特別な人
3
「この度、親の仕事の都合でここに来たため転入することになりました、天月遥です。よろしくお願いします」
数日後、なぜか遥は、俺の通う学校に転入することになった。俺のこの能力のことに関与しているのではないかと勝手に思い、正直なところ、彼女に対しての小さな興味は今も薄れていない。だが、突然のかわいい女子の転入に色めき立つ男連中の中には混じらず、俺は自席で身じろぎひとつせずにいた。今日は私服ではなく、学校指定の制服を着用しているために以前とは異なる印象を受けるが、紛うこと無きあの天月遥だった。壇上に立つ彼女は初めて会った日と変わらず、淡々と自己紹介をやってのけた。先生に指定された席へ向かう途中、一瞬だけ目が合ったような気がしたが、遥は俺の存在に気づいていないのか特に何も反応することなく、ゆっくりと歩いて通り過ぎていった。
「あの子、かわいいなっ。後で話しかけてみようぜ、魁人。……魁人?」
隣に座る男が小声で誘ってくる。しかし、俺の様子が変なのに気付いたのか、すぐに心配そうな表情に変わる。
「あ、あぁ、そうだな」
焦るような気持ちで満ちている心を悟られぬよう、必死に平静を繕って返答する。ちらりと遥の席に視線を向けると、早速、周りの席の女子たちから挨拶されている最中だった。だが、当の本人はというと、それに答えるわけではなく、対応に困ったように苦笑を浮かべているだけだった。きっと、放課後カラオケに行こ、とか半ば強引に誘われているに違いない。雰囲気から考えるに、遥は、みんなと騒いだりするのはあまり得意ではないような気がした。全く、これだからうちの女どもは……と、囲まれている遥を憐れに思って嘆息する。
チャイムが鳴ってもしばらく、喧騒は治まらなかった。一時間目の授業の担任教師が怒鳴るまで、それは続いた。
昼休みまでは、遥はクラスの面々に囲まれていた。俺も、その渦中に入らないか、と数人から誘いを受けたが、全て断っていた。しかし、熱しやすく冷めやすい奴らは、すぐに遥に対する興味を失った。遥が素っ気ない女であるが故に自分たちの要望に応えてくれないことに対して、不満を覚えたのだろう。五時間目が終わるころには、遥は席で静かに読書をするだけの、一人ぼっちな少女になっていた。俺を最初に誘ってきた隣の席の男も話しかけに行ったみたいだが、直後の授業中に、「あの女、つまんねぇわ」と囁いてきていた。
授業中も、遥はずっと静かに授業を聞いていた。生徒の笑い声と教師の怒鳴り声が混じり合う頭の痛くなる授業でも、自分だけはそこから切り離された場所にいるかのように、澄ました表情を浮かべていた。
そうしていろいろなことが起こった時間は流れ、放課後を迎えた。みんながそれぞれの時間を過ごす中で、遥は、ブックカバーをかけた文庫本の字をずっと追っていた。十五分も経つと、教室内には俺と遥以外、誰もいなくなる。それでも彼女は、本の中の自分の世界に入り浸っているようだった。
「なぁ遥」
静かな教室で、ページを捲る音と俺の声が重なる。俺は、この時をずっと待っていた。みんながいる中で奇妙な会話をするのは、少々気がひける。一度、二人でゆっくり話し合いたかったのだ。
遥も、俺の声が届くなり栞を取り出して挟んだ。静かに本を閉じ、俺の方を向く。
「なんでしょうか」
無表情な瞳に見つめられる。そこに僅かな躊躇いを覚えつつも、問いかける。
「今更ではあると思うが、お前は俺のことをずっと付け回していた、あの天月遥なんだよな? 間違ってないよな?」
「当たり前じゃないですか。それがどうしたんですか、黒瀬魁人君」
この歳で、一たす一が二であることを確認した後のような視線を向けられる。
「いや、それにしては俺を見た時の反応が素っ気ないものだったからな。ずっと追いかけていた奴が同じクラスにいるのに全く驚かないもんだから、もしかしたら同姓同名で、容姿も似た人なのかなーって考えてたんだ」
俺がそう告白すると、遥はようやく、微かではあるが可笑しそうに口元を綻ばせて笑った。
「何ですか、それは。『天月』って珍しい名字ですし、髪型とか全く変えてませんよ。考え過ぎです」
きっと日本中を探しても数えるほどしかいません、と遥は一呼吸吐いてから言う。
改めて俺は彼女を見る。教室内に降り注いでいる陽光に、煌めく長髪が揺れている。
「黒瀬君、話しかけてくれたついでに頼みたいことがあるのですが」
そこで遥は少しだけ声のトーンを落とした。何だろう、と俺も気を引き締める。
「この学校の案内をしてくれませんか?」
俺は帰る準備だけ整えて、遥を待つ。設備の案内を受けていないのか、と俺が尋ねると「あの時はペースが速すぎてゆっくり見られなかった」との旨を伝えてきた。俺も、学内で教師が生徒を案内するような姿など全く確認していなかったので、きっと適当に終わらせたのだろう。急な転入生に、教師が多くの時間を割くとは思えない。
「お待たせしました。じゃあ、行きましょうか」
学校指定の鞄を持ち、遥は俺の横に並んで歩く。一部の教室には、わざわざ残ってお喋りに興じている女子や、逆に、真面目な顔つきでノートを開いている生徒もいた。それらから、なんとなくこの学校の雰囲気を感じ取ってもらいたいと思い、ゆっくりと廊下を歩く。俺に添うかたちで歩いている遥の足も、自然と遅くなる。
「遥は、ここがどんな学校か、って言うのは大体わかってるのか?」
遥は学校の敷地には侵入しているが、校舎の中までは入っていないはずだ。確認のために訊いたのだが、遥はすぐに首を縦に振った。
「はい。ですが、本当に何となく、です。別段、優秀な進学実績を誇っているわけでもなければ、就職実績があるわけでもない。一部の部活がちょっと良い結果を残しているくらいで、怠惰に高校三年間を過ごそうとするような人たちが来るところですよね?」
後半は小声だった。さすがに不躾だと思ったのだろう。
「……ま、そんなところだよ」
自分の通っている学校を貶されると、いくら愛着が無くても多少は怒りの気持ちが込み上げてくるものだが、事実なので何も言い返さない。ちょうど今も、ファンデーションを派手に塗りたくったような頬をした女子生徒たちが、甲高い声をあげながら過ぎていった。この学校では、遥のような、清楚で化粧っ気のない生徒の方が少ない。その中には、なぜここに来たのだろうと疑問に思うような秀才もおり、そんな人物からはとても地味な印象を受けるのだが、遥からは全く感じ取れなかった。磨かなければ光らないようなものではなく、磨かずとも美しい。それが天月遥という少女だ、と思った。
「でも、校舎の中に入ったことはなかったんです。昨日、先生方から校内の簡単な案内を受けた時が初めてでした。外から見ていた時は、結構汚れてるのかな、とか考えていたんですが、案外そうじゃなかったですね。想像以上に綺麗です」
教室の中に並ぶ机や、手を伸ばせば簡単に手がつくであろう壁を見つめながら、優しげな声と共に歩く。俺から言わせれば、決して綺麗とは思えないのだが、遥にはそう映るのだろうか。
俺たちの教室がある、本館と呼ばれる校舎は三階建てで、そこは只々、無感動な教室が並んでいるだけだ。俺たち二年生は二階を、一年生は一階、そして三年生は三階、というシンプルな配置になっている。ちなみに、家庭科室や音楽室といった特別教室は、特別棟と呼ばれる別の校舎にある。今頃、吹奏楽部が奏でる重い音を吐き出していることだろう。
「……とまぁ、俺たちの教室の周りの案内はこれぐらいだ。ほかのところにも行ってみるか?」
俺が訊くと、はい、と彼女の声が返ってくる。
特別棟へと向かうべく中庭を歩いていると、以前のあの言葉について尋ねなければならなかったんだな、とふと思いだす。今なら周りに人もいない。
「なぁ、遥――」
はい? と遥は俺に顔を向ける。しかし、それを見て、不覚にも俺は次の言葉を呑みこんでしまった。遥は、純粋に、心から今の状況を楽しんでいるような笑みを浮かべていた。本人は決して表に出しているつもりはないのだろう、それは若干控えめなように映るが、少なくともクラスでは一度も見せていなかった表情だった。学校をまわることがそんなに楽しいのだろうか、それともほかに理由があるのだろうか。ただ、場違いな質問で彼女の笑顔を崩すほどの勇気を、俺は持ち合わせていなかった。
「黒瀬君? どうしたんですか?」
笑みの傍らに不思議に思う表情をのぞかせ、俺を見る。
「いや……何でもない」
遥の視線から逃げるように顔を逸らす。腑に落ちないと言いたげに首を傾げている遥に見つからないように、そっと諦めのため息を吐く。前方を見やると、俺を置いて先に進み始めた遥の背中が目に入った。その後姿からは、入学式を終えた後の小学生のようなあどけない雰囲気が感じ取れた。俺はもう一度息を吐き、駆け足で、ほんのりオレンジ色に染まった彼女の小さな背中を追いかけた。
特別棟からは、今日も運動部とは違う元気良さで活動する文化系クラブの声が聞こえてくる。吹奏楽部の楽器の音がその代表になるのだが、ほかにも美術部や家庭科部、理科部などが活動をしているはずだ。
特別棟は本館に比べると、二階建てで決して大きくはない。精々、その半分といったところだろうか。除け者にされたかのように、数多の部活が狭い空間を取り合っているのだ。
「そういえば、遥は何か部活に入る予定はあるのか? 吹奏楽とか、テニスとか」
言いながら、まっすぐに背筋を伸ばしてトランペットを吹く遥の姿や、テニスウェアを纏って空を舞う姿を想像する。それらはすぐに像を為し、非常に美しく浮かび上がった。
遥は少し思案するそぶりを見せたが、すぐに顔を上げて「いえ、その予定はないですね」と否定した。
「触ったことのある楽器はリコーダーとトライアングルぐらいですし、運動は嫌いじゃありませんが、部活に入ってまでやりたいとは思わないんですよ、わたし」
そっか、と簡単に返す。
「今はいろんな部活が活動してると思うが……。一応見ていくか? 興味がないならもう帰ろうかなと思うんだけど」
「……折角ですし、教室だけは見ておきたいです」
俺は頷き、校舎の中に入る。
本館と変わらぬ、クリーム色が黒ずんだ色をしている壁を両手に進む。美術室、理科室、技術室が一階、家庭科室や音楽室、パソコンルームが二階に位置している。
狭い校舎内に高く響く合奏の音。理科部の謎めいた実験結果のレポート。家庭科部の女子たちの黄色い声。それらを一身に受け、俺たちは歩く。
「ここの吹奏楽部は賞とか貰ったこと、あるんですか?」
少し声を張って遥は尋ねる。
「いや、特にそんなことは聞かないな。文化祭とか定期演奏会では合奏してるけど、コンクールではあんまり勝ち進んではいないようだ」
微かな記憶をたどりつつ、俺は簡単に説明する。俺には吹奏楽の知識はないので専門的なことはわからないが、幼いころから吹奏楽を嗜んできたというある部員の話によると、部内の人間関係があまりよろしくないらしく、それが成長しない原因だとのことだった。吹奏楽は技術だけじゃ駄目だ、やはり団結力がないと上手な演奏はできない。その女子は、そう熱く語っていた。
「なるほど……。わたしにはそうは聴こえませんけどね」
遥も俺と同様らしく、流れてくる旋律に身を委ねるように耳を傾けていた。小難しいことは考えずに、音を楽しめるというのは非常に気分のいいものだ。音にもさまざまな音があるが、聴いていて心が安らぐ音というのは、ごまんとある。気づいていないだけで、身近にも掛け替えのない存在になるものがきっとあるはずだ。
「じゃ、次行きましょうか、黒瀬く――」
「あれっ? 先輩、こんなところでどうしたんですか?」
続きを促す遥の声を遮って、聞き覚えのある明るい声が響く。その方を振り返ると、両手にスーパーの袋を持った小柄な女の子が立っていた。肩が隠れるくらいの位置でカットされた淡く茶色がかった髪が、彼女が静止したときの反動で揺れ、大きな栗色の瞳が俺を映している。袋の中にはニンジンや玉ねぎ、ジャガイモなどの食材がごろごろと入っており、もう片方の袋には、なぜかクッキーの材料や型抜きが入っていた。
「先輩? おーい、せんぱーい! 聞こえてますかー? もしもーし!」
遥よりもさらに五センチほど小さい身長を目いっぱい伸ばし、少女は俺に呼びかけてくる。大きな声で休む間もなく叫んでくるので耳が痛い。もはや体験し慣れたシチュエーションであるため、俺はやれやれといった表情でその声を制した。
「わかってるわかってる、聞こえてるから。そんなに呼びかけてくるな、璃子」
なんだ、聞こえてるじゃないですか、と背伸びしていた少女――宮下璃子――は重そうな袋を揺らし、ぱたんと音を立てて浮かせていた踵を床に戻した。
璃子は、俺の一つ下の後輩だ。両手に持っている袋の中身からも想像がつく通り、料理が得意ということで、家庭科部に所属している。入学してからまだ二か月も経っていない彼女は、先輩である俺に臆することなく、なぜか執拗に関わろうとしてくる。能力の所為かと初めは思ったが、ほかの後輩たちは俺に興味など全く示さない。璃子が同級生に俺の話をしているのを偶然見かけたことがあるのだが、相手の子は「誰それ?」と言いたげな視線を彼女に向けていた。つまり、俺にとって璃子は、「謎の後輩」という存在なのだ。
「それで? 先輩はどうしてこんなところに来てるんです? ……まさか、家庭科部に入部ですか!? 先輩なら大歓迎ですよっ!」
棟内に響き渡る全ての音声を凝縮させたような大声で話しながら、璃子は目を輝かせる。こいつはいつも元気だなー、と半ば呆れながら、やんわりとした対応で落ち着かせる。
「いや、そんなんじゃないから。俺が料理とかできると思うか? 仮にできてたとしたら、もっと早くに入ってるよ」
俺が答えると、璃子は「やっぱり」と苦笑して、やや声のボリュームを落として問う。
「でも、だったら本当にどうして? あと、そっちの女性は? 初めて見る方だと思うんですけど……」
突然の来訪者に困惑している様子の遥に視線を向けて、璃子は尋ねる。折角なので、こいつに紹介しておくのも良いかもしれない。遥としても、後輩ができるのは悪いことではないはずだし、男の俺にはできないことも多くある。その時に璃子は、大きな力になってくれるだろう。
「彼女は天月遥。今日転入してきて、俺がいま学校の案内をしてるんだよ。その過程で、この校舎に来たってわけ。あ、言っとくけど、彼女とかじゃ――」
「え、もしかして、彼女さんですか!?」
言おうとした矢先に、璃子の高い声が邪魔をする。
「……お前は人の話を最後まで聞くことを学ぼうな」
ため息を吐きながら、頭を軽く叩く。あたっ、とオーバーリアクションを示した璃子はいたずらっぽく笑みを浮かべて俺を見上げてきた。
「わたしたちはそんな関係じゃないですよ。改めまして、天月遥といいます。よろしくお願いしますね、えっと……宮下さん」
一歩前に出て遥は手を差し出す。璃子は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐにそれを崩し、その手を握った。
「天月…………天月遥先輩ですね。宮下璃子です。よろしくお願いします」
二人の間には、普通の先輩と後輩が放つ空気が流れているように感じた。これから過ごす数年という時間を共に過ごす誓いの印として、二人は手を握り合っている。しかし、後になって考えれば、この時、璃子は既に気づいていたのかもしれない。遥の名を呼ぶときに一瞬詰まったのが、その証拠と言えるだろう。
「おっ……これ、結構重いな。こんなのをずっと持ってきたのか?」
「ふふっ、こう見えても私、体力はありますからね。これぐらい持たされるのは日常茶飯事ですし。手伝ってくれてありがとうございますね、先輩方」
その後、僅かな距離ではあるが、璃子の荷物運びを二人で手伝うことになった。華奢な体で荷物を運ぶ彼女を置き去りにするのは少し憚られた。それに、いくら生意気な後輩だとしても、年下の女の子であるということに変わりはない。先輩風を吹かしたいと思った俺の我儘も、そこには含まれている。
しかし、その袋は俺の腕を縛り付けるような重さで、しばらくはまともに歩くこともできなかった。果たして、あの小さな体のどこに、これを数十分持って歩くだけの力が宿っているというのか。俺が疑問に思っている最中、璃子は俺を見て小馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。
先頭を比較的軽い方の袋を持った遥、俺を挟んで、しんがりは璃子という並びで特別棟を進む。遥は両手でビニール袋を持ってはいるが、その足取りは軽く、俺を置いてどんどん先へ行ってしまう。やがて階段へと彼女の姿は消え、橙色の霞んだ光だけがその場所から漏れた。
「ホラ先輩、急いで!」
後ろから急かされ、急ぎ足で階段へと向かい、その勢いのまま数段昇る。
「……うわっ!」
踊り場の上に備え付けられている窓から、鋭い光が容赦なく差し込んでいた。それを真正面から受けてしまい、思わず目を背後に向ける。その時に、後ろの璃子の姿が目に入ってしまった。
「……え?」
俺が上げた声は、部活動の音によって消されるほどに小さく、また呆けたようなものだった。
璃子が、俺を貫くような眼差しで睨んでいた。しかし、その標的は俺ではない。璃子の瞳には、俺など映っていない。まさに、文字の如く俺を射抜いて、その先を――俺と同じく眩しさのために目のあたりを片方の手で覆っている遥の姿を――捉えていた。
遥がそのことに気づいている様子はない。日光から逃れようと足早に通りすぎたので、すぐに俺の視界からも消えた。璃子はそれでも、その険しい表情を崩そうとはしなかった。間もなく太陽が雲に隠れ、明るさは失われてゆく。橙に染められていた世界は眩い色彩を失うが、その代わりの明りが戻ってくる。ようやく俺の視線を感じ取った璃子は慌てながら破顔し、いつもの天真爛漫な笑顔へと変化させた。その後は二度としていつもと異なる表情を見せることはなく、俺が知る璃子と何ら変わらなかった。だが、俺の記憶を荒らすかのように彼女は蝕みを続ける。笑顔を浮かべていても、幻がそれを塗り替えているように、俺には感じられた。
璃子を家庭科室まで送った後、俺たちは既に人の影がまばらになった校内を、何をするでもなく歩いていた。本館まで戻ってくると、先ほどまで話に花を咲かせていた女子たちも姿を消しており、誰かが閉め忘れた窓から入り込んでいる風が、色の抜けたカーテンをふんわりと揺らしていた。
「あの子……宮下さんって、元気で面白そうな子ですね」
彼女の明るい笑顔を思い浮かべているのか、遥は温和な表情を浮かべてそう口にする。
「あ、あぁ……。そうだな」
しかし、先ほどの表情を見てしまった俺としては、複雑な気持ちだった。あのような璃子の表情は始めて見た。常に笑顔を振りまいているような奴なので、きっとクラスでも部活でも、周りを和ませる存在であるのだろう。だから、璃子の怖い顔など想像したこともなかった。
「元気なのは良いことなんだけどな。いっつもあの調子だから、ずっと話していると疲れてくるんだよ。なんていうか……どれだけ遊んでも吠えるのを止めない子犬みたいでな」
「……子犬、ですか」
俺は、彼女とは目を合わせずにそう続ける。それに同意するように、遥はクスリと笑った。
「わたしは……人と接するのがあまり得意ではないのですが、なぜかあの子となら、少しは仲良くなれそうな気がします。黒瀬君の言うとおり、子犬みたいですね。つい頭を撫でてしまいたくなるような」
遥の、心の底から璃子との出会いを喜んでいる姿を見ると、それに水は差せなかった。俺が何も答えずに黙っていると、遥は少し歩く速度を遅めた。窓から下を覗けば、黒みがかった中庭が見える。風が吹くと水が流れるように形を変える芝生を眺めながら、遥はまさにその小さな風のごとく囁いた。
「あの子とは仲良くなれそうな……そんな気がするんですよ」
繰り返しつぶやかれた「仲良くなれそう」。遥にとって璃子はどのような存在になったのだろうか。出会ってからまだ数日しか経っていないこの少女は、すでに俺の知らない世界へと誘われているような気がしてならなかった。
「今日はわざわざありがとうございました」
二人で並んで校門まで歩いていくと、遥はそう丁寧にお辞儀をした。
「いや、いいって。気にすんな。遥は電車通学か?」
「いえ、わたしは歩きです。大体三十分ぐらいかかりますね。黒瀬君は?」
「俺も歩きだ、……っていうか、知ってるんだろ? ずっとストーキングしてたんだから」
「……まぁ、そうですね。それよりもストーキングって何ですか、わたしはそんなことした記憶はありませんよ」
「間違ってはないと思うんだがな」
遥は苦笑を浮かべている。試しに、と俺は冗談を言ってみたのだが、案外遥は快く対応してくれた。遥の事だから、冷たい表情で「はい? 何言ってるんですか。馬鹿ですか?」とか言われたらどうしよう、と内心では少しおびえていた分、安心した。
「そんなことよりも、黒瀬君。ついでなので、途中までで良いですから、町の案内もしてくれませんか?」
「まぁいいけど。お前の家ってどっちの方向なんだ?」
遥が指さす方は、俺の家の方角とほぼ同じった。恐らく、途中まで一緒に帰ることになるだろう。
「わかった。じゃあ途中まで案内するよ。まぁ、大した物はないけどな」
遥と並んで歩く。俺には、過去に彼女がいたことはない。そのため、小説などで得た、女性への気遣いなどを思い出しながら、ゆっくり歩く。ふと思ったのだが、遥に彼氏がいたことはあったのだろうか。風貌は、そこいらの女子高生とは比べ物にならない程に美しいが、性格や他人との接し方に難がある。一目ぼれをすることはあっても、内面を知って、すぐに冷めてしまうのではないだろうか。
「なぁ遥。お前って、彼氏とかいたことあんのか?」
遥の眉がぴくりと小さく動く。そして、少しだけ顔の角度を下げた。
何気なく尋ねたことだったが、遥は俺の想像以上に表情を曇らせた。
「あ、いや……訊いちゃいけないことだったか。スマン……」
俺が慌てて謝ると、遥は瞳をわずかに持ち上げた。そこには優しさが、けれどもそれ以上の寂しさが浮かんでいた。
「いえ、別に訊いちゃいけない、ってことは……ないんですが。その……ちょっと説明が面倒でして」
表情は相変わらず冴えないが、それは「聞いてほしい」と言っているように俺には思えた。勘違いでないことを祈りつつ、俺は話を続ける。
「それでもいいから。ゆっくりでいいし、話せる範囲で教えてほしい」
そうですか、と安心したように顔を綻ばせる。
「結論を初めに言ってしまいますと、わたしに彼氏がいたことはあります」
ほぉ、と俺は少し驚き混じりの相槌を返す。しかし、口は挟まずに、続きを促す。
「その彼とは、中学二年生の時に恋仲になったんです。わたしは、その時も今と変わらず、良く言えば穏やか、悪く言えば周囲に無関心な友達甲斐の無い女子で、周りから浮いていました。いじめられている、とかはなかったんですが、校外学習の時のバスで隣の席の人がなかなか決まらなかったり、席替えで同じ班になると嫌な顔をされたり、と傍から見れば、決して充実しているとは言えない学校生活だったんです。でも、わたし自身はそれを苦には思いませんでした。わたしの唯一の趣味が読書でして、本を読んでいれば現実からも逃避できて、その世界の主人公になりきることができました。わたしにとっては、小説の中がわたしの本当の世界でした」
俺も読書は好きだ。理由は遥とそう変わらない。一時的とはいえ、現実のことを忘れることができる。自分が主人公になれるのは、俺にとっても小説の世界だけだった。
「恋愛小説も多く読みましたよ。特にわたしは嫌いなジャンルはないので。イケメンな主人公のセリフにわたしがときめくことも……多くはなかったですけど、ありました。けれど、現実の恋には特に興味が持てなかったんです。小説で、二人が順調に恋を育んでいくのは、それが設定だから。設定が無い、ゼロから始める現実の恋には、少し怖く思う気持ちがあったんです。クラスでもカップルが成立したことは何度もありましたが、できては別れを何組もが繰り返していました」
中学生の恋は、なかなかうまくいかないものなのだろう。経済的な問題や、進路の問題など、若い恋人を悩ますには十分すぎる要素がある。
「けれど、そんなわたしに話しかけてきた男子がいたんです。予想できると思いますが、それまで、わたしは男子とはもちろん、クラスメイトの誰ともろくな会話をしたことがありませんでした。その子も読書が好きで、わたしがどんな本を読んでいるのか知りたい、と。……確か、初めて話しかけられたとき、そんなことを言われたと思います」
「その時は、どうしたんだ?」
「その男子に対して、特別な感情を抱いていたわけでもないので、いつも通り、普通に接しました。ほかの人と接するときと同じように。まぁ、かなり冷たかったと思いますよ。この子も、きっと出来心でわたしに話しかけてきたのだろう、だから、すぐにわたしに対する関心など消えるに決まってる……。そう思い込んでいました」
当時を思い出すように、薄暗い空を見上げながら話す。後ろから来ては追い越していく車のヘッドライトが、彼女の頬を白く照らす。
「でも、その子は何度も何度もわたしに話しかけてきたんです。話題は些細なことがほとんどでした。わたしと話すためだけに見つけ出してきたような、無理やりな話題を振ってきたこともありました。そのうちに……何といいますか……。わたしの中の彼に対する認識が変わり始めたんですね。少しずつ、彼と話すのが楽しみになってきてしまったんです」
人というのは単純なものです、と遥は少し悔しそうに笑う。
「それから間もなく、彼がわたしに告白してきました。わたしは少し迷いましたが、結果的にオッケーし、お付き合いをすることになりました。それは一年ほど続いたのですが……。中三の夏に、ある事件が起きたんです」
「……事件?」
ふと聞こえてきた不穏な単語に、思わず俺は聞き返す。遥はやや苦しそうにしながらも、言葉を選ぶように、もしくは自らの傷を抉らないようにか、ゆっくりと話し出した。
「夏の日に、お祭りに行ったんです。七夕が近くなったら行われる、『七夕祭』」
七夕祭とは、この町で毎年行われる夏祭りだ。花火の打ち上げはもちろん、屋台も結構な数が軒を連ねる。
「……ん? でもお前、親の用事で引っ越してきたって……」
「あれは嘘です。詳しくはお話しできませんが、適当に述べた理由にすぎません」
まぁ、言われてみれば納得だ。ずっと視線を受けていたのだから、急にこの町に来たというわけではないはずだ。
「そのことはまた何れ……。今はその話ではなくてですね」
「……あぁ、話の腰を折ってすまなかった。続けてくれ」
こくん、と遥は頷き、再び小さく口を動かす。
「じゃあ、続けますね。……もちろん、七夕祭には彼と一緒に行きました。過去に読んだ小説にも、恋人同士がお祭りに行って屋台を楽しんだり、花火を眺めながら静かに過ごしたり……そんなシーンがあったので、わたしは密かに期待していたんです。結果的に、彼は期待にきちんと応えてくれました。そしてその後、高台に上ってみよう、という話になったのですが……」
祭り会場から少し歩くと、見晴らしの良い高台がある。そこは、天気の良い日に行くと満天の星空が見える、恰好のデートスポットとなっていた。
「その途中の坂道でですね――」
最後の部分が聞き取れなかった。他校の男子生徒たちが、遥のか細い声を掻き消すほど大きな笑い声を立てながら横を過ぎていったからだ。夜の静寂が再び訪れた時には、遥は既にその口を閉ざしてしまっていた。きつく真一文字に結ばれたその唇は、これ以上は話さない、という意思表示のように見えた。
「……ほんと……後悔してもしきれない――けほっ」
悲しそうな顔を虚空に向けた時、遥は突如苦しそうに体をくの字に折った。それから、何度も咳き込む。
「お、おい、大丈夫か」
軽く背中をさすってやる。しばらくして咳は止まったが、遥は苦しそうに荒い呼吸を繰り返しながら、俺を見上げてきた。
「……は、はい。ちょっと古傷が痛みまして……。こんなこと、誰かに話すことなんてずっとありませんでしたから……」
俺の顔を前にして、一層辛そうな色を濃くさせて答える。
「とりあえず、何か飲み物でも飲むか?」
「……よろしくお願いします」
遥が取り出した百円玉を受け取り、俺は近くの自動販売機へと走った。
児童公園のベンチに二人で座る。俺が購入してきたスポーツ飲料を受け取ると、少し落ち着きたいから、と遥の方から誘ってきたのだ。
闇とも言えぬ、奇妙な薄暗さを保った黒が、子どもたちのいなくなった公園を包み込んでいる。明るい時間帯なら、小学校から解放されたちびっ子たちの秘密基地のような場所になっていることだろう。しかし、その賑やかさを失った公園は、不気味なほどに孤独を感じる場所だった。
「……静か、ですね」
車も多くは通らない道に面している公園だ。灯りも、今にも切れそうな電灯が二つあるのみで、それが一層寂しさと虚無さを際立たせている。俺たちが呼吸をする音と、時々遥が口にする缶ジュースの音がするだけだ。みんなが普段生活している場から隔離された世界のようで、俺たち二人しか存在していない気さえする。
「あぁ、そうだな」
夜空を見上げながら頷く。今日の空には、少しではあるが、星が確認できた。遥がその時見たという星空は、果たしてどのようなものだったのだろうか。彼氏と見ているのだから、きっと天も味方してくれていたことだろう。
「逆にお聞きしますが、黒瀬君に彼女がいたことはありますか?」
「ないよ。何でそんなこと訊くんだ?」
「単なる興味です。それに、わたしは彼についていろいろ話したんです。黒瀬君もお話しするのがマナーかなと思いまして」
「期待に応えられなくて悪いな」
いえ、と遥は首を振る。
「では、彼女が欲しいと思ったことはありますか?」
ない、と言えば嘘になる。しかし、能力を手に入れるまでは、俺は完全に孤独な人間だった。そんな俺と恋仲になってくれるような人はおろか、友人と呼べるような異性もいなかった。だから、諦めていた、というのが正直なところだろう。
「ちょっと積極的になってみたり、学校以外での出会いを求めてバイトとかも始めてみたりしたけど、どれも空回り。正直、学内に興味を持てるような女子もいないしさ、今は考えないようにしてるよ」
「そうですか」
遥が頷き、沈黙が再び落ちる。仄かな光が俺たちを包み込んで照らしている。月光ほどに自然な灯りではなかったが、どこか安心できる光だった。
「では……もし理想的な女の子に出会ったら、告白とか、したりしますか?」
暫し思案する。まず、そんな子が俺の前に現れるだろうか。心許ない光が、生きるように彼女の瞳の中で揺れ動いていた。
「わかんないな。でも……するかもしれない」
俺がそう答えると、遥はベンチから立ち上がった。公園のごみ箱に空き缶を捨て、俺を横目でちらっと見てから言う。
「心配しなくても、黒瀬君は良い人です。たくさん話せて、わたしは楽しかったです。今はあなたの近くにいなくても、あなたにとって特別な人は、この世界のどこかにいます。頑張って、その人と巡りあってください」
そう微笑を携えて告げ、「今日はありがとうございました」と一人で歩きだす。俺はその背中を追うべきだったのかもしれないが、華奢な背中は俺から逃れるように歩みを速め、間もなくそれは駆け足に変わった。残された俺は、先ほどの遥の言葉を反芻しながら、寂寥感が漂う公園の中にただ一人、立ち尽くすことしかできなかった。