‥‥‥‥‥赤じゃ。」
そう小さく掠れた声で呟いた。
赤という名はロンじいから何度も聞かされていた。それは、このカカ山の山麓一帯を縄張りにする巨大な赤熊の名前だった。
どうやら、わたし達はその赤という名の巨大な赤熊に待ち伏せされていたようだった。
そして、赤と呼ばれるその巨体が、数十メートル程先の林から、のっそりと姿を現した。‥‥‥大きい、なんて大きさだ。突然現れたその赤熊は小山ような大きさの怪物だった。
猟に出るようになってからはわたしも、それなりに経験を積むようになり、この山々にいる野生動物は大抵この目にしてきた。
赤熊という、この地域に生息する大型の熊にも何度となく出会っていたし、前回の猟行では、体長二メートルを超える赤熊の脳天に矢を突き刺して射殺していた。
だけど、今日ここに現れた赤は、桁が違っていた。
こいつが本当の赤熊だとすれば、わたしが射殺したあの赤熊は犬ッコロであった。
おそらく、こいつの姿を初めて見た者でも、この赤熊がこの山々の中で特異な位置を占めている生物、ヒエラルキーの頂点に君臨する存在だということが一目瞭然だろう。
わたしは本能的な恐怖感を感じると同時に、この赤熊の神々しいまでの美しさと大きさに身震いしながら、見呆けていた。
「エヴァ。ゆっくりと矢をつがえ。」
そのロンじいの言葉にはっと我に返った。すぐに背負っていた背嚢を地面に降ろすと、震える手で弓をとって、赤に向けて矢をつがえた。
「‥‥‥エヴァ。決して矢を射るでないぞ。こうしておれば、あやつは決して襲うては来ん。‥‥あやつの目を見るんじゃ。ほんで、そのまんまゆるりと下がるぞ。ええか‥‥?」
「‥‥‥‥ぅん。」
なんとか返事はしたが、やつの目を見た瞬間、恐ろしさのあまり身震いして、そのまま動けなくなった。あいつが今にも襲いかかって来そうな気がしたのだ。
そしてこのとき、わたしは生まれて初めて恐怖感という感情を知った。‥‥怖い。心底、怖いと思った。このままでは、この怪物にみんな殺されてしまう。そう思うと、足の震えが止まらなかった。
「ガウアァッ!!」
ハルが我慢しきれず、バンッと雪を蹴って飛び出してしまった。低い体勢を保ちながら、赤に向かって一直線。ものすごい速さで突っ込んでいった。
「‥‥駄目じゃぁ。ハルゥーーーっ!!」
ハルが飛び出した瞬間、恐怖感が吹き飛んだ。ハルを助けなければ。殺される。殺される。殺されてしまう。わたしが助けなければ、ハルは殺されてしまうと思った。
わたしは弓を引く手に力を込め、祈りにも似た気持ちで、精霊達の助けを呼んだ。
「‥‥アルブ、カノン、シルフ、ノーム、‥お願い。みんな助けてえぇ。」
ありがとうございました。




