小さな声
プロローグのタイトルを変更しました。(7月8日午前10時頃)内容は変わっていません。
2
「黒瀬魁人君。あなたは中学生の時の記憶があやふやなんですよね?」
固まっている俺に、さらに遥の声がかけられる。
ずっと仕事で家にいない両親にもすら伝えていない俺の秘密を、彼女は知っていた。
俺の中学生時代の時の記憶は、断片的にしか残っていない。中学校に入学し、文化祭や体育祭は適度に楽しみ、修学旅行にも行き、そして卒業したことは覚えている。だが、自分は誰と仲が良かったのか、誰と毎日を笑いあったのか、はたまた、誰を恋したのか。そう言った、思い出の中心として心の中に残るはずの物事が、まったく思い出せないのだ。
「どうして……そのことを?」
驚きを隠せぬまま問う。少し声が震えてしまっていた。
「知りたいですか?」
俺を試すような口調と表情で、遥は尋ねてくる。俺としては非常に知りたい。だが、突然のことに驚愕する気持ちや小さな恐怖が心の中で絡み合い、素直に頷くことができない。
「仮にあなたがここで頷いたとしても……」
しかし、そんな俺を無視して遥は続ける。斜めから差していた光は、だんだんとその存在感を失わせつつあった。
「わたしは今、あなたにその理由を教えることはできません。申し訳ありませんがね」
そう言って苦笑した。
俺は彼女から目を離すことができない。硬直している俺を見て、少女は不思議そうに小首を傾げていた。その表情に冗談やからかいの色はなく、俺だけが時の流れに取り残されたような、そんな恐ろしく寂しげな孤独を感じさせられた。
ただ、彼女が問うてきた内容などを考えると、俺の不思議な能力について少なからず何かを知っているのではないか、という考えも浮かんできた。だが、そう仮定すると、いよいよ遥が何者なのか分からなくなってくる。揺るがない、静かな瞳を携えて俺を見つめているこの小さな女の子に、果たして何ができるのだろうか。
「それよりも、です。さっきの質問に答えていただけますか?」
俺の下から、顔をまっすぐ見上げる形で再び遥は問う。「願いの叶え方」とかいうもののことだろうか。
俺の答えは決まっている。世界の摂理を無視する形でも構わないのならば、俺は「考えるだけ」と即答するだろう。それが俺にとっての事実なのだから。そうするだけで、大半の事は解決できるのだ。しかし、今は馬鹿正直に告白する場面ではないように感じられた。遥の存在に興味はあるし、自分の能力について知りたいのもまた事実だが、正体がはっきりとわかっていないこの状況で明かすのは少し怖かった。何かに利用されるかもしれない。どこかに連れて行かれるかもしれない。そんな妄想に近い想像が、俺の脳裏をよぎる。だから、俺は一瞬考えるそぶりを見せ、遥に向き直る。
「……さぁな。俺にはそんなスケールの大きいことはわかんないよ。七夕になったら短冊に願いを書いて、笹にぶら下げるぐらいじゃないか?」
俺の返答を聞いて、遥は意外だとでも言いたげに目を丸くする。彼女の片足が、僅かに後ろに引かれる。だが、すぐにそれらは消され、ふっとピンク色の頬を緩ませた。
「そうですか」
左手をゆっくりと胸の前に置き、どこか嬉しそうな表情で頷いた。
*
それは唐突だった。
『……ぇ、…………は?』
俺は飛び起き、慌てて周囲を確認する。ここは俺の住居。両親が近くにいないため、俺一人で生活しているアパートの一室だ。ところどころ燻ったような色をしている壁に見降ろされながらうとうとしていると、小さな声が聞こえてきたのだ。周りの住人の声かと思ったが、声が聞こえてくるような範囲には女の子などいなかったはずだ。その声は、俺よりも遥かに年下の女の子のものに聞こえた。
一度深呼吸して、再びその声が聞こえないか、耳を澄ます。しかし聞こえてくるのは、建物の前の小さな道路を走る乗用車の音と、どこかの部屋から漏れ聞こえるバラエティー番組の笑い声だけだった。それに、先ほど聞いた声は蚊の泣くような声だった。注意したからといって、再び聞くことができるかどうかは分かったものではない。
「何なんだ、一体……」
今日は、天月遥とかいう変な子に出会ったりして、いつもとは違う一日を送った。その疲れで幻聴を聞いてしまったのかもしれない。俺はそう結論づけるが、奇妙なことが起こったという形のない恐怖が、背中をゆっくりと這っているような感覚に襲われる。俺は一つ身震いをして、強引にでも眠ろうと目を固く閉じた。頭上で眩しく光る電球のせいで変色して映る闇の中で、俺はいつの間にか浅い眠りに就いていた。