人間らしい女の子
4
遥が転入してきて数日が経過した。クラスの雰囲気に、彼女がやってくる前との差は殆どなく、日常を保っていた。クラスの大半の奴らが、休み時間と授業時間の境目が無いように騒ぎ、放課後を部活動や、ゲーセンで過ごすために費やす。そんな何一つ変わらない毎日が過ぎていた。
そして遥は、いよいよ孤独の色を深めつつあった。転入初日に、クラスメイトから距離を取る態度をみせてはいたが、しばらくの間は、躊躇いがちにも遊びに誘う女子の姿が確認できた。しかし、やはりと言うべきか、遥はそれらの誘いを一蹴するがごとく全て断り、誰とも深くかかわろうとすることはなかった。過去に想い人がいたとは思えないほどに、人を拒む姿勢を見せていた。いや、大切な人と離れてしまったからこそ、かもしれない。
毎日、茶色のシンプルなブックカバーをかけた文庫本を自席で読み続け、周囲の喧騒に一瞥もくれることなく、自分の世界を保っていた。俺とは時々会話はするが、公園で語った日のように、何かについてずっと話すということは無くなっていた。俺の周りでも変わらぬ『いつも』が流れていく中で、彼女もまた、彼女にとっての『いつも』を取り戻しつつあった。
「ホラ魁人。移動教室、遅れるぜ」
次の時間は特別棟の教室での授業だった。クラスメイトに急かされ、教科書を片手に急いで教室を出る。待っていてくれた彼に軽く謝罪して、歩き出す。遥は、そんな俺の数メートル後ろを歩いていた。まるで、入学当初の俺を見ているようだ。当時の俺は、移動教室が好きではなかった。みんながゆっくりと目的の教室へ向かっている中、その間を縫うようにすり抜けていくのは辛く、寂しかったが、同時に悔しくもあった。俺にも、一緒に並んで校内を歩ける友人がいたらいいのに、と幾度となく思った。遥は決して急いで行くようなことはしないが、独りであることに変わりはなかった。恐らく文庫本が入っているのであろう、上着のポケットだけが彼女の孤独を癒している。少し視線をずらせば、その姿は嫌でも視界に入る。遥は昔の俺ではないのに、異様なまでに既視感を覚えさせる姿をそこに広げていた。
俺たちが歩く速度をほぼ同じ速度で遥もついてくる。無邪気に話題を振る友人の声が聞こえる。それは、遥の存在を意識しないことを当然と思っているように感じられ、俺は並ならぬ苦しさを覚えずにはいられなかった。
「……何読んでるんだ?」
翌日の休み時間、相変わらず石像のように固まって読書をしている遥に、俺は思い切って声をかけてみた。遥は文字に注ぎ込んでいた視線を僅かばかり俺の方に向けるが、すぐにそれは元に戻った。その表情にはやや不機嫌そうな色が見て取れる。
「何読んでるんだ?」
無視されてもくじけず、同じ質問をもう一度繰り返す。それを何度か繰り返した。
「……鬱陶しいです」
ようやく口を開いた遥が呟いたのは、低く唸るように発せられた言葉だった。数分前と比べ、不愉快に感じる気持ちが明らかに濃くなっている。
「うん、知ってる」
「じゃあ何でそんなにしつこく聞くんですか」
「……何でだろうな?」
文章を目で追いながら尋ねる遥に、俺はからかいを含んだ笑みを浮かべて答える。それにいよいよ怒りが頂点に達したのか、顔をやや赤らめて文庫本を閉じた。
「……ったく、あなたという人は……っ!」
椅子から腰を少し浮かせ、解放された右手が固く閉じられる。しかし、その拳は握られたのみであり、わなわなと震えるものの、発せられることはなかった。呆れたようにため息を吐きながら、再び椅子に腰かけた。
「そんなにわたしが読んでいる本のことが知りたいんですか?」
「まぁ、一応な。俺も読書は好きだから、ちょっとは語り合えるかもしれないし」
「……こんなのですよ」
お馴染みのブックカバーを少しだけ外し、表紙をみせてくれる。読んだことはないが、タイトルは聞いたことがあるようなライトノベルだった。
「ちょっとホラー要素の混じったお話ですよ。変な生き物に襲われて動けなくなったヒロインを男の子が助け出す、っていう。こういったファンタジーっぽい内容も交じった小説は、わたし結構好きです。現実では起こり得るはずのないことが起こるんですから」
優しい眼差しで表紙を撫でる。だいぶ読まれているのか、所々しわになったり、端っこが少し丸まってしまったりしている。しかし、慈しむように儚げなその手つきに、彼女の想いを感じた。
「ちょっと意外だわ。遥ってラノベとかも読むんだな」
「たくさんは読みませんけどね。前にも言いましたよね、わたしは特に嫌いなジャンルはないと」
「あぁ、覚えてるよ。恋愛小説が好きなのも覚えてる」
俺の答えに少し照れくさそうに遥は笑む。先ほどの怒りは既に霧散したようだった。こういった乙女っぽいところもあるのにな、と俺は心の中で思う。もう少し自分を出せば、きっとクラスにも馴染めるはずなのに。だが、本人が望まない以上、部外者の俺が口出しをするのも良くない気がする。
「……面白いと思いませんか? この小説のヒロイン、実は一度死んでしまうんですよ。色々あって生き返るんですけどね。そしてハッピーエンドを迎えるんですが」
ブックカバーをかけ直しながら、遥は言葉の続きを紡ぐ。
「…………現実はそう、うまくいかないものです」
「え、何か言ったか?」
遥自身が声のトーンを落としたのと、休み時間故の騒々しさの所為で全く聞き取れなかった。前にも同じようなことがあった気がする。
「ほら、もうすぐ授業が始まりますよ。席に戻って」
遥が促すと同時に、先生が教室に入ってくる。もはや見慣れてしまった哀しそうな表情を浮かべている遥を背に、俺は慌てて席に戻った。
最後の授業が終わり、ホームルームも終えた俺は、すぐに教室から抜け、下駄箱へ向かう。校内は、ようやく一週間の終わりを迎え、弛緩した空気が至る所に漂っていた。その空気から逃れるべく、俺は波のごとく押し寄せる人たちをかき分け、外へ出る。
俺がいつも食事をしていたベンチが目に入る。いつも細やかな癒しにしていた緑に映える芝生は、無残にも踏み荒らされている。細長い木のベンチは数人が綱渡りでもするかのようにその上に乗っかり、何やら雑談に興じている。
あのベンチがいまの俺を引き寄せたのか、俺が引き寄せられたのか。一年以上経っても答えは定かではない。ただ、俺のために用意されていたような気がする。それはあくまで俺の自己中心的な考えにすぎないのだが、あの日、あのベンチに座っていなければ、何かを願うようなこともなかったと思う。非科学的なことをあまり信じない俺が、一本の竹を前に祈ったことが、僅かだが俺の人生に色を塗った。
だが、何かが足りない気がする。それはいわば、色が塗られただけの絵である。そこには陰影もリアリティもない。作者の想いも全く籠っていない。白と黒、申し訳程度の色彩が施されただけの面で、誰かを感動させることなどできるはずがない。煌びやかに輝いている周りの世界から切り離された俺の無機質な世界を見ていると、言い知れぬ不安に苛まれる。身体じゅうを虫が這いまわっているような不快な感覚だった。
「……黒瀬君、どうしたんですか?」
そんな俺にかけられた澄んだ声。意識が浮上していくのを感じ、遥の姿を視界内に収める。
「顔色が悪いですが……保健室、行きます?」
「……いや、いいよ。大丈夫」
小さな手が、遠慮がちに背中を擦ってくれる。
「本当ですか? 別に無理しなくてもいいんですよ。何なら、保健室まで付き合います」
心配してくれてるんだなぁ、とつくづく感じる。俺の周りには、普段から雑談に付き合ってくれるような人はいても、俺の細かいところにまで配慮が行き届くような奴はいない。現に、このやりとりをしている間にもクラスメイトが何人か脇を通り過ぎて行ったが、俺の調子を気にかけてくれるような人はいなかった。やはり無理やり作ったような友人はこの程度のものなのだろう。
「ありがとう、遥。でも本当に大丈夫だから。ほら」
俺は勢いよく背筋を伸ばし、元気であることをアピールする。実際、時間が経つにつれて体調は元に戻りつつあった。
遥は訝しむ目を向けてきたが、すぐに安心したような、でもどこか呆れるような顔つきになり、
「じゃ、帰りましょうか」
とだけ言ってきた。
「前とは逆のシチュエーションになっちゃったな」
「前……というと、わたしの昔の話をしたときですね。確かに、そうですね」
苦笑いを浮かべた遥が、俺との開いた距離を埋めるべく小走りになる。
「遥は、週末は何してるんだっけ?」
「わたしは……特にこれといってはしてませんね。読書以外に趣味があるわけでもありませんし……。本読むか、テレビ見るか、適当にネットを彷徨ってるかのどれかですね」
遥が転入してきてから二回目の休日を迎えることになる。明日の到来が近いことを告げる午後五時の音楽が市内に響き渡る。
「遊びに行くとかはしないのか?」
「残酷なことを訊きますね、黒瀬君は」
自嘲の混じったため息を吐き、重々しく口を開く。
「友達とか、全くいないんですから、行くも何もないです」
やけくそに聞こえた。ただ、その苦しさは俺にも判る。結構つらいんですから言わせないで下さいよ、と拗ねたような声で遥は言う。
「いや、悪い。でも、今日ちょっと思ってな」
何をですか? と小首を傾げて遥は問う。
「余計なお世話かもしれんが、お前はもっとオープンになれば友人とかすぐにできるんじゃないか、ってな。確かに趣味は読書だけかもしれんけど、うちのクラスにだって本が好きなやつはいるし、ほかのクラス、学年まで視野を広げたら、ごまんといる。もっと雰囲気を柔らかくすれば、それこそ休日に一緒に遊びに行ける友達ができると思うぞ」
それに美人だし、と心の中で付け加えておく。セクハラ扱いされたら辛いし、何より恥ずかしい。口には出さずにとどめておいた。
遥は何やら考えるように俯いている。顎に軽く指を当て、無言で地面を睨んでいる。
「それにさ、休み時間に俺が話しかけた時、お前は怒っただろ? あれに関して、わざとやったのは認めるし、すまなかったと思っている。同じことされたら、俺だって多分怒るしな。でも、あの時のお前は、いつも周りに流されずに黙っているお前じゃなかった。何というか、こんな言い方は失礼極まりないけど、人間の女の子っぽかったよ。これまでのお前はなんとなく感情を隠して生きている、って感じだった。我慢してるような気がしてた。だから、そういうところも含めて、もっと遥らしさを出していけば、幾らかは今の生活を楽しめるようになるんじゃないかな」
途中で何度か、遥が口を挟みたそうに顔を上げたが、俺は止めることなく言い続けた。流水のようにどんどん言葉があふれ出てきた。一度止めてしまうと、きっと遥に栓をされる。それは小さな恐怖心だったかもしれない。
「……そうですか……」
唸るように呟く。公園の前に差し掛かった。
「折角言ってくれた黒瀬君には申し訳ないですが、確かに余計なお世話ですね。わたしは遊びに行く相手はいないと言いましたが、遊びに行く相手が欲しいとは言っていません。わたしは今の人生に満足は……正直言ってしていませんが、それなりの人生を送れていると自分で思っています。何個かの心残りはありますが、今を生きれています。それに、女の子っぽく生きようとも、天月遥らしく生きようとも考えていません。特に後者に関しては、わたしらしさって何だろうな、って常々疑問に思っているぐらいです。ですから……」
ずっと俯いていた顔を上げ、俺と目を合わせる。
「ですから、わたしのことはあまり気にせず、黒瀬君は黒瀬君の生き方を貫いてください。前にも言いましたよね、あなたの、特別な人を見つけてください」
黒髪を揺らし、笑顔を浮かべる。公園のベンチは、薄暗く照らされた世界の中に呑みこまれるように消えていた。
「特別な人って――」
「それは教えられませんよ」
いたずらっぽく言う。
「わたしにとって黒瀬君は特別です。友達のいないわたしに唯一話しかけてくれる、特別な人です。黒瀬君のことは、友人だと思っていますよ」
屈託のない笑顔でそう言われる。少し背中がかゆくなる思いがしたが、必死に耐え、ありがと、と返す。
それから俺と遥が別れる場所まで、特に何かを話すことなく歩いた。日は徐々に長くなっているが、世界が暗くなるのを早く感じるのに変わりはない。
いっそのこと、俺の願いを叶える力で遥に友人を持たせてやろうか、とも考えた。だが、それはただの自己満足に過ぎない。遥は友達なんていらない、みたいなことを口走っていたが、その前につらい、と零してしまっている。心の中では、少しぐらいは話せる、友人と呼べるものが欲しいと思っているのかもしれない。
少し考えたかった。もしかしたら最終的に能力に頼ることになるかもしれないが、それは最終手段と言うよりは、禁じ手だ。彼女自身の力で楽しい日々を送ってもらう方法を考えたい。俺の人生のような、味気ない日々を送ってほしくないから。
風呂から上がり、濡れた髪を適当にタオルで擦りながら、冷蔵庫の扉を開ける。食材は、米と僅かばかりの野菜、安売りで買った肉が入っているだけだ。風呂に入る前に冷やしておいた麦茶を一気に呷り、火照った体を冷やす。澄んだ感覚が体中に沁み渡っていくのを感じながら、俺は乱雑に放り出された座布団を手繰り寄せ、テレビの電源を点ける。
今日も代わり映えのしないバラエティー番組一覧を眺めながら、何して暇をつぶそう、と考えていた時だった。
『――――』
不意に何かが聞こえたような気がした。それは良く言えば小鳥が囀るような小さな声、悪く言えば、気味の悪い囁き声だった。そして、少女の声だった。
『……れ…………も、ょ……くね。……れ、……げる』
言葉は途切れ途切れでうまく聞き取ることはできないが、とても弾んでいた。周囲のノイズらしき音が邪魔をしてはっきりとは分からないが、笑い声も聞こえるような気がする。
「……何だ、これ……」
以前にも同じような現象が起こった。あれは遥と初めて会った日。その時とほぼ同じ声だ。いや、今はもう聞こえなくなったが、改めて考え直すと、全く同じである気もする。
もう一度お茶を飲み、一息吐く。前回は疲れの所為だとして片づけたが、二度も同じような出来事があると、不思議に思わずにはいられない。もしかすると、能力の代償のようなものなのだろうか。だが、仮にそうだとしても、俺にできることは何もない。周りにこの秘密を明かしている人はいない。明かす予定もない。
「……」
いや、遥はどうだろう。遥は俺のことについて、何かしら知っていそうだ。いつか、話せるときが来たら、打ち明けてみてもいいかもしれない。遥は、俺の事を友達だと言ってくれた。まだ出会って僅かな時間しか経っていないが、俺のことを本当の意味で受け入れてくれた。そこに俺は、言いようのない安堵感を覚えている。
コンビニで買ってきた惣菜パンの封を開け、大きくかぶりつく。食べ慣れた安い味も、今日だけはやけに美味く感じた。
だが、食べ終わった後に気づいた。
静かに拍動を続けていた俺の心臓が、熱く熱く、燃え上がるようにその勢いを増していた。