友達づくり
6
朝の教室は相変わらず騒がしいものだ。学校の外にいても、校舎の壁では防ぎきれなかった声が漏れ聞こえてくる。
数人から挨拶され、適当に返しながら自分の席へと向かう。鞄を机の横にかけると、机の中に入れておいた文庫本や教科書がぐらりと揺れるのが感じられた。そういえば最近、読書してないな、と一人の少女を視界の片隅に入れ、ふと思う。始業まであまり時間はないが、いま読んでいる小説を少しでも進めておくことにした。
「…………」
走り回っていた誰かの腰が机にぶつかる。誰かが投げた紙のボールがコントロールを失って俺に直撃する。とてもではないが、目の前の活字に集中できる状態ではなかった。だが、彼女だけは変わらない。読書を諦め、再び机の中に戻した俺を無言で嘲笑うように、遥は本に目を落としたままだった。周囲の女子が馬鹿にするような視線で見ているが、気にしている様子はない。自分に当たる前に吸収しているような感じだった。
本当に『不思議な子』である。きっと俺とは違う心の持ち主なのだろう。どうしてこの状況で読書ができるのだろうか。俺は何となく気になって、彼女に近づいてみた。すると、遥を妙な視線で見ていた女子の一人から声をかけられた。鬱陶しく思う気持ちを隠して振り向くと、女はぐっと顔を近づけて小声で問いかけてきた。
「ねぇねぇ、アイツの事、どう思う?」
「アイツって……遥のことか?」
「そう、あの天月遥って奴。アンタ、結構仲いいんでしょ。どう思ってんの?」
狐のように視線を鋭くさせて俺を見る。好意を持っている、みたいなことを答えた暁には、俺だけでなく遥も間違いなく貶されることだろう。俺がどう返すか迷っていると、目の前の女は一つ鼻で笑った後、勝手に話をつなぎ始めた。
「アイツね、まだ門が開いてないような時間から学校に来て読書してるんだって。意識高すぎない? マジ笑えるわー。ちょっとかわいい顔してるからって、きっと調子乗ってんのよ。そんな朝早くから学校来て何が楽しいんだか。アタシらーには理解できねーわ、マジで」
そう言って、一緒にいた女たちと再び大声で笑う。話しかけてきた女も、俺に完全に背を向け、女だけのお喋りに興じはじめた。知らぬ間に俺は蚊帳の外に立たされていたが、最初から彼女たちの話になど興味はない。すぐにその場から離れた。
俺は遥の席に近づくが、彼女が反応する気配はない。先ほど、自分の悪口が言われていたことにも気づいていないようだった。声をかけようかと考えたが、先日の遥の怒った姿を思い出す。頻繁に邪魔するのは気分の良いものではない。仕方なくこの場は諦めて撤退することにした。
間もなく担任教師もやってきて、ホームルームが始まった。その間、先ほど聞いた遥の事を何気なく考えていた。
(読書のために朝早く学校って……。俺にも真似はできねーな)
少しでも朝は眠っておきたい。常にそんなことを考えているから、登校時間は必然と遅くなる。ただ、朝は静かだろうから、読書にはうってつけだろうとは思う。
しかし、遥の孤立は変わらない。最近はそのことに対して悲しみや悔しみ、苛立ちまで覚えるようになっていた。諒也の言葉にもあった。踏み込め。疎ましがられたり嫌われたりするのは嫌だが、俺は何か行動を起こさなければならないように感じていた。これ以上、彼女に一人でいてほしくない。数分前の笑い声が俺の中の彼女を掻き消していった。
放課後、俺は静かに読書に興じる。授業が終わって三十分もすれば、大半の生徒は学校を後にする。校内に残るのは部活動に精を出す生徒がほとんどだ。環境としては、遥が朝にしているという読書とそう大差はない。
閉められていた窓を開放し、オレンジ色に光る空から吹き込む風を循環させる。時折吹く強めの風に、黒板の粉受けに溜まった白い粒が舞い上がる。それは霧のように薄く広がり、やがて消えていった。何度か深呼吸を繰り返し、自席で文庫本を開く。
ぺらり、ぺらりと数十秒ごとに繰り返されるページを捲る音。何個かの活字が集まり、一つの意味を為す。それがまた連なることによって場面は進んでいく。俺がいま読んでいる本に挿絵は一切ない。つまり文字だけで話が展開されている。読む人によって、世界や登場人物の姿が変わる。まさに十人十色の情景が広がる小説の世界というものが、俺はたまらなく好きだ。その感覚に身を委ね、俺は文字から感じ取れる、俺だけの世界を形成させていく。
中庭から璃子のものと思しき声が聞こえる。きっとまた買い出しにでも行っていたのだろう。先輩、只今帰りましたー、と元気な声が届く。少し微笑ましくなって、字を読み進めながら心の中で笑った。間もなくその声も足音も遠く去っていき、また風が流れる。太陽は既に姿を雲の中に消しており、あと数十分もすれば夜の闇が訪れることになる。もう少し読んでから帰ろう、と周囲の教室の薄暗さに孤独を感じながら思う。
俺たちの教室がある階から、人の気配は完全に消えた。俺はいっそう文字の世界に集中していく。物語は中盤を過ぎたあたり。前半にあった伏線が徐々に回収され始め、緊迫のラストに向けて一気に読み進めていきたい場面だ。時々目を擦りながら、読むペースを速めていく。
「…………」
沈黙の時間が流れていく。風は止むことなく吹き続け、一秒ごとに新たな息吹を巡らせる。
しかし、ぱらぱらぱら……と風に乗ってページが一気に捲れ、俺は軽く舌打ちする。そろそろ良い時間かな、と一度栞を挟んで俺は顔を上げた。
「……あ、ようやく気付きましたか」
不意に静かな教室内に、文字の如く声が響いた。その方を振り向くと、ゆったりとした動作で文庫本を鞄に仕舞い込む、遥の姿があった。
「お前、……いつからそこに?」
遥は少し唸るように声を出してから、
「……十分ほど前からでしょうか」
「声かけてくれりゃよかったのに」
俺も本を仕舞いながらそう言うと、遥は不満そうな表情で俺を見た。
「何度か声はかけましたよ。でも全然反応してくれないから……。わたしも静かにしていたんですよ。むしろ、黒瀬君が言ってたんじゃないですか、邪魔されたら怒る、って」
怒られるのは嫌ですから、と遥は澄ました顔で言う。
「確かにな、悪かった」
俺が鞄を持って立ち上がると、遥は何も言わずに俺に続く。教室の電気を消すと、一瞬のうちにねっとりとした闇が辺りを支配し、棟内を歩く恐怖心は嫌でも増す。心なしか、隣の遥との距離がいつもよりも近い気がした。
「……暗いですね」
「……暗いな」
意味もない、そんな会話を続けながら俺たちは階段を下る。途中にある非常口を示す緑の光が、冥界への入り口かのように、鈍く、そして気味悪く俺たちを照らしていた。
いつもと変わらない、灯りの少ない学校近くの道を歩く。遥の表情は暗がりで見えない。俺はもう一度、あの提案をしてみることにした。
「なぁ遥」
呼びかけ、彼女の方は見ずに話を始める。
「何ですか?」
「遥……やっぱり、お前は友達を作る気にはならないか?」
小さくため息を吐く声が聞こえた。俺にはばれないようにしたつもりかもしれないが、閑静な道路にそれは意外にも大きく響くのだ。
「……そう、ですね。……」
答えた後、なぜか遥は一瞬、明後日の方向を向いた。しかし、これは想定内の答えだ。だから俺は、自身の気持ちを吐露する。……つもりだった。
「俺はやっぱりお前に友人を作ってほしい。前にも言ったが――」
「待ってください」
遥は、唐突に俺の言葉を遮った。揺れる前髪を自身の瞳を隠すように垂らし、立ち止まった。先の大通りを行く車の光が、物寂しく薄暗いこの道路を横切る。一瞬が連なり、一つの大きな光となって彼女を仄かに照らした。
「その後も……前に聞いたのと同じ言葉が続くだけですよね?」
口調は尋ねているが、言葉の雰囲気にその気配は全くない。俺が黙っていると、幾分か語調を強くして遥は続けた。
「何度も何度も同じことを聞かされるのは、わたしは嫌いです。黒瀬君は時々しつこいです。わたしは黒瀬君のそういうところは、正直、嫌いなんです」
遥はそう、吐き捨てた。怒りという感情だけに身を任せ、遥は叫んだ。
「……黒瀬君の気持ちはありがたく感じます。ですが、わたしに友達はいらないんです。作るだけ無駄、と言いますか……。いつかは失うんです。気が付いたら、もう隣にはいないんです。そんなの、苦しすぎるんですよ」
俺は何も言えずにいた。遥は俺に背を向けて、虚空を睨んでいる。空に星は出ておらず、闇の中に穴をあけるように雲が流れていた。
「だから、これ以上わたしにその話題を持ってこないでください。……今日はお先に失礼します。では」
俺の方は一切見ずに、遥は咽ぶようにその言葉を言い残し、立ち去ろうとする。思わず追いかけそうになったが、いま彼女に何かを言ったところで効果はないだろう。俺は出そうになっていた足を引き、最後にその背中に呼びかける。
「なぁ、遥」
ピクリと肩が上がり、遥は動きを止める。
「俺が初めてこの話をしたとき、お前は『つらい』と零した。あれは本音じゃなかったのか?」
一台の自動車が、俺たちの横を通り過ぎて行った。朱く光るテールランプは、彼女の横顔に血を塗りたくったように染めた。苦々しい表情を隠すことなく、遥は
「あれは、違います。……違うんですよ」
と、答えた。そしてすぐに歩き出す。
俺はしばらくその後姿を見届けたのち、自らの家路についた。俺には、きっと明日にはいつも通りの遥に戻っているだろう、という憶測があった。照らされた彼女の頬に流れていた一筋の光を思い出しながら、俺は暗い小道を独り、歩いた。
*
一つ息を吐く。煌々と輝く数多のネオンが、目を焦がすようにわたしを襲う。わたしの中の蟠りが重みを持って出されたような溜め息は、いつまでもわたしに纏わりついて、離れないように感じられた。
春も終わりが近くなり、少し前までとは異なる温かさが街を包み込んでいる。だが、わたしはブレザーのポケットに両手を突っ込んで、真冬の外にいるかのように縮こまって家路をたどっていた。
「今日は、……やけに賑やかですね」
辺りを見回しながら、ぽつりと呟く。横断歩道を渡る時、青になったら流れる軽快なリズム。わたしを猛スピードで追い抜く自転車のベルの音。少し離れたところを走るローカル線の列車が線路から奏でる音。普段は聴くこともない音までが、鮮明に聴き取れた。
確かに今日は、わたしに賑やかさを提供してくれる存在が、隣にいない。だが、彼と出会ってからも、一人で帰ることはあった。その時に、周囲の音など気にしたことがあっただろうか。
(否……)
声には出さず、口だけを動かして答えを出す。声に出してしまったら、わたしの信念が崩れてしまうような気がした。
家が近づくにつれて、市街地のような眩さは無くなり、十数メートルおきに立てられている、今にも消えそうに点滅する街灯だけになる。女子高生が独りで歩くには、少々不安に思われるような場所だ。だが、それはあくまで世間からであり、家族からではない。家に辿り着いても、わたしの帰りを待っている者はいない。浴槽やベッド、机やお皿たちがいるだけである。
両親は、わたしが小学生だった時に死んでしまった。交通事故によって、若くして命を絶たれた。わたしを引き取った親戚の人たちは良くしてくれたが、高校生になると同時に一人暮らしを勧めてきた。きっとわたしとの生活の疲れがピークに達したのだろう。それを恨んだりはしていない。寧ろ、孤独なわたしを高校生になるまで育ててくれたことに、並ならぬ感謝を覚えている。生活費などは毎月振り込まれるが、それ以上の関係は今や持っていない。
暗がりに聳えるマンションの一室へと入る。明かりをつけた後、鞄とネクタイを放り出してソファーに倒れ込む。十分に閉められていなかったのか、台所の蛇口から落ちる滴がシンクを叩く音が、静寂の中に木霊する。
「……孤独、か……」
今頃彼は一人で夜道を歩いているのだろうか。その彼の姿を想像した時、わたしは初めて自分の孤独を自覚した。先ほど感じていた普段とは違う光景が、それからきたものであると理解した。
わたしの中にあったのは、驚きから来た一つの恐怖だった。黒瀬君に二回目の提案をされた時、わたしは一瞬悩んだ。それは演技などではなく、本能的にしたことだった。自分の行動に驚きを隠せず、焦ったわたしは彼に強く当たった。自分の奥底に眠っている痛みを隠すための、一種の自己防衛であった。
「明日、謝らなくちゃ……」
ソファーの傍らに置いてある人形に顔を埋め、目を瞑る。先ほどの、彼の気まずそうな、苦しそうな顔が、僅かな黒みを帯びて脳裏に浮かんだ。きっとわたしも似たような表情をしていたことだろう。
壁に掛かっている時計が、午後八時を告げる。夕食は、途中にあるコンビニで適当に購入してきた。もう、今日は何もする気にはなれない。買ってきたものを食べて、必要最低限の事だけして、早く寝てしまおう。そう決めたわたしは、いそいそと小さなナイロン袋に手を伸ばすのだった。
流れる風が心地よい。
お風呂からあがったわたしは、ベランダに出て何をするでもなく景色を見る。今日も変わりばえの無い風景だ。あと数時間で日が変わるという時間になっても、少し離れたところでは忙しなく自動車が走り続け、店は懐中電灯のように一部だけを眩しく照らしている。こうして、何も考えずに火照った体を冷ますのは、とても気持ちいいと思った。普段しないことをたまにやってみると、淀んだ気持ちが洗われていくのを感じられる。
あたり終わったらそのまま寝るつもりで、部屋の電気は全て消した状態でベランダに出ていた。暖かさを孕んだ風が、今日も吹いている。孤独を誘う風が、それに混じって吹く。隣の部屋から、天気予報の音声が漏れ聞こえてきた。どうやら、これから雨が降るらしい。
室内に戻り、窓の鍵を閉める。カーテンも勢いよく閉め、外からの光は微弱なものになる。
「…………おやすみ」
果たしてこれは誰に言っているのだろう。天国にいるはずの両親だろうか。わたしにとっての特別な人だろうか。
――違うな。
もちろん、彼らに言いたい気持ちもある。だが、それ以上に募るのは、『彼女』への気持ちだった。毎日言っているわけではない。今日は、黒瀬君のせいもあり、思いだした。だから、久しぶりに言ってみたのだ。電球が、天井に浮雲のようにぽっかりと穴を空けている。その儚さと脆さに胸が潰される思いを感じながら、わたしは暗い部屋の中で独り、眠りについた。
翌朝、わたしはいつものように電子音に起こされる。外をわずかに透かすカーテンの先には、灰色の空が広がっている。近寄ってよく見てみると、少しではあるが雨が降っていた。小さくため息を吐き、わたしは再びカーテンを閉める。隣の部屋からは、相変わらずニュースの音声が流れてくる。あまり会話をしたことはないが、確か中学生の男の子がいたはずだ。母親と思しき女性の、息子を起こす声がひっきりなしに聞こえる。
「少し……楽にはなった、かな」
昨日のことを思い出しながら、自分の気分を確認する。あまりよく眠れた気はしないが、体調が悪かったりすることはない。今日は大事な日だ。体調を崩して学校を休むわけにはいかない。
あくびを噛み殺しながらやかんに水を汲み、紅茶のティーバッグを用意する。
隣の部屋では、ようやく息子が起きてきたのか、今度は母親が朝の準備をせかす声が聞こえる。それに反発する男の子の声も聞こえた。
広い部屋を見渡す。不意にわたしは思った。わたしを支えてくれるものは何なのだろう、と。この部屋に何があるのだろうか。わたしがいまから向かう場所に、果たして何があるのだろうか。昨日、わたしは『孤独』を感じた。だが、いま、わたしが感じている『孤独』とは、昨日のそれとは全く異なるものだった。大切な存在が欠けているから感じる孤独ではない。誰の想いも、心も存在しない『無』の空間に置いてけぼりにされている自分に対して、巨大な孤独を感じた。
カタカタ、とやかんの蓋が震える音が、静かな部屋に大きく響く。今、この部屋の中でわたしの孤独を癒してくれるのは、このやかんだけだ。小刻みに揺れる音だけが、わたしがここに存在しているのだということを証明してくれる。吹き上げる湯気も、乾いた空間へと、砂漠に落ちた滴ほどの潤いを与えてくれた。
あぁ、だめだなぁ……。天井を見上げて、わたしは息を吐く。周りと関係を持たずに接してきたこの数年間で積み重ねたものが、瞬間的に崩れた。その反動か、腹の底から込み上げてくるものを感じた。これが自分のせいだということは分かっている。言わば、わたしへの罰だ。こみあげてきた涙を無理やりせき止め、急いで朝食を摂る。そのまま朝の準備を終え、戸締りをして家を出た。
「おはようございます」
微笑を浮かべて、通りすがりの女性に挨拶をする。傍らには小学校中学年ぐらいの女の子が、女性の服の裾に縋りつくようにして立っていた。その子にも控えめに挨拶をし、その場を離れる。
ちょうど、あの女の子ぐらいの年齢だったと思う。その当時の記憶は、断片的に頭の中に残っている程度であるが、存在だけは覚えている。『彼女』を失ったのも、わたしたちが小学校中学年のころの話だ。