誰かの記憶
5
カーテンは完全に閉めたはずなのに、眩しい朝の日光が差し込んでいる。きっと暗かったせいでよく確認できていなかったのだろう。顔面に容赦なく降り注いでいる光を遮るべく手で影を作りながら体を起こす。
体は落ち着き、熱さも感じなかった。まだ異常があればしかるべき措置を取ろうと思っていたが、この分なら問題なさそうだ。時計を見ると、朝の十時前。今日は何の予定もないのでもう少し寝ていよう、と再びベッドに身を投げ出す。
瞼が落ち、意識が深淵に吸い込まれていくのを感じながら、その流れに身を委ねる。しかし、そんな勢いを止めるがごとく、インターフォンが鳴り響いた。ネットで何か購入した覚えはないし、誰かと遊ぶ約束もしていない。そもそも、俺の家など、誰にも教えていない。だとすれば、客は大体予想がつく。
「……鬱陶しい」
何度も何度も鳴るベルの音に辟易し、無駄だとわかりつつそんなことを呟く。しかし、無視していると、このまま何時間も鳴らし続けそうなので、仕方なく重い体を上げる。
鍵を外し、陽の光をまともに受ける。
「おっはよー……ってまだ寝間着姿なのか、魁人」
ドアの先には予想通りの人物がいた。無駄に伸びた不精髭に、比較的大きな目。小太りで、遊び人のような口調で朝の挨拶を投げかけてくる男が、薄ら笑いを浮かべて立っていた。
「……やっぱりな。何の用だ?」
俺の明らかに突き放す口調に思わず詰まる男。それでも、すぐに表情を取り戻して絡んできた。
「そんな怖い顔しなくてもいいじゃんよー。とりあえず、上がらせてもらうぜ」
「お、おい……」
俺の静止も聞かず、遠慮なく部屋に上がり込む男――眞下諒也――は、台所に置いてあったコップを手に取り、水を一杯呷る。俺は諦めの息を吐き、重い扉を閉める。
諒也は俺と同じアパートの住人で、部屋は一つ挟んだ隣だ。俺よりも年上で、大学生なのだが、通っている姿を見たことがない。アルバイトもしていないらしく、生活は両親から送られてくる分で賄っている、と前に聞いた。部屋が近いということで前々から時々会話を交わすことがあり、それが延長して、今では諒也が暇な時に俺の部屋にやってきて無為に過ごすことが、半ば習慣化している。なお、歳は少し離れてはいるが、俺は遠慮することなくタメ口で話している。
「で? 今日も暇潰しか?」
ぼさぼさになっているであろう髪の毛を掻き毟りながら、我が家のようにテレビをつけた諒也に問う。
「ん? まー、そんなところよ。今日はとってる講義もないし、暇なもんでね」
たまたま流れていたニュース番組をぼけっと見始める。それから、ふと思いだしたように尋ねてきた。
「お前こそ、今日は暇なのか? それと、朝飯は食わなくても大丈夫なのか?」
「……母さんかよ」
ぼそっとツッコむ。俺の反応が愉快だったのか、諒也は近隣住人の迷惑になるのではないかと思うほどの大声で笑った。数秒だけそうしたあと、目尻を擦って座りなおる。
「いやー、そういうわけじゃなくてな。もし暇なら、一緒にラーメンでも食いに行こうと思って」
「へぇー。お前が誘ってくれるなんて珍しい」
「言っとくけど、奢らないからな」
笑顔で付け加える諒也。俺はわざとらしく舌打ちをする。まぁ、そんなところだろうと思ったが。
「で? お前にとっちゃブランチになるけど、行くか? 行かないか?」
見ていたニュースがつまらなかったのか、テレビを消して、瞳を輝かせながら俺を見る。断ったらしばらく恨まれそうなほどに楽しそうだった。
「……わかったよ。付き合うから、ちょっと待っててくれ。今着替えるから」
俺がそう答えると、諒也は過剰だと思えるほどに喜んだ。
店が開く時間までは余裕があるので、それから小一時間ほど適当に時間を潰してから出発することになった。諒也が散らかしていったグラスなどを簡単に片づけながら、点けっぱなしにしておいたテレビへと視線を向ける。この町にもある、有名チェーン店の喫茶店の広告が流れていた。
「……ケーキ食べ放題……?」
最近甘いもの、食べてないなぁ、とふと思う。俺はスイーツが嫌いなわけではないが、たくさん食べられるほどではない。コーヒーと一緒に流し込んだとしても、二、三個が精いっぱいだろう。だが、久々に食べてみてもいいかな、という考えが頭をよぎった。それと同時に、甘いものや話題性に目がないクラスの女子たちが、血相を変えて店に飛び込む姿は容易に想像できた。
しばらくテレビを見て過ごしているうちに、約束の時間になった。変わらぬ調子で俺の部屋を訪ねてきた諒也と共に、俺たちは近所のラーメン屋へと向かった。
「ラーメン屋さんのラーメンとか、食うの久しぶりだわー」
休日のお昼時ということで、休日出勤のサラリーマンや家族連れで賑わう店内で、俺は漂ってくるスープの匂いを嗅いでいると、そんな言葉が口をついた。一人暮らしの俺にとって、ラーメンと言えばカップラーメンだ。お店に行って食べるものなど、値段が高くてこういった特別な時にしか食べられない。必然と、その回数は減ってくる。
「まぁ、オレもそう来ないけどな。今日は何か気分がいいから、特別だぜ!」
諒也の大声に、周囲の客がちらちらと視線を向けてくる。テンションが上昇中の彼を何とかして諌めて、ようやく落ち着く。注文を済ませ、カウンター席から、多くの店員さんがめまぐるしく働いている姿をぼーっと眺める。
「諒也、お前は最近、大学の方はどうなんだ? 彼女とか、できてないのか?」
少しからかう意味も込めて、嫌味らしく問う。はははっ、と諒也は快活に笑った後、やや表情を曇らせる。
「はぁ……全く以てさっぱりだよ。ちょっと気になる娘はいて、時々声もかけてみるんだけど、全員が鬱陶しそうな顔してさ……。すぐに関係が終わってしまう」
自虐めいた乾いた笑みを浮かべ、訥々(とつとつ)と話す。一応大学には行っているんだなぁ、という驚きと、何となく想像できた彼のキャンパスライフに同情する念が沸き起こる。
「お前ももし大学行くんなら、覚えとけよ。高校生が想像するほど、あそこは華々しいところじゃねーぞ」
輝けるのは、どうせイケメンだけなんだよ、と心の底から憎々しく思っているような口調で吐き捨てる。
「まぁ、オレの辛気臭い話はここまでにして……。魁人、お前の方はどうなんよ? もう長らくお前の学校での話とか聞いてねーけど。お前こそ、彼女できた?」
「残念ながらいねーよ。大体、あの学校に俺と釣り合いがとれるような奴、そうそういねーことぐらい知ってるだろ」
はは、と苦笑いして、諒也は答える。
「そうだな。お前はあそこの女子高生どもとは、うまくやれなさそうだ。なんつっても、地味だからな」
俺の顔から体までじっと見つめて、大きく笑う。否定できないのが少し悔しい。
「てことは、お前はまだ童貞か」
「……お前だってそうだろ。……え、違うのか?」
俺の驚きをよそに、諒也は白い歯を見せてニヤニヤと笑っている。
「…………マジで?」
恐る恐る訊ねる。すると、俺の本気で戸惑う表情に、逆に諒也が驚いたのか、笑顔が徐々に崩れていく。
「……嘘だよ。そんなマジな顔すんな」
俺の緊張の糸がずん、と弛緩していくのが感じられた。こんなことで緊張しているようじゃ、本当に彼女ができた暁にはどうなるのだろうか。今の俺には想像することすらできない。
「彼女はいないにしてもよー、魁人。仲の良い女子もいないのか? いくら派手な奴が多い学校とはいえ、中には大人しい奴もいるだろ。想像だけどさ」
「……まぁ、大人しい奴はいるけどな」
俺にとって、その代表が遥になる。ほかにも大人しい子は確かにいるが、対象である誰とも特に親しい関係を築いていない。
「じゃあ、その子たちとは仲は良いのか?」
訊かれて改めて考えるが、やはり遥以外に親しくしている大人しいタイプの女子はいない。力なく首を振って、正直に答える。
「残念ながら。一人しかいないな」
「……一人はいるんだな」
諒也がまたニヤニヤといやらしい笑みを浮かべて俺の顔を覗き込む。しまった、と思わず自分の失態に気づくが、時すでに遅く、大きな顔が眼前にまで迫ってきていた。こいつは、自分の事は多く話さないのに、他人のことになると人が変わったように質問攻めしてくる。特に友人の女友達の話ともなると、その勢いは普段以上に燃え上がる。
「え、その子どんな子? どんな子なの? 女優で例えると誰?」
想像通り、遠慮のない問いが連なる。俺は自分の注意力の無さを呪いながら、油で光る床に向かってため息を吐く。こうなると、諒也はきっと諦めることなく、数週間ほど問い続けてくることだろう。それは殺意が湧いてくるほどに鬱陶しい。
「わかった。わかったから……。もうすぐラーメンも来るだろうから、それ食べ終わったらな。少しだけ話すよ」
俺の諦念の籠った声に、子どものように諒也は喜ぶ。ただ、彼はこのような性格をしているが、もし悩みがあると告白すれば、最後まで相談に乗ってくれる奴でもある。回数は少ないが、人間関係の事で相談に乗ってもらったこともあった。
「……まぁ、丁度いいか」
遥の発言などについて、少し他人の意見ももらった方がいいかもしれない。一人で考えていても、遥の言う「特別な人」はきっと見つからない。加えて、昨日に感じた胸の痛みもある。悩みを上げていけば、きりがない。
俺は、その後すぐに運ばれてきたラーメンをすすりながら、何気なく考えていた。俺がいま抱えていることは、誰かに相談することで解決するのだろうか。解決しなくても、突破口が見つかればいいのだが。時折跳ねるスープの熱さに耐えながら、辛みを帯びた味と共に漠然とした不安を感じていた。
「じゃ、話してみろよ」
五分ほどでスープまで啜り終わった諒也が、口元を服の袖で拭いながら、話すよう促してくる。対して俺はまだ丼の三分の一ほど残っている。
「いつになくはえーなー……」
「ほらほら、早く食っちまえよー」
諒也とは過去にも今日のようにラーメンを食べに来たことはあるのだが、ここまで素早く食い終わったことはない。いかに俺の話に興味を持っているのかが窺える。
執拗に煽ってくる諒也の言葉を躱しながら、ラーメンを貪った。そして数分後、俺もまた、最高記録を更新できるタイムで食べ終わった。正直、味など覚えていない。しつこく口内に残るにんにくの臭いを、大量の水で消し去らせる。
「ようやく食い終わったか」
暇潰しなのか、水をたらふく飲んでいた諒也が、膨らんだ腹を苦しそうにさすりながら俺を見る。店内はピークの時間を過ぎたのか、だいぶ席に余裕ができており、待合室で待っている人もいなかった。
「じゃあ、お前のお悩み相談、行きますか」
「……別に悩んじゃいねーよ」
「細かいことはいいからいいから」
片手を振り、俺の反駁を諒也は軽くいなす。
「お前が親しい、って言う唯一の女の子、どんな子なんだ? お前から見て」
幾分か表情を切り替え、少し真面目な声音で問われる。俺もわずかに佇まいを直し、彼女の事を考えた。周囲のノイズを交えながら、思考を巡らす。
「そうだな……。一言で言うなら不思議な奴だよ。ちなみに容姿は、周りの女子なんかとは比べ物にならない程に綺麗だ。何ていうのかね、撫子? みたいな子だ」
俺の言葉を聞いた諒也は、小さな笑みを浮かべて頷いている。やがて感嘆したような声を上げた。
「へぇ、お前がそこまで言うんなら、その子はめっちゃ良い子なんだろうなー。お前は基本的に人を褒めるっつうことをしないからな。珍しいこともあるもんよ」
「うるせぇ」
諒也の失礼な言葉に、形ばかりの反駁をする。彼の言うことは間違っていないので、強く否定はできないのだ。
「まぁ、こんなところだ。何か訊きたいことはあるか? ないなら帰るぞ」
言いながら腰を上げ始めた俺を、諒也が慌てて止める。俺たちが入店したときからいる客はわずかとなり、新規の客が席のほとんどを占めていた。パート従業員と思しき人物からの「早く帰れ」と言いたげな視線が非常に痛い。
「一つだけ訊かせてくれ。さっき『不思議な奴』って言っていたが、具体的にはどんな感じなんだ?」
「どんな、って言われてもなぁ……。まず、俺なんかと親しくする時点で不思議だと思うんだが」
俺の返事に「正論だ」と大声で笑う。
「確かにそりゃ不思議だが……。でも、それだけじゃないんだろ?」
「……まぁ、そうだけど」
諒也の視線から逃げるように、自分の視界をずらす。少しずつ諒也の顔が落ち着いてくるにつれて、俺の方が気まずい気持ちにさせられる。ふざけた格好の割に肝心なところで真面目なのだから、扱いづらいのだ。
俺は自分の能力のことは話さずに、彼女の事を伝えた。遥が、ほかのクラスメイトとは全く関係を持とうとはしないくせに、俺とだけは良い関係を築こうとしているように思えること。俺の見間違いかもしれないが、ある後輩から妙な目で睨まれていたこと。俺にとっての「特別な人」を見つけろ、と言ってくること。全て聞き終わった諒也は水を一口飲んだ後、俺の方に向き直った。
「……なるほど。ちなみに、お前はその子のことは好きなのか? 友達として」
暫し考えるが、結果的に首肯する。
「じゃあ次の質問だ。お前はその子が好きか? 『恋愛対象』すなわち『女の子』として」
「――」
続いて流れ出た質問には、考え込むことすらできなかった。一瞬、すべての思考が止まったように感じられた。早まる動悸を抑え込み、一つ息を吐く。目の前の丼にわずかに残っているスープに浮かんで漂っている油の模様が、異様に光って見えた。それは違和感を通り越し、不快感を与えてくるようだった。
「い、いや……そんなんじゃないな。あいつは友達だ」
店内の熱気のせいかよくわからない汗を拭いながら答える。
遥の事は、確かに魅力的な女の子だと思う。だが、それ以上の特別な感情を俺が持ち合わせているとは思えない。抜け落ちている中学時代のころは定かではないが、これまでに恋をしたことも無ければ、ろくに人を好いたこともない。だから、今俺が感じている気持ちのほとんどはとても新鮮に感じる。水槽の中で波打つ水のように、震える気持ちがこみ上げてくる。少し、心地よく感じた。
「そうか。じゃあ、質問を変えよう。誰かに好かれる、ってのはどんな気分だ? お前がこれまでにオレに相談してきた内容の中に確かあったよな、『友達をつくりたい』って」
俺は静かにうなずく。
「さっきオレが訊いたこととちょっと繋がるな。自分が誰かの友達になるってことは、自分がその誰かに好かれる、ってことだ。嫌いな奴を友達として見るなんて、辛いだけだもんな。……お前はその子のことを好きだと言った。そして話を聞く限り、その子もお前を好いているようだ。そのことについて、お前はどう思う? 嫌な気持ちになるか?」
「……いや、そんな気はしないな」
顔が熱くなるのを感じる。それを隠すように、俺も何杯めかわからない水を呷る。
「じゃあ、何も悩むことはないんじゃないか? お互いに悪いことは何もない。途中にあった後輩の話はさすがにわからんが……。少なくとも、お前とその子の間のことに、悩むことはないと思うぜ。友人として、残り半分の高校生活を共に楽しめばいいんじゃないか」
言い終わり、ポケットから財布を取り出す。ごそごそと中身を確認したのち、
「よし、今日はオレがおごってやるよ」
と、機嫌良く伝えてきた。
「……いいのか?」
「長話させてしまったからな。それに、オレもお前の話が聞けてよかった。あと、何かカッコいいことも言えたし」
嬉々としてレジへと向かう。正直、俺の方が感謝しているのだが、苦しい生活の中での諒也の提案は非常に魅力的だ。ここはありがたく払ってもらうことにする。
「あ、そうだ。最後に言っておいてやるよ」
代金を払い終え、帰路をたどっている最中に再び諒也が口を開く。ミラーに映った俺たちの姿が、迷うようにその中を彷徨っている。
「その子は、もちろんお前と仲良くしたいんだと俺は思うがな。無意味にお前に近づいているわけではないような気がする。内容とか、事の大きさは判らないが、きっと魁人にしか為せない何かがあるからこそ、お前には『不思議な子』に感じるんだと、オレは思うよ」
何かが、その子の中で空回りしている。実現させたい何かがある。オレの妄想だと思って笑い流してくれてもいい。そんなことを諒也は言った。
「まぁ、もしお前がオレの言うことを信じるのならな」
影の部分を探して諒也は歩く。振り向いたその顔は、蝕まれたように不明瞭だった。
「お前もその子の事を探ってやれ。そして踏み込んでやれ。何か興味深いものが出てくるかもよ」
そして今から遊びにでも行くかのように、諒也は軽い足取りでアパートへと帰っていった。だが、俺はその場からすぐには動かず、影に侵食されていく自分の身体を茫然と見下ろしていた。横を通り過ぎて行ったトラックが、俺を抉るように揺らす。幾つもの騒音の中で最後に浮かんだのは、ある歪んだ景色だった。それが果たして『誰のもの』なのか、俺には分からない。