勇気が示す先
7
*
「黒瀬君、昨日はすみませんでした」
朝、教室に入ってきた俺を待ち受けていたのは、申し訳なさそうに頭を下げる遥の姿だった。俺は一瞬驚いたものの、慌てることはなかった。大丈夫だ、と声をかけると、遥は感謝も交じったような控えめな笑顔を浮かべた。
「それで黒瀬君、少し頼みがあるんですが」
昨日怒ってしまった理由を聞き、お互い謝りあって和解したあと、遥は真面目な表情を浮かべた。それは、彼女と出会ってこれまで見た表情の中で、最も険しかったように思えた。
「え、なに?」
俺はその雰囲気に少々気圧されながらも、彼女の言葉に耳を傾ける。
「先ほどわたしが言ったように、これまでに友人と呼べたような友人は、一人ぐらいしかいません。ここ数年間、周りとの関係も必要最低限……いや、それすらも持っていなかったですね。ですから、人と仲良くする方法が思いだせないんです。それで……」
時々逡巡するように視線を逸らしながらも、遥は止まることなく話し続ける。一筋の汗が、桃色の頬を伝っていくのが見えた。
「黒瀬君は、友人は多いですよね? よくみんなと話している姿を見ますし」
「え? あ、いや、俺は……友達と呼んでいいのか……。確かにお前より話してはいるが……」
俺の回答を聞いた遥がぐいっと体を前に傾ける。その整った顔が、俺の目と鼻の先まで迫る。
「わたしに、友達の作り方を教えてもらえませんか? そして、可能ならお手本を見せてほしいのです」
有無を言わせぬ鋭い眼光で射抜かれる。俺が持つ友人と言えば、遥と璃子を除けば、ほぼ全員が能力で手に入れた存在である。そんな俺の真実を知らないからこそ、彼女は俺に頼んだのだろうが、友人の作り方ならむしろ俺が教えてほしい。大きな苦労もせずに今の場所で過ごしている俺の意見など、役立つはずがない。だから、俺は断りたかったのだが。
「オッケーですか、黒瀬君?」
彼女は、表情こそ笑っていたものの、目は笑っておらず、自身の本気の想いを宿らせていた。そんな顔をみせられてしまっては、断ることなどできるはずがない。圧力のある笑顔に押され、結局、遥の友人作りに協力することになった。
(でも、……まぁいいか)
何があったか、俺には定かではない。だが、前向きに進んでくれたことを嬉しく思うべきだ。俺に唐突に突き付けられた課題は異様に重いが、それすらも打ち消せるほどに、俺は満足を覚えていた。
「もちろんわたしも努力はしますが、黒瀬君も、何か考えてくださると嬉しいです。では」
そう言って自席へと戻る。その後姿に、俺は自然と出てきたため息を吐く。遥の頼みを面倒だとは思っても、嫌だと思うことはなかった。
気分転換に、中庭に出る。授業の合間の休み時間や、授業中の退屈な時など、彼女の依頼に対する答えを、ずっと考えていた。だが、簡単に、友人を作る方法など思いつくはずもなく、悶々としたまま午前中を過ごしてしまった。「遥に友人ができますように」と願えば、きっとすぐに叶えられるだろうが、その場合は、遥への説明が面倒になる。加えて、遥も疑問に思うかもしれない。一晩経って学校に来たら、急にみんなが自分に親しく接してくれる……そんな状況になれば、誰しも気味悪く思うだろう。
「それじゃ意味がないんだよな……」
友人とは、一緒にいて楽しいと感じられる相手でないとならない。そうでなければ、彼女の希望を満たすことはできないだろう。上辺だけの関係では、充実した生活が送られないことは、俺自身がよく理解している。
一時間ほど前に雨は上がったが、まだ空は灰色の雲に覆われている。踏み出すたびに踵のあたりから水滴が跳ね、ズボンの裾から肌にかかる。一瞬だけ、針で刺すような痛みに襲われ、俺は歩みを止める。近くにあったベンチは濡れていたが、躊躇うことなく座った。
今日の中庭は静かなものだ。いつもは、賑やかな一年生の歓談や、エネルギーを持て余している男子生徒の鬼ごっこの場になっているが、地面がぬかるんでいるためか、それらの姿はない。頭上から漏れ聞こえる喧騒が、いつものこの場所の景色を再現しているようだった。
時折吹く強い風に髪の毛を浚われながら、俺は頬杖をついて呆けたように適当に視線を送る。見知った姿が歩いているのに気が付いた。
「璃子ー」
俺は暫し考えた後、彼女を呼ぶ。璃子は驚いたように背筋を伸ばしたが、俺が軽く手を振っているのを見つけると、すぐに破顔して俺の元へと駆け寄ってきた。
「先輩、こんにちはです。今日はどうしたんですか? 一人でこんなところでぼーっとして」
璃子は、その小さな手にすっぽりと収まるほどの小銭入れを持っていた。きっとジュースでも買いに行くところだったのだろう。周りに友人がいる気配もなかった。
「璃子、今ちょっと時間、いいか?」
璃子は小首を傾げて不思議そうな顔をしていたが、やがて頷いた。
「サンキュ、じゃあ早速だが――」
「あ、ちょっと待ってください! ここで話すんですか? 先輩の言い方から察するに、ちょっと長くなりそうですよね? 流石にここだと……」
璃子の視線をたどると、湿って変色しているベンチがあった。男で、しかも汚れなどに関して無頓着な俺は全く気にしなかったが、璃子は女子で、しかもスカートだ。何かと勝手が違うのだろう。
「それに私、結構喉が渇いていて……。ジュースを買うついでに、うちの部室とかどうですか?」
「部室って言うと……家庭科室か。わかった、じゃあ行かせてもらうよ」
昼休みが終わるまで、まだ二十分ほどある。今の時間帯なら、特別棟にはほとんど人気はないだろう。俺は小さな背中に牽引されて、家庭科室へと向かった。
施錠されていない扉を開けて、璃子は室内に入る。誰もいない特別棟では、俺たちが歩く音はもちろん、お互いの息遣いまでもが聞き取れた。大きめの机の上に置かれている椅子を、俺は下ろして座る。璃子も同様にして、俺たちは机を挟んで向かい合う状態になった。
「それで先輩、話って何ですか?」
璃子の右手には、自動販売機で買ったペットボトルの炭酸飲料が握られている。俺に気を遣ってか、まだ開けられていない容器の中で、数多の泡が舞い踊っていた。控えめな光に透かされた液体から伸びる薄黒い影は、俺の手に被さる直前で途切れ、寂しそうに揺らめく。
「なぁ璃子、お前、遥って覚えているか? 天月遥」
「天月……って言うと、先輩が前に学校を案内してあげてたあの人ですか? 髪が長くて美人な……」
大きな瞳を天井に向けながら、璃子はあの日の風景を思い出している。翳っていた部分が光に照らされ、ほの白く浮かびだされる。
「そう、そいつだ。実はな……」
俺が簡単な説明を終えると、璃子はようやく持っていたジュースの蓋をあけ、一口だけ含んだ。腕組みをして数秒ほど机上を睨んでいたが、やがて顔を上げる。
「答える前に、一つだけお訊きしたいのですが……。先輩はどうしてそのことを私に?」
「理由は何個かあるが……。一つは、俺が頼れる奴と言えば、お前ぐらいだから。一つは、璃子が友人づくりに慣れていそうだから。こんなところだ」
「……なるほど。先輩から見れば、私はそんな風に映っているんですね」
璃子は苦笑いを浮かべて、再びジュースを飲む。炭酸が抜けてきたのか、容器の中の泡の量は、どんどん減っていく。
「正直に言わせてもらいますと、私は友達を作ることに関して、これといった努力や行動を起こしたことはないんです。こんなことを言ってしまっては折角頼ってくれた先輩に対して申し訳ないんですけど、私は、昔からのこの性格で友人を作ってきました。……天月先輩の性格を変えるわけにはいきませんので、私からは言えることは何もないんです。すみません」
膝の上に固く握った拳を置き、元々小さな体をさらに縮めて、璃子は俯く。しかし、五秒もしないうちに再び顔をあげ、俺を見た。透き通った黒い瞳には、俺の顔が鮮明に映り込んでいた。
「でも、アドバイス……みたいなことならできると思います。それだけでもいいですか?」
もちろん、と俺はうなずく。璃子は俺と、俺の後ろの壁を交互に見るようにしてから、話し出した。
「友人作り、と一言に言っても、やっぱりそれぞれに適した方法があると思うんです。私みたいに、性格や外見によって友人を作ったりとか、趣味の合う者同士で仲良くなったりとか。ですから、誰かの経験を聞いて、それをそのまま当てはめるのはダメですよ。まずは、自分が周りの人とどういった関係を築きたいか、っていうのを考えるのが大事だと思います。つまり、先輩の取った行動はあまりよくなかった、ってことですね」
璃子は、俺を挑発するようなニヤニヤした笑みを浮かべて言い切る。だが、自分の行動が全否定されることは当然のような気がした。今の俺は、導き方も知らぬままに難問の答えを出そうとしている弱者だ。正さなければならないところで正さなければ、間違った道を進むだけである。
「それが決まったら、あとは己に従え! ですっ! 気持ちが前向きなら、案外何とかなるものなんですよ」
ペットボトルの中の残りのジュースを璃子は一気に飲み干し、教室の隅にあったごみ箱に投げ捨てた。箱の中で缶とぶつかり合って、甲高い音が空気を劈く。
「それだけ……か?」
「いえ……まだ覚えておいてもらいたいことがあります」
高い音の間をすり抜けるように、璃子の声が落とされる。璃子は俺から視線を外し、俯いた。彼女の姿は暗い影に覆われて黒くなる。机と同化するほどに小さくなった彼女は、声だけを残すように言う。
「下手に……自分勝手な感情で、他人のことを願わないでください。悪しきことはもちろん、良かれと思っていることも、です。いいですか?」
「……どういうことだ」
「どう、って……そのままの意味です。強すぎる願いは、時に人を苦しめます。友人というのは、自分にとって、そしてその相手にとっても、とても大切な存在です。卒業して別れたとしても、会いたいって思えて……そしてまた会う存在です。大事に思うのなら、余計なことは願わない方がいいですよ」
俺にとって「願うこと」とは、その願いが叶うことを意味する。ただ、璃子や遥などの普通の人間にとっては、「願うこと」とはまさに字の通りの意味であり、それ自体に効果はない。誰にも聞こえぬ想いを、胸の中で反芻することにすぎない行為のはずなのだ。
だが、璃子の物言いを聞いていると、彼女の言う「願う」とは、俺の考えるそれと近いように感じた。様々な感情が入り混じった笑顔を浮かべ、璃子は腰を浮かせる。
「天月先輩には、そんな感じのことを伝えておいてください。私の考えでは、天月先輩はそんなに多くの友人を必要としないタイプの方だと思います。誰か一人か二人、大事な存在が近くにいれば、無問題だと思いますよ」
家庭科室を去る璃子を、後から追う。特別棟を出ると同時に、予鈴が鳴った。俺たちは特に急ぐこともなく、自分たちの教室へと向かう。その間、璃子は何も発することはなく、足元を見つめ、ぬかるんだ地面に浮かぶ誰かの上履きの跡を追っていた。校舎の屋根から落ちてきた数滴の滴が、俺たちに当たる。そのうちの一滴が、偶然にも璃子の頬を伝っていくのが見えた。
「なるほど……。確かにわたしは宮下さんの言うとおり、多くの友人が欲しいというわけではありませんね」
次の休み時間、早速、璃子に聞いたことを簡単にまとめて遥に伝えると、彼女はすぐに璃子の言を認めた。
「わたしは誰かと毎日のように騒ぎたいから、とかそういう理由で友人が欲しいわけではなく、いざという時に頼れる存在が欲しいだけですから。ちなみに、黒瀬君はその存在に一応当て嵌まってはいますけど、異性ですからね。色々と融通が利かないこともあるんですよ」
申し訳なさそうに苦笑して、俺にその顔を向ける。
「あぁ、それぐらいわかってるよ。いくら頼られているからといって、男の俺にできないことまで押し付けられちゃ、かなわんからな」
いつか遥が口にした、「特別な存在」という言葉を忘れていたわけではない。俺はまだ、その存在の枠の中にいるのだなぁ、と他人事のように思った。
「ちなみに今、仲良くしたい、とか仲良くできそう、とかそんな気がする女子はいるのか? このクラスに限らず、学年全体で――」
「いませんね」
「……即答だな」
思わず苦笑が漏れた。
だが、それも仕方ないと思えた。遥は、このクラスの一部の女子からは疎ましい存在であると認識されてしまっている。仮にこのクラスの中の誰かと信頼関係を築くことができたとしても、邪魔されたり、相手の子に迷惑をかけたりすることになるかもしれない……とまでは考えていなくても、近いことを考えている可能性はある。その上で「いない」と答えているのであれば、遥の度胸は大したものだと思った。
「いえ、すみません。学年全体ではまだわかりません。お互いに顔を認識できるほど、接触したことがありませんから」
眉を寄せ、少し機嫌が悪そうな表情で遥は鞄の中から文庫本を取り出す。これ以上は今は話さない、という意思表示だろう。無言で頷き、俺も自席へと戻る。
次の授業の準備をするわけでもなく、頬杖をついて、消されていない黒板を睨む。数人の男子生徒が、チョークで描かれた、頭が異様に大きい未確認生物のような気味の悪い絵を前に大声で笑っている。その数メートル横では、遥の陰口を言っていた女子グループが、さっきの授業の先生の笑い方は相変わらずキモいだとか、次の授業の先生はハゲているから見たくない、とか言って盛り上がっていた。
「……下衆が」
無意味な絵で笑いあえる男子が、とても幸福に思えた。遥には、あの女子たちの仲間には絶対になってほしくない。彼女らは、他人を貶すことに生きがいを見出しているような人間だ。きっと彼女らに見えているのは、自らが悪だと気付かずに、一緒に貶しあう仲間以外の正義を塗りつぶすことによって創られる、偽りの景色だ。それは俺たちにとっては偽りだろうが、彼女らにとっては本物だ。その薄汚れた景色の中で生きる術といえば、それは誰かを自分より下に突き落とすことのみだ。それこそ、まさに無意味だ。
けたたましい笑い声が、今は、男子のいた場所から聞こえる。女子グループは先ほど男子が描いていた絵の場所に移動し、「何コレー!」「キモーい!」などと口々に言い合っている。いつの間にか男子たちは姿を消しており、黒板の前は女子たちが屯する場と化していた。しばらくその光景を眺めていると、「ねー、アタシ達も何か描こうよー!」という一人の提案を皮切りに、女子たちは男子の絵に被せるように描きはじめた。三十秒もすると、男子が描いた絵の上には、男女の名前が並んだ相合傘や、「○○死ね!」といった文字が並んでいた。その中には、同じクラスの女子の名前も複数あった。そして、「天月」という文字も。
「あ……お前ら何書いてんだよ!」
トイレにでも行っていたのだろうか、廊下から姿を現した男子の一人が、笑いながら女子に言う。クラスメイトやほかの同級生が貶され、辱めの対象になっていることなど気にすることもなく、あくまでおふざけの雰囲気を纏って女子に迫る。途端に悲鳴とも笑い声ともつかぬ女子の声が耳を劈いて俺たちに届く。その声を聞いて、机の上に突っ伏した影があった。
「また……まただよ……」
そんな小さな、か細い声が、俺の後ろの席から聞こえる。姿を確認しなくてもわかる。黒板に名前を書かれた女子の一人だ。これまでに何度も書かれている。ただ、誰も助けようとはしない。精々、慰めの言葉を掛けるのみだ。「大丈夫?」「気にしない方がいいよ」と。友人たちも本当は助けたいのだろうが、彼女らはこのクラスの中では男子以上に権力を持っているメンバーだ。歯向かえば、今度は自分が話の肴にされ、精神的、時には肉体的に追い込まれることは想像に易い。肩を震わせる女子の肩に手を置いて、ぽんぽんと叩いて慰めていた。少しだけ頬を赤くした女子が、苦しそうな笑顔を向けている。俺の知る範囲では、彼女は、騒いでいる女子たちに何かをしたわけではない。気づけば、彼女らの餌になっていた。
彼らは、今も狭い教室の中で奇声を発しながら鬼ごっこを続けている。俺たちの横も、風を残して通過していく。後ろの女子の机に何度も膝がぶつかるが、誰も謝らず、止めもしない。そしてまた、ここではない場所で机に何かがぶつかる音がした。
「…………」
その方向を見ると、遥が静かに腰を上げているところだった。あくまでゆったりとした動作で立ち上がると、長い髪を揺らして、遂に男子たちに捕まってしまった女子の元へと向かった。
「何」
男子と戯れていた女子の一人が遥を睨む。地面に放置された犬の糞を見るような目つきだった。近くにいた彼女の仲間も、それに似た視線を送る。
少しだけ、室内は静まった。もっとやれ。やめてくれ。数多の感情が含まれた視線が飛び交う。混ざり合い、蕩け合ったそれは、俺たちが持つ不快感を代弁していた。
誰かの目を裏切り、誰かの目を受け入れて、遥は言った。
「うるさい。邪魔。どっか行って」
それだけ残し、遥は何事もなかったように髪を靡かせて、くるりと反転する。華奢な背中を、茫然としている女たちに見せつけ、ゆっくりと自席に戻る。
だが、女が静かにしていたのも数秒の間だけだった。何を言われたのか、ようやく把握した女は野獣のごとき俊敏さで遥に襲い掛かった。遥が手に持っていた文庫本が宙を舞い、くしゃりと音を立てて床に落ちる。椅子が蹴飛ばされ、机が投げられ、女は罵声を上げる。それはもはや、言葉として聞き取れるものではなかった。女と同じグループのメンバーの一人の女子が、飛ばされた文庫本を容赦なく踏みつける。遥に襲い掛かった女は、同じ国に住む人間とは思えぬ単語を発し、怒りのせいでぐしゃぐしゃになった顔を無理やり誇らしそうに見せて、馬乗りになっている。煽るように声をかけるクラスメイトが二人を囲み、そこは小さなコロッセオのようになっていた。
「ちょっと……ど、どきなさいよ……!」
遥が額に脂汗を浮かべ、無理して開けた片目で女を睨みながら苦しそうに言う。当然、そんな生易しい言葉で動く奴ではない。目を一層大きく見開き、唾を飛ばし、後頭部を殴る。数発殴ると飽きたのか、今度は髪の毛を鷲掴みにし、女は強引に遥の顔を自分に向かせた。口の端からは、血が一筋流れている。
「無様だなぁ、おい。綺麗な顔が台無しだ」
前髪には埃がついているし、頬には消しカスなどの細かなごみも付着している。至るところが黒ずんでいた。
女はそんな遥の顔を見て優越感を得たのか、鼻で笑ったあと、腕を強く揺すった。呻き声が途切れ途切れに届く。
「お前はいつもいつもいい子ちゃんぶって本なんか読みやがってよ! むかつくんだよ!! 大人しいキャラ作って男子の気ぃ引こうとか思ってんのか!? 何か言えよ、おい!!」
決して抵抗はせず、遥は痛みに耐えている。俺は、動こうとしても動けない。先ほど、他人の本音がどうとか考えていたが、それは自分も変わらない。思っているだけで、行動に移せる勇気など、俺もまた持ち合わせていない。ただ、それを情けなく思ったことはなかった。
「けどなぁ、お前を好きになってくれるような奴とかいねぇんだよ!! 無愛想で、陰気くさいお前の事なんか、誰も気に留めない。お前は所詮、このクラスの掃き溜めなんだよ! わかったか!!」
女が言葉を発すごとに、そして遥が苦悶の表情を濃くしていくたびに、コロッセオを形成している男女の熱は温度を増してゆく。
喧騒を聞きつけたほかのクラスの奴らが、廊下から眺めている。たまたま近くにいたのであろう老教師は、為す術なしと言いたげに呆けた表情をして、女が叫び、遥が苦しむ様子を見て立ち尽くしていた。
「孤りで……っ! 苦しいかっ! 辛いかっ! 言えっ!!」
一言口にするたびに、何かしらの暴力を振るう。わずかに見えた遥の肩は、遠目にも分かるほどに震えていた。それに気づいた女が、腕の動きを止める。
俺は輪には近づかず、傍観者を決め込んでいた。だが、時折見えるいまの遥の姿にふと蘇るものがあった。口論をした日、遥が去り際に見せた姿に似ていた。友人が必要か否かについて話したあの日、遥は泣いていた。それが、繰り返されていた。
「……は」
「あん?」
遥がようやく何かを発した。瞳は汚れた前髪で隠され、口元だけが見える。唇を舐め、不敵な笑みを浮かべながら、地面に向かって話し出す。
「わたしなんかよりも……」
ぽつり、ぽつりと言葉が漏れる。
「迷惑に思っている周りの事、何も考えずに……」
遥が俺の席……というよりも、俺の後ろの席へと一瞬だけ視線を向ける。
「ただ欲望だけに従って行動してる……」
それは徐々に熱くなり、段階的に声量を増していく。視線を女へ、そして自分を囲んでいるクラスメイトに向けた。
「クズみたいな、アナタたちを見ている方が、よっぽど……苦しいですよっ!」
はぁ、はぁ、と肩で息をする音が、誰かが歯軋りする音が、誰かが立ち上がった音が、また怒りをあらわにする女の声が、同時に轟いた。ようやく硬直が解けたのか、教師が慌てふためいた様子で教室内に入ってくる。
「ま、待って……」
しかし、先生の前に立ちはだかる姿があった。馬乗りになっている女を含め、誰もが、その意外さに声を発せずにいた。
「もう……やめて……」
その子は、先ほどまで女らの笑い者にされ、苦しさに涙を浮かべていた、俺の後ろの席の少女だった。まだ頬の赤みは消えておらず、今にも泣きだしそうな弱気な表情を浮かべているが、震える足を、肩を抑えつけ、女の前に立っていた。握りしめた拳に、彼女の感情――憎しみや恨み――が凝縮されていた。
「それ以上は、もう……見てられないよ。やめないのなら、な……殴るよ……?」
本人にとっては脅しているつもりなのだろうが、高圧的な視線を送り続けている女と目をあわせられておらず、声も震えてしまっている状態では、却って女が調子に乗るだけだ。きっと少女もそれは分かっているだろうが、勇気を振り絞って女の前に立ち、遥を助けようとしている。
「……殴れよ、ほら。殴れるもんなら殴ってみろよ!! お前にそんな度胸があんのか!?」
遥に対して叫んだ時と変わらない声量と迫力で、少女を委縮させる。言いながら、女は遥の首元に手を置き、少しではあるが力を込めている。ひっ、と少女は小声で叫び、後ずさった。それでも、決して背中を向けることはなく、立ち向かう姿勢は変わっていない。遥は、そんな少女の姿を視界にとらえ、苦しさの中に、驚きの表情を浮かべていた。
「な……殴らないで……」
俺も教師も、また固まってしまう。遥のものとは思えぬ低い声が、絞めつけられている喉から漏れる。
「わたしの、ためにっ……そんな、こと……」
少女の目が見開かれる。一秒だけ「なぜ?」と言いたげにしていたが、それは徐々に崩れ、目は鋭く、歯と歯の隙間から漏れる息は、荒いものに変わっていった。
「…………っ!」
一つ短く息を吐き、少女が駆ける。数十センチ離れていた距離を、恐怖と惨めさで埋め尽くされていた自身の心がもたらす勢いと、そして怒りで埋める。完全に油断していた女は、彼女の拳を受け止めることはできなかった。
教室内に乾いた音が響く。女は目を閉じていたが、拳は女に当たることはなく、その一寸先で止まっていた。正確には、「止められて」いた。
「えっ? ちょっと……」
彼女の拳を止めていたのは、先ほど慰めていた彼女の友人だった。手のひらで、勢いづいていた拳を受け止め、ぷるぷると震わせながらも、殴らせることはしなかった。
「ごめん。でも、この状況でお前にこいつを殴らせるのは、良くないと思ったんだ」
肩にかかる寸前で切られた髪を揺らし、ボーイッシュな口調で、友人は少女の手を握ったまま自身の手を下ろし、少し視線を落として言った。
「……ありがと、天月。そしてごめん」
その直後、教師や、止めようとしていた奴らが女を取り押さえ、遥を引っ張り出した。女はしばらくの間、教師の腕の中で足掻いていたが、チャイムが鳴るころには疲れたのか、ぐったりとした状態でうつむいていた。二人はその後どこかに連れて行かれ、授業が終わるまで戻ってくることはなかった。
「天月さん、さっきは、その……ありがとう」
ひと騒ぎあった後の休み時間……すなわち放課後、遥の席の周りには、女を殴ろうとした女子をはじめ数人の女子が集まり、口々にお礼を言っていた。遥はどうすればよいのかわからないのか、困惑した表情を浮かべていた。絆創膏などは貼られておらず、何事もなかったような見た目だ。
一人の女子が言う。
「アタシら、ずっとあいつらの笑い話のネタにされてて……。嫌だったけど、あいつらに歯向かうと……ほら、さ。何となくどうなるかは予想がつくでしょ? だから面と向かって言い出せなくて……。今日、天月さんが言ってくれてちょっとスッとした。だから、ありがとう!」
満面の笑みで遥はお礼を言われ、頬を赤らめている。
「あ……いえ、わたしはただ、読書の邪魔をされるのが嫌いなので……。ついカッとなっちゃいまして」
しどろもどろになりながらも、遥は答える。
「あ、あと……助けられなくてごめん。天月さんがあんなになるまでほったらかしてしまったこと……。後悔してる」
一人が謝ると、みんながそれに倣ったように謝りだす。やはり遥は困惑し、あわあわと両手を振り続けていた。
「い、いえ、そんな……。結果的にわたしはこうして教室に戻ってこられたわけですから、大丈夫ですよ。それに、さっきも言った通り、わたしは自分のためにやったことですから。皆さんが謝る必要なんて……」
遥の言葉に、女子の顔が幾分か和む。薄らと涙を浮かべている子もいた。
「ありがとう、本当にありがとう!! 天月さんっていつも一人で読書してるし、その……アタシら同性から見ても綺麗だから、ちょっと接しづらかったんだよね。でも、今日からはそんなこと考えない! だから……」
ずっと話していた女子が、少し言いづらそうに視線を外す。遥は不思議そうに思っているような表情を浮かべていた。俺には、彼女らが何を言いたいのかおおよその予想はついているのだが、きっと遥は気づいていない。だが……。
「今日、今からヒマ? もし予定無いんだったら、遊びに行かない?」
隣にいた女子が彼女の後を継ぎ、笑顔で言う。同時に手も突き出していた。「もうー、アタシが言おうとしたのにー」、「いいじゃんいいじゃん!」などと、平和な口調と言葉が聞こえてくる。
俺だけではない……同性の友人と交流していく中で、女子独特の雰囲気や、遊びというものを学んでいけばいい、と俺は思う。そうすれば、きっと遥は浮いた存在ではなくなり、このクラスに馴染んでゆくだろう。俺のように、一般ではありえない方法を使って居場所を作るよりも、自然な流れでそれを作った方が、心の底から楽しめるはずだ。
俺は今、途方の無い寂寥感を覚えている。彼女らが「楽しい」と思ってあげている笑い声が、果てしなく遠いものに感じられる。教室内に残っている男子は俺を含めて二人だけで、残りの一人も、俺には全く興味を示すことはなく、教科書を片手にノートに何やら書き込んでいる。
俺も、他人のことは言えない立場なんだな……。そう、しみじみと感じた。
この教室内に自分の居場所はなかった。女子たちが発する空気に呑みこまれそうになる。俺は鞄を持ち、教室を出た。廊下に立ち、ドアを閉める瞬間に、差し出された手を握り、ぎこちなく笑んでいる遥の姿が見えた。