君への願い
8
遥は孤独ではなくなった。休み時間に何気なく遥の席を視界に入れると、誰かしら女子の姿が確認できるようになった。ただし、遥が読書をしているときに近づく者はほとんどいない。あるとすれば、事務的なことを伝えるときぐらいなもので、周囲も彼女のことを理解し始めたのか、遥の好きなこと、嫌いなことを把握したうえでの行動をとるようになっていた。このクラス内には仲良くできそうな人はいない、と断言していたのに、それは案外簡単に崩れた。きっと遥は、これまで周囲に無関心すぎたのだ。無知すぎた。いつも本の中の世界に没頭している彼女に、現実の世界は見えていなかったのかもしれない。それが覆ったいま、彼女は少しずつではあるが、俺の前で見せていたような笑みをクラスメイトに向け始めている。女子は「実は接しやすい子なんだ」と、男子は「美人だからもっとお近づきになりたい」と、クラスの多くの人間が、天月遥という人間に興味を持ち始めていた。
そしてそれとは対照的に、俺の周りはいっそう寂しくなり、遥の孤独を俺が背負ったような形になった。もともと、友人の多くは能力で作ったものだ。一緒にいて「楽しい」と思えるような奴など、数えるほどしかいない。最終的に自力で友人を作った遥と俺の間には、とてつもなく大きな隔たりが存在した。俺の周りに集うのは、あちらから好意で話しかけてきてくれた奴のみだった。ただ、これは自業自得だと思う。こちらから仲良くする気が大してなかったのに、相手が仲良くしてくれるはずがない。遥が幸せになり、俺が孤独になるのは当然と言えた。
「天月さーん! 一緒に帰ろー」
今日も遥は、俺の後ろの席の女子と、その友人の子と一緒に帰る。とはいっても、遥は歩き、彼女らは電車通学なので、駅で別れることになる。それまでの僅かな時間だが、遥たちはその時間を楽しみながら帰っているようだった。
「お疲れ、黒瀬」
教室を出る俺に声をかけてくれたのは、数少ない、俺が能力で作ったわけではない友人だ。いや、友人ではない。ただの知り合いと言った方が、適切かもしれなかった。下駄箱に向かう途中で何人かとすれ違う。俺の「数少ない友人枠」を越えた数だった。その全員に一応、「お疲れ」と声はかけておいた。全員が生返事で同じ言葉を繰り返す。
薄暗い下校道を一人で歩く。校舎から遠くなるにつれ、喧騒が別世界に呑みこまれたように聞こえなくなる。やがて俺の耳に聞こえてくるのは、風に揺れる木々が奏でる葉擦れの音のみになる。いつか遥と話した児童公園を過ぎ、町で生きるそれぞれの人が織り成す音のパレードが俺を待ち受ける。みんなめまぐるしく、今日を、明日を生きるために動いている。なのに、俺は何もしていない。数か月前までの俺なら、偽りの友人を相手に繕った笑顔を浮かべ、流されるがままに彼らが赴く場所へと向かっていた。それは楽しくはあったのだが、心の底から楽しんでいたか、と問われると、すぐにはうなずけない。今思うと、あれは本当に楽しかったのだろうか、と悩んでしまう。
道中にあるコンビニに寄る。何か食べ物を買って家で食おうと思い、店内を物色していると、見知った姿があった。
「あ、黒瀬君」
黒髪を抑えつけ、お菓子の袋を睨んでいた姿は、
「遥……」
少し辛そうに笑んでいた。
俺たちは缶ドリンクを一本ずつ買い、コンビニから出る。駐車場の端に座り、それを口にしながら流れる光の筋を目で追う。
夜風は少しずつ熱気を孕んできていた。六月に入ってから気温は上昇傾向にあり、上着を着ていると暑く感じる。それでも、夜はまだ過ごしやすかった。
「最近、どうだ? 放課後はみんなと一緒に帰ってるみたいだが」
遥の方には視線を寄越さずに、正面を見た状態で問う。コンビニの自動ドアが開き、電子音が鳴る。去りゆく誰かの背中へと、その音は虚ろに語りかけていた。
「わたし、少し後悔しているんです」
アイスコーヒーを口にして、遥はため息を吐く。
「確かにわたしは、最近クラスの中で話せるような人ができたし、黒瀬君じゃない誰かと一緒に帰る機会も増えました。以前まではあのクラスの人とは付き合えないだろう、と決め込んでいたんですが、そんなことはなかったです。わたしの勝手な妄想でした。……それはよかったんですが……」
言いにくそうに遥はどもる。俺は、早くも飲みきってしまったジュースの缶を地面に置く。
「わたしが誰かと仲良くすればするほど、黒瀬君が孤立しているように見えるんです。それに気づいたのは本当に最近なんですが……。もしかしたら、自分が黒瀬君を苦しめているのではないかと……。自分がみんなと会話するようになったから、黒瀬君に誰も話しかけようとしなくなったんじゃないか、って思うと、今のわたしの立場がすごく申し訳なく感じられてしまって……」
俺の横に置いていた缶が風で倒れた。傾斜に従って俺から離れ、寂しげな音を立てて転がっていくそれをぎゅっと掴む。
「以前にも言った通り、黒瀬君はわたしの友人です。でも、今の状態で、わたしたちは友人と言えるんでしょうか? 片方だけが楽しい思いをして、もう片方は苦しんでいる。お互いに幸せじゃないと友人とは言えないような気がするんです。今回の件で、わたしがあなたから友人を奪ったと思われているんじゃないか、とか考えていると無性に怖くなりまして……。気分転換にここに寄ったら、偶然にも鉢合わせてしまったんです」
なるほど、先ほど彼女が見せたあの辛そうな表情の理由はそれだったのか。俺はそこについては納得したが、ほかの点には納得できない。一口飲んだだけの缶を、憂いを帯びた瞳で捉えている遥に、俺はできる限り、優しく聞こえるように配慮して伝える。
「別に俺は苦しくなんてない。今の形が、本来のお互いの姿なんじゃないかな、って思ってる。それに、俺は友人をとられたなんて考えてもなかったし、仮にそう思ったとしても、遥を恨むなんてことはしない。友人ならそれが普通じゃないか」
友人、という言葉に、遥がぴくりと反応し、俺の方を見る。照明が反射する鏡のような瞳は、俺を的確に映していた。
「宮下、って覚えてるよな? 前に特別棟を案内したときに現れた小柄な子。あいつが言ってたんだ。『友人っていうのは、別れてからも会いたいと思えて、そして会う存在なんだ』とかな。今のお前が俺に対してそんな気持ちを持ってくれているのなら、それでいいんじゃないのか」
遥は黙っている。硬直して、俺を見つめている。
「それに、両方とも幸せじゃなきゃ友人とは言えない、なんて俺は思わない。俺は別に苦しくなんてないから、お前のその考えは成立しないけどな……。自分が相手といて楽しいと思えて、相手は自分といて楽しいと思ってくれるのなら、それが友人っていう関係なんじゃないのか? 二人の間の友人事情に他人は関係ないよ」
遥は俯いて小刻みに震えていた。俺は構わず、最後に一言だけ付け加える。
「友人なら、こんな風に『友人とは何だ』みたいなこと、殆ど話さないよ」
俺が言い終わると、遥は顔を上げた。目尻に涙が浮かんでいた。だが、満面の笑顔だった。いや、優しい笑顔ではなかった。声を押し殺して笑っていたようだ。過呼吸に陥ったような音を上げている。
「……俺が真面目に話しているときに失礼な。しかも自分から振ったくせに」
だが、俺も苦笑せずにはいられなかった。すみません、とやはり変な音をさせながら謝る遥に、軽くチョップを入れる。
「いや、本当にすみません。宮下さんの話が出てきて、それについて語っているあたりから無性に笑えてきまして……。ふふっ、それにしても、黒瀬君はそんな風に考えているんですね。友人という存在について」
「ん、まぁ、な。でも、お前から見えている友人、なんて存在ができたのは、本当に最近のことなんだ。多分一年も経ってない。しかも、それも何というか……偽りの存在みたいなもんだよ。詳しくは話せないけど、俺の周りにいたのは友人なんて呼べる大層なもんじゃない。唯の……知人だよ」
「そう……なんですか」
遥はそれ以上、何も言ってこなかった。もしかしたら意外に思ったかもしれない。個人的な興味もあったかもしれない。けれども、黙って残りのコーヒーを飲みながら俺の横に座っていてくれた。三十分ほどそうしていただろうか。遥は唐突に立ち上がり、飲み終わった缶をごみ箱に向かって投げた。吸い込まれるように入った缶は、良い音を立てる。
「ほら、黒瀬君も」
遥が手を差し出すので、自分が飲んだ缶も遥に手渡す。それも綺麗に入れてみせた。
「じゃ、わたしは帰ります。黒瀬君も、遅くならないうちに帰って下さい。今日は引きとめたりしてすみませんでした」
遥は軽く会釈してその場を後にする。
「……やっぱり、黒瀬君は黒瀬君です」
俺に背を向ける瞬間に遥が口にした言葉は、再び鳴ったコンビニの機械音と重なったが、はっきりと聞こえた。そして二度と振り返ることなく、薄闇の中に姿を消した。
*
黒瀬君と別れたコンビニから自宅マンションまでは、徒歩で十五分もかからない。わたしは幾らか気楽な心持ちでその道のりを歩いていた。暗い歩道を、たくさんの車が白く、赤く、黄色く照らしている。わたしはそんな光の道を、ゆったりとしたペースで歩く。
彼は本当に変わらない。わたしと同じで時々無愛想なところも、時々優しく接してくれるところも。現在の彼とは、出会ってまだ僅かな時間しか経っていないが、消えてしまった時間が再び戻ってきているかのように、濃厚な時間を過ごせている気がする。
でも、彼はわたしに嘘を吐いた。頑張ってそれを見破られないように取り繕っていたと思うが、わたしにとって、彼の嘘を見破ることはとても安易だ。口ではあんな風に言っていたが、少しは大切に思っていたはずだ。彼もわたしと同じ。わたしが知っている苦しみを、彼も知っている。ただ、覚えていないだけだ。
今日は六月七日。一か月後はちょうど七夕だ。空を見上げれば、所々に小さな光の点が確認できる。七夕の日には、夏の夜空へと変貌を遂げていることだろう。
「もう、そんな時期なんですね……」
時が流れるのは、時に早く、時に遅く感じられる。意識しないように過ごしていれば、それは早く、意識していれば遅く感じられるものだ。わたしはずっと意識していたはずなのに、今に至るまでを、長いと感じはしなかった。なぜだろう。昔は一秒一秒がとても遅く感じられたのに……。
突然背後から鳴ったクラクションに、わたしは現実の世界へ呼び戻される。マンションへと続く、歩道のない道を歩いていたわたしの真横を、一台の乗用車が通り過ぎていった。はぁ、とわたしは息を吐き、羽虫が群がっている蛍光灯の下をくぐって、自室へと向かう。
部屋の窓から見える道路では、何やら黒い影が蠢いている。変な人たちが集まりでもしているのだろうか。わたしは無視してカーテンを閉め、寝るまでの時間を過ごし始める。
「ふぅ……」
素早くシャワーを浴び、簡単なものを胃袋に入れて、わたしはソファーに身を埋める。
あの日の彼の言葉を、心の中に蘇らせる。苦しみと、悲しみを帯びた彼の声。わたしは何もできずに、目の前の光景に怯え、立ち竦んでいただけだった。あの日をなかったことにするために、わたしはいま、この世界で生きている。
*
数日が経過したが、俺の周りに変化はなく、平穏な日常が送られていた。クラスメイトを辱めた挙句、遥を殴り続けた女は謹慎処分を受けたため、学校には来ていない。おそらくあと数日は来られないだろう。
しかし、今日の遥は少し雰囲気が重かった。事件後の遥は、大抵は誰かと一緒に登校していたのに、今朝は一人だった。俯き加減で入室した遥は、少し疲れた顔でクラスメイトに挨拶を返していた。五分ほどしてから登校した、助けられた女子たちも遥と目を合わそうとせず、偶然合ってしまった場合は、ついっ、と瞬時に目をそらしていた。
(あぁ、なるほど……)
そんな彼女らの様子を見ていれば、いやでもその理由に気が付く。まして、遥が関わっているのだ。少し前まで人と付き合うことをしてこなかった遥なのだから、きっと付き合い方を間違えて、少し厄介ごとになってしまっているのだろう。
「黒瀬君……今日、よかったら一緒に帰ってくれませんか?」
俺の席までやってきた遥が、懇願するような静かな口調で頭を下げる。
「あぁ、了解」
俺の返答にわずかに笑みを浮かべて、自席に戻る。長い髪に隠れた背中からは、彼女の感情を読み取ることはできなかった。しかし、俺は彼女に対して同情などの感情を抱くことはなかった。ただ、羨ましく感じた。青春らしいことを悩める人生はさぞかし幸せなことだろう。
放課後、俺は教室で遥を待っていた。俺に帰途の同伴を依頼した当の本人は、何やら用事があるとかで、放課後になると同時に教室を去った。だから、俺はスマホをいじったり、読書をしたりして暇をつぶしていた。
遥が教室に戻ってくるころには、夕焼けが完全に消え去り、照明の光の欠片が目立ちだしていた。
「すみません、遅くなりました……」
筆箱と数枚のプリントを抱えた遥は、疲れ切った顔でそれらを鞄に入れている。
「もしかして、補習だったのか?」
「え、えぇ。まぁ……」
恥ずかしそうに笑いながら、俺の横に立ち、歩き出す。
「……なんか、ここ数日よくないことばっかり起きている気がします。本当に……」
今日返ってきた数学の小テストで教師の決めた点数に達していなければ、補習を受けなければならなかったのだ。遥の成績は良い。少なくとも、俺よりは数段上なはずだ。
「珍しいな。俺すらも赤点は免れたっていうのに。凡ミスでもしてしまったのか?」
「……はい。公式を完全に忘れてしまいまして……」
などと、他愛もない話を二人で続けながら、共通の下校道を歩く。もしかしたら、それは遥にとって、悩みを相談しづらい環境でしかなかったかもしれない。しかし、俺のその悩みは杞憂だと言わんばかりの自然な笑顔を、遥は向けてくれた。俺たちの横を行く光がなくても、十分に眩しいと思えた。
道路の先に分岐が見えてくる。俺の家へ向かう道と、遥の家へと向かう道だ。十五分もかからぬうちに、そこへとたどり着くことだろう。
「黒瀬君、一つ、相談事があるのですが……」
少しだけ歩く速度を遅めて遥は話し出す。
「何だ?」
予想はついているが、敢えてわかっていない振りをして彼女に顔を向ける。そうして、遥が重く閉ざしていた口を開くのを待った。
「その……わたし、昨日、一緒に帰っていた子と喧嘩してしまいまして……」
ぽつりぽつりと、俯いたまま話し出す。
俺の想像した通り、些細な意見の食い違いから、遥たちは仲違いしてしまったようだ。原因は遥なので、相手の女子は話しかけてきてくれず、こちらから歩み寄っても無視されてしまうようだ。
「可能ならば、折角できた友人なので、早いうちに仲直りしてしまいたいんです。あまり時間を置きすぎちゃうと、余計に溝が深まってしまうと思うので」
「それは事実だな。仲直りするなら、さっさとしてしまうべきだ。それは正しいんだけど……無視されてしまうんだよな」
はい、と遥は悲しそうにつぶやく。小学生の頃は、所詮、形があるのかわからない自尊心と、「相手に先に謝ったら笑われる」とかいう妄想による意地の張り合いだったので、気が付けば自然と収束していたり、先生に言われてお互いに謝ったりすれば解決していた。
「遥……お前はこれまで喧嘩とかしたことあんのか?」
空を見上げて問う。遥も俺につられるように、上空を見上げた。赤い光を灯らせて、一機の航空機が横切って行った。
高校生にもなり、お互いのことを「好き」とか「嫌い」とかいった感情ではっきりと分けられるようになると、簡単に仲直りもできなくなる。輪郭がはっきりとしていなかった自尊心は明確なものへと姿を変え、それを傷つけられまいと相手に対して対抗的になる。特に信頼関係が浅いと、こういったことは起こりやすいように思える。早くも視界から消えた航空機の光のように、一度機会を逃してしまうと、再び掴むチャンスが到来するまで待つしかなくなる。
「そう、ですね……。他人と関わってこなかったせいで、そういった経験はゼロに等しいです。誰かと仲良くならなければ、ぶつかることもありませんし……」
だよな、と俺は予想通りの答えに少し安心する。
「とりあえず、強引にでも謝ってしまえよ。相手が無視するんなら、無視させたまま言っちまえよ。俺はあいつらと深く関わったことはないが、多分悪い奴らじゃない。今の無視だって、きっと一時の心の迷いだ。あいつらも、お前に合わせる顔がなくて無視してるだけだと思うぜ」
「……そうなんでしょうか」
だから俺は、若干無謀な提案をした。機会を作られないのなら、自ら作るべきだ。そう考えたが故の言葉だった。
遥はしばらく不安そうな顔をしていたが、やがて俺の言葉を受け入れたのか、それとも当たって砕けようと思ったのか定かではないが、少しだけ笑みを浮かべてくれた。
「あ、そうそう。あと一つ、聞いてもらいたいことがあるんですが」
「何だ? まだ人間関係で悩んでるのか?」
俺が訊くと、遥は首を横に振って、声のトーンを落とした。
「いえ、そうじゃなくて……。最近、誰かに見られているような気がするんです。みんなと一緒に帰っている時も、ちょっと気配を感じたりして。それに、わたしの家……マンションなんですけど、わたしが部屋に入って下を見ると、大抵数人組の人がいるんです。初めは気のせいだとか、偶然だとかと思い込んでいたんですが……。もう結構な日数続いているんで、不安になって……」
「不審者か? ストーカーとか?」
と訊いて、俺は背後を振り返る。暗がりではっきりとは見えないが、少なくとも、俺にそんな気配は感じられない。
「ちなみに、今もいたりするのか? その不審者」
遥は少しの間黙って歩く。十秒ほどそうしたのち、ゆっくりと首を横に振った。
「そうか……」
そう答えて、俺は黙る。遥は、種類の違う不安と恐怖を顔に浮かべ、沈黙している。分かれ道まで残り十メートルという場所で、遥はゆっくりと俯いていた顔を上げた。
「その……黒瀬君、提案……というかお願いがあるんですが」
横を通り抜ける車が起こす風で、遥の髪が左右に靡く。暗闇の中でもその漆黒は目立ち、妖艶に映えていた。
「もしお時間に余裕があるのならば……家までついてきてもらえませんか?」
少しだけ躊躇が混じっていた。けれども、それはすぐに強い決意によって掻き消されたように思えた。
ストーカーに付け回されているかもしれないという女子を放っておくこともできず、俺は分かれ道で自分の家がある方向に向かわず、遥の住むマンションへと向かっていた。
「というか、よくよく考えれば遥自身がストーカーだったんじゃなかったっけ? 俺の」
「それはー……あ、わたしの家、こっちです」
喧騒が絶えない通りから一転、人気のない道へと遥は入る。
「もう五分もかからないですよ。折角来てもらったので、お茶でも飲んでいきます? わざわざ付き合ってもらったわけですし、お礼も兼ねて」
道の先には確かにマンションがある。どこにでもありそうな五階建てのマンションだ。
「いや、いいよ。あんまり遅くなるのも悪いし――」
そう言って、俺は来た道を変える予定だった。だが、それは叶わない。俺たちが歩いてきた方向は、数体の黒い影によって塞がれていた。
「え……なに……!?」
背後から遥が驚きの混じった声を上げる。先頭に一人の女子、その後ろには屈強な、いかにも悪さをしていそうな男たちが、いつでも襲い掛かれると言わんばかりに好戦的な雰囲気を醸し出している。
そしてその女子には見覚えがあった。まだ自宅謹慎処分中の、クラスメイトの女だった。
「……何の用だ」
体を硬直させている遥を庇いつつ、俺が口火を切る。女は鼻で笑って一歩前に出た。
「何、って……。あたしがその女の前に来てる時点で大体予想つかねぇか? しかもこんな逆ハーレム状態でよ。もし天然で訊いてるんだとしたら、あんた馬鹿すぎるよ」
「……復讐……ですか」
背後から少しおびえたような小さな声が飛ぶ。俺は正面の女を凝視しているので、その姿までは確認できない。女はそんな遥の態度に、またもや優越感を覚えたようだった。見下した目で俺たちを見た。
「お前のせいで学校から処分食らっちまってからよ、ちょっとイラつくことが増えたんだわ。仲間とは満足につるめなくなるし、親も顔合わせる度に小言を言ってきやがるし。それで、ちょっと昔の彼氏に相談したんよ。そいつは今この場にはいねーんだがな。良い案を教えてくれた。あたしらは、それをやりに、ここに来た」
古い電球は点滅を繰り返し、月光は雲に閉ざされる。全ての状況が女に味方しているように、俺には感じられた。
「……まったく、ここまで来んのに苦労したんだぜ? 家を突き止めるために、弱い女どもと仲睦まじく帰るお前を尾行したり、協力してくれそうな男を探したりしたよ。お前にあたしの怖さを覚えさせて、二度と逆らわないように調教するために、作戦も練った。効率的に相手を壊す方法を探してな。楽しかったよ、その間は。憎たらしいあいつを消せると思ったら、異様に興奮しちまった。そして今日、やっとお前を襲おうと決めて来てみれば……何だ? 男と一緒かぁ? 彼氏か? そりゃそんなに可愛けりゃ、男の一人や二人、簡単だよな!」
どうやら、遥を付け回していたのはこの女だったらしい。マンションの下で集まっていた、というのも、女と仲間の男のことだろう。だが、今そんなことはどうでもいい。女の言葉に、俺の中で何かが切れる。決壊したそれは、体の中を這いずりまわり、頭を目指して一気に駆け上がる。
そんなにも遥が憎いか? そもそも遥がお前に強い口調で言ったのはお前らがうるさくしたからだろう? 遥は間違ったことをしていない。遥は男で遊ぶような軽い人間ではないし、そして遥と一緒に帰っている女子も弱くなんてない。本当に弱いのならば、あの場面でお前に対抗できるはずないじゃないか。俺のように、固まっているだけになるはずだ。
先ほど女が発したすべての言葉を打ち消す。この女は、何一つとして正しいことを言っていない。全て腐った脳が見せている妄想だ。その被害に遭っている遥が、そして女子たちはさぞかし迷惑なことだろう。直接的な被害を認識していない俺が思っても配慮に欠けるだろうが、今の俺の心の中は、目の前の女を潰したい。ただそれだけだった。
理不尽な憎しみに対する俺の正当な怒りは、俺の中で膨れあがっている。
女は俺を見て少し目の形を変えた。
「お前は……黒瀬か。気づかんかった。あいつと一緒に帰ってたのってお前だったのか。……そこをどきな。あんたのことは好きではないが、恨みはない。こいつらに殴られたくなければ――」
「どくか」
男たちを親指で指しながら言う女に、俺は言い放つ。それから、遥には近づかせまいと主張するように女の前に立ちはだかった。
「俺はあんたが嫌いだ。恨まれていないのは普通なら光栄と思うんだがな。でも、弱い奴や無抵抗な奴に、自分の力を誇示して辱めを与えているような奴になぞ、嫌われようが憎まれようが気にしない。寧ろ、嫌われたいよ。そんな奴に好かれたくない。だから、あんたを潰す。二度と力を示せないようにしてやるよ」
俺の言葉に女の眉が震えている。頭に血が上っているのがはっきりとわかる。きっとすぐにでも殴りかかってくるだろう。俺はいつでも応戦できるよう、軽く構える。
「……さっきからお前はあたしのこと、あんたあんた言ってるけど、ちゃんと名前があるんだよ。それを――」
「覚えてない」
きっとそれは、女が用意していた最後の言葉だったのだろう。俺の返答によって怒りのボルテージが最高潮に達したのか、いよいよ女は殴りかかってきた。それを確認して、後ろの男どもも戦いに加わった。
あの時と同様、女は馬乗りになろうとするが、俺がそれを許さない。喧嘩慣れはしていないが、そもそも男と女だ。体格や体力に差はある。だから、少しぐらいなら持ちこたえられるはずだ。その間に、誰かが気づいてくれれば……。
だが、すぐに女はしびれを切らし、遥を拘束しようとしていた男たち全員に、俺の動きを止めるよう命じた。男たちはすぐにやってきた。男の拘束から逃れた遥は、逃げることもせずに、その場で放心している。整っていたはずの髪は乱れ、制服にも至る所に皺が寄り、汚れがついている。生気が宿っていない瞳で、俺が殴られそうになっている様を見ている。
「逃げ――!」
そんな遥に俺の叫びは届かない。遥に気を奪われた一瞬の隙に付け入られ、俺は拘束される。一発腹を殴られ、体が折れた直後、両腕を締められた。胃液が込み上げ、酸味が口の中に広がる。
「……手こずらせやがって」
女がぽつりと呟き、俺を殴る。何度も何度も殴られる。酸味と共に鉄の味が口内に広がり、言いようのない不快感に襲われる。顔が腫れあがり、きっと醜い様になっているんだろうなぁ……と、他人事のような気持ちが不意に湧き上がってきた。そんな顔を見たら、遥は何と思うのだろうか。キモいと思われるだろうか。いや、遥のことだ。もし心のどこかではそう思う気持ちがあったとしても、打ち消してくれる気がする。高望みかもしれないが、その後に軽く治療してくれれば、俺としては勇んだ甲斐があるというものだ。
もはや、顔に痛みは感じなかった。感覚が麻痺してきたのだろうか。女は、一段と強い拳を俺に食らわせ、今度は遥の番だと言わんばかりに、みじろぎ一つしない彼女の元へ歩み寄った。
「…………………」
もう一度逃げろと叫びたい。けれども、俺の口は言うことを聞かない。叫ぶ気力すら残っていないようだった。
――だったら、願えばどうだ?
動かなくなった俺の体に、一つの考えが沁み渡る。開くのさえ困難な目で、一歩ずつ遥に近づいている女を見る。それは、俺の能力が初めて他人のために使われた瞬間かもしれなかった。『大切な人を守りたい』という、多くの人間が持つであろう願望を、俺はずっと忘れていた。周りとうまく接せられないが故に、自分にとって得だと思うことだけを願ってきた。だから、こうして誰かを助けるために願うことは、とても清々しい気分だった。
その後のことはよく覚えていない。誰かが「逃げろ!」と言っていた気もするし、優しげな声を聞いたような気もする。
俺が目を覚ました時、そこは見知らぬ部屋の見知らぬベッドの上だった。室内は薄暗く、仄かな月光が、カーテンの影を床に映していた。ベッドの脇には、静かな寝息をたてて眠る一人の少女の姿がある。
「いてっ……」
体を動かすと、痺れるような痛みが走る。顔には厚いガーゼが当てられており、鈍痛が絶えない。手首を回したり、足を軽く動かしたりしてみるが、大きな怪我はないようだった。まずはそのことに安堵する。
遥は自分の腕を枕にして、俺が眠っていたベッドに臥すようにして寝息を立てていた。安らかに眠る彼女に、目立った外傷は見られなかった。掛布団に少しだけかかっていた彼女の繊細な髪の毛が、はらっと垂れる。
「んっ……。んん…………」
何か気配を感じたのか、遥が小さな声を漏らす。けれども起きることはなく、再び穏やかな寝息が聞こえ始めた。
「……また、出会って……」
寝言だろうか。囁くような声であるが、静かなこの部屋の中では、はっきりと聞き取れた。
「もう、いちど…………」
それ以上、遥が寝言を漏らすことはなかった。俺は彼女が目覚めるまでずっと、その穏やかで、悲しそうな寝顔を眺めていた。
「すみませんでした、黒瀬君。わたしのせいで……」
遥はその後、三十分と経たぬうちに目を覚ました。起きた直後の遥は、俺が起き上がっていることに驚いていたようだったが、やがて落ち着き、いつもの彼女に戻った。コーヒーでも飲みますか? という遥の言葉に甘え、今は湯気の立つ一杯のコーヒーを前にして、沈黙の空間に二人で佇んでいたところだった。
「……急にどうしたんだ?」
「わたしが一緒に帰ってくれ、なんて言ったから、黒瀬君まで巻き込まれることに……。本当に申し訳ありません」
手にしている、自分の分のコーヒーに前髪が浸かりそうになるぐらいに、遥は頭を下げる。ほんのりと昇る一筋の湯気が、彼女の睫毛を蒸らしてゆく。
「いや、謝らなくてもいいよ。全部あいつらが悪いんだし、俺が怪我したのも自分が悪いんだから」
コーヒーを一口すする。砂糖もミルクも入っていないらしく、とても苦かった。あと、傷に染みて痛かった。
「そ、それでも……。わたしがやっぱり全ての元凶ですし……。何かお詫びを――」
「それよりも遥。俺が気絶した後、どうなったんだ? 俺たちが今、こうして話せている、ってことは、一応落ち着きはしたんだろ?」
俺は遥の言を遮って訊ねる。何か言いたそうに遥は口をもごもごさせていたが、やがて張っていた肩の力を抜き、コーヒーを一口飲んでから話してくれた。
俺が倒れた後、女らは遥を襲おうとした。だが、住民の男性が騒動に気づいて飛び出してきたため、女らは遥を傷つけることなく、去っていった。その後、男性は未だ放心状態だった遥と傷だらけの俺を、遥の部屋に運び込んでくれた。男性が呼びかけると、遥は間もなく正気を取り戻し、俺の介抱をしてくれた。そして今に至るそうだ。
「……」
とても自然な流れだと思った。俺が、『遥が助かりますように』と願わなかったとしても、同じ結末を迎えていそうに思えた。
「……といっても、ほとんど男性から聞いたものですよ。よく覚えていないのですが、きっとわたしも気絶に近い状態に陥っていました。ですから、黒瀬君が戦っている時のことも記憶にないんです。すみません」
「それこそ謝らなくていいことだが……。俺の『逃げろ』って声、聞こえてたか?」
俺の問いに目を瞬かせる。だが、やはり彼女の記憶の中に、そんなシーンは無いようだった。
「……大丈夫なのか? 身体もそうだが、精神的にも」
「今の黒瀬君に心配されるほど、わたしも脆弱じゃありませんよ。黒瀬君はわたしのことよりも、自分の体を元通りにさせることを優先してください」
遥は早口で言い切り、カップに残っていたコーヒーを一気に飲み干す。少し咳き込みながらも全て流し込み、傍らの小さなテーブルに空になったカップを勢いよく置いた。そこには一冊の文庫本が置いてあった。
「その本は?」
俺の視線を辿って、遥もそちらを見る。
「あぁ、黒瀬君が目を覚ますまで読んでいようと思いまして。読んでいる途中でわたしも眠っちゃったみたいですけどね」
苦笑しながら遥は人差し指でその表紙に触れる。長く白い指が、悲しみを癒させるように滑っていった。
それにはブックカバーが掛けられていなかった。表紙には「☆」の形が無数に描かれている。黄色に塗りつぶされたそれらが、紙の上で大きな存在感を放っていた。
「どんな本なんだ?」
俺が尋ねると、遥はわずかに目の色を曇らせる。しかし、すぐに優しげな瞳に変わった。そして、静かな声音で話し出した。
「……色々な星座の神話を題材にした、短編集です。かに座とか、さそり座とか、しし座とか。話の後には、その神話の内容の説明がされていて、きっと読みやすいと思いますよ。ですが……」
その本を手繰り寄せ、胸元で抱える。俯き、少し震える唇で言葉を続けた。
「わたしは……この本は、あまり好きではないんです。神話はもちろん、それを使って作られたお話も素晴らしいです。でも、悲しい話が多いんです。誰かを殺したり、逆に誰かが殺されたり、避けられぬ過酷な運命があったり……。普段読んでいる小説にも、当然そのようなシーンは数多くありますが、それとは違うんです。まるで自分の身に起きているように、とても辛く、寂しい気分になってくるんです。大切な人がいても、その人と別れざるを得なくなったり、自分が別れる原因を作ってしまったり……。ハッピーエンドを迎えても、救われた気分になれないんですよ。絶対に、何かぽっかり抜けてしまったような虚無感に苛まれるんです」
抱えた本には、少しばかり爪が立てられていた。
俺には、そうか、と呟くことしかできなかった。途中から、遥は目尻に涙を溜めながら話をしていた。声もくぐもったものに変わり、体の震えは大きくなっていた。
「……そんな中に、わたしの心に残っている神話が一つあるんです。聞いてくれますか?」
俺は無言で頷いた。苦みが増したように感じられるコーヒーを飲み干し、遥の話に耳を傾ける。
「これも、悲しい話です」
所々、彼女の言葉は途切れ、声は枯れていった。それでも遥は話を止めることはなく、俺に語り続けてくれた。
俺では、彼女の心の内を察すことしかできない。彼女に共感することはできても、想いを共有することはできるはずがない。そう考えていた。
だが、話を聞いている間に、俺はその不可能なことを可能にしたいという想いが込み上げてくるのを感じた。
話の悲しさの中に、一つの懐かしさが垣間見えたことが最も大きな原因だろう。訥々と話す彼女の言葉一つ一つに、数多の想いが籠っているように感じられた。
話は十五分ほどで終わった。そして、彼女はぽつりと呟いた。
「この神話の主人公は……わたしに似ています」
「……それって、どういう――」
俺の問いに彼女は答えなかった。静謐な瞳を携え、美しい黒髪を揺らし、遥はそっと、俺の頬に触れた。
黙ったまま、彼女は微笑む。それは柔らかな拒絶のように感じられた。
「……もうちょっと、待ってて下さいね」
しなやかな指が頬を伝う。少しくすぐったかった。
けれどもそれは、言葉では言い表せない程に心地良いものだった。