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君が描いた星空へ  作者: 深淵ノ鯱
君が描いた星空へ
12/13

君と叶える最初の願い

  11


 七夕祭の日の夜は、見事な快晴だった。空を見上げれば、美しい闇を隠す灰の雲は全く存在せず、たくさんの小さな星たちが確認できた。だが風はやはり生暖かく、俺はラフな格好で彼女たちとの集合場所へと向かった。

「あっ、せんぱーい! 遅いですよー」

 待ち合わせの十五分前に到着すると、璃子が手を振りながら走ってくるのが見えた。今日の彼女はピンク色の浴衣に身を包んでいる。大きな花柄の模様が描かれており、少しあどけなく感じたが、実に璃子らしいと思った。

「悪い……っていうか、そもそも予定の時間まではまだあるぞ? 遥も来てないし」

 璃子の周囲に見知った顔はなかった。

「は――天月先輩は、少し遅れるらしいですよ。何でも、準備に時間がかかってしまっているらしく」

手をつないだカップルが、笑顔で俺たちの後ろを通り過ぎていく。俺はそうかー、と適当に相槌を打ちながら、その二人を無意識のうちに眺めていた。

「……先輩。もしかして、羨ましいなー、とか思っちゃったりしてます?」

 口元に手を当て、にやにやといやらしい笑みを浮かべながら訊ねてくる。明るい街灯に照らされた彼女の表情は、浴衣を纏った雰囲気を掻き消すように妖艶(ようえん)だった。髪を数回掻いたのち、俺は少々躊躇いながらも答える。

「んー……ちょっと思ってしまったかもな」

「……へぇー」

 俺の正直な答えに、璃子の笑顔は行き場を失ったように唐突に消え、驚きのような表情に変わる。目を丸くしていた彼女は、やがて嘆息し、また微笑みを浮かべた。

「先輩、正直になりましたね。昔の先輩なら興味なさそうに生返事をするか、事実であっても恥ずかしがって嘘を吐いていたでしょうに」

「……以前の俺を忘れてしまうぐらい、色々なことがありすぎたんだよ。この数か月の間に」

 結構早かったように思う。出会ったばかりの遥は無表情なことが多くて、寡黙で、扱いが難しい変な奴だと、俺は否定的にばかり捉えていたような気がする。

 人の心は知らぬ間に他人によって変えられる。誰かのことを煙たがっていた自分は、今の時代には存在しない。そんな感情は、空に浮かぶ星々のように散り散りになってしまったのだろう。だから今は、恋人という存在が少し羨ましく思える。

「先輩。誰か、好きな人がいるんですか?」

「……どうして、そんなことを?」

「そりゃー、恋人になりたい、って言うぐらいなら想い人の一人や二人、いるのかなーと思いまして。別に誰にも言いませんよ、恋バナとはそういうものですから」

 はは……と苦笑が漏れる。

「それで? どうなんですか、先輩?」

 後輩からの期待や羨望が混じった純粋な瞳が向けられる。あぁ、やっぱりこいつは俺の後輩いなんだな、と思った。暗い面持ちで、淡々と物事を話す彼女は、きっと別次元の存在だったのだ。璃子は、無邪気かつ生意気に俺たち先輩に接し、下らない話でも声を上げて笑ってくれる、優しい女の子だ。あの時の彼女は、俺が見た妄想のように脆い存在に感じられた。

「……内緒だ。さすがに恥ずかしいからな」

 風が、再度吹き抜ける。璃子の柔らかい髪を優しく揺らし、甘い香りを漂わせる。それが向かう先、一つの影があった。淡い水色の浴衣に身を包み、ゆっくりと一歩一歩を踏みしめてこちらに歩み寄る少女の姿が、光に映し出されては薄闇に消える。それを繰り返し、彼女は穏やかな所作で俺たちの前に立った。

「……遅れてすみません、二人とも。浴衣を着るのが難しくて、気づけば結構な時間が経っちゃってまして」

「うわぁ……先輩! すごいキレイ!」

 申し訳なさそうに謝る遥の浴衣姿に、璃子が息を呑む。そのままぎゅっと遥に抱きついていた。

「えっ……ちょ、璃子ちゃん、っとと……」

 危うくバランスを崩しかけるが、何とか踏みとどまる。璃子はそんな遥の浴衣に、猫のように頬ずりしていた。

「ほら二人とも。そろそろ行かないと、花火に間に合わなくなるぞ」

「えー、もうそんな時間ですかー? ……じゃ、行きますか」

 スマホで時間を確認し、璃子はようやく遥から離れる。璃子はそのまま遥の横に並び、俺は二人から二メートルほど距離を取って歩きはじめる。

「黒瀬君は、こっちに来ないんですか?」

「あぁ、俺はいいよ。道幅もあんまり無いし、三人も並ぶと迷惑だろうしな」

 そうですか、と遥は微笑み、再び璃子の話に耳を傾けだす。

 今日の遥も、ケーキバイキングの時と同じシュシュで髪をくくっていた。姿を消す前の遥と、現在の姿に大きな変化は無いように見える。落ち着いた所作で、誰とも敬語で話し、控えめな笑顔を浮かべる彼女の姿は、きっと変わっていない。俺の記憶の中に居続ける、天月遥の姿だ。



  *


 璃子から話を聞いた次の日に、遥は学校に復帰した。クラスメイトの驚きと喜びに満ちた歓声は、今も耳に残っている。「家の用事は落ち着いたの?」「休んでた間のノート、後でコピーするね!」という女子たちの言葉に、遥は一人ずつ、丁寧に対応していた。

「ふぅ……」

 その女子たちがようやく立ち去ると、遥は一つ、小さなため息を吐いていた。筆箱とノートを取り出し、早速ノートの写しを始める。

「なぁ、遥」

「……何ですか、黒瀬君」

 ノートからわずかに視線を浮かせた遥に、俺は小声で問いかける。

「……本当に、家の用事で休んでいたのか?」

「やはり、気になりますか?」

 俺は深く頷く。ここに転入してきた理由も、遥は偽っていた。その時と同じ理由で休んでいたのだから、疑ってしまうのも致し方ないだろう。

「ちょっと、人の居ないところに行きましょうか」

 借りているのであろうノートを鞄の中に入れ、遥は立ち上がる。俺は彼女の背中を、無言で追った。



「黒瀬君の想像通り、あれは嘘です」

 体育館裏にある、ごみ捨て場へと遥は歩き、立ち止まるなりそう告げた。今日も一輪の小さな花が、温かい風に揺れている。

「そうか。じゃ、本当の理由は何なんだ?」

「……体調不良、みたいなものですよ。ちょっと、しんどかったんです」

「風邪……って感じでもなさそうだな。見る限り元気そうだし」

「えぇ、そんなどこにでもあるような病気ではありません」

 じゃ何なんだ……とは、すぐには訊けなかった。遥が屈み、足元に落ちていた空き缶を、籠の中に投げ入れる。乾いた音は、湿った風にすぐに吸い込まれていった。

「黒瀬君。黒瀬君にとって、『大切な人』って、誰ですか?」

 俺の方は振り向かず、高く積まれたごみ袋を見据えながら、遥は問う。

「以前尋ねた、『特別な人』ではありません。『大切な人』です」

 特別な人と、大切な人は違う。彼女の声はそう訴えかけていた。黙ったままの俺に、遥はそのままの姿勢で話し出す。

「……わたしには、そのような人が多くはありませんが存在します。いなくなると寂しく感じる人がそういう存在に値するのなら、すぐに思い浮かぶ人が何人かいます」

 声音は初めて彼女と出会った時のそれと同じようだった。数か月前の彼女に戻ったように感じられた。

「そんな人に、気づかれない。相手にされない。わたしのことを、特に何とも思っていない。だったら、それはとても悲しいことだと思いませんか?」

 遥は振り返る。微笑み、それ以上何も発することなく、俺の横を通り過ぎて行った。校舎に掲げられている校旗が、ぱたぱたと音を立てて揺れている。(いず)れ縛りから解き放たれ、どこかへ飛んでいきそうだった。

 数分後、誰もいなくなったその場所から、俺は静かに立ち去った。教室に戻ると、相も変わらない喧騒が俺を迎える。机に向かって懸命にノートを写している遥に話しかける者は誰一人としていない。周囲が気を配っているのだろう。

 歩いている間じゅう、俺は遥の問いについて熟考していた。以前、公園で遥は、特別な人を見つけろ、と俺に言った。その答えすら、まだ出ていないような気がする。

――黒瀬君は、わたしにとって特別な人です……。

 あの時の遥の言葉が蘇る。今もそれは変わっていないと信じたい。もし変わっていたのなら、俺は少なからず寂しいと思うだろう。光に照らされた笑顔も、見られなくなるのだから。

「はぁー……」

 息を吐きながら机に突っ伏す。すぐにチャイムが鳴り、ホームルームが始まった。机に抑えつけられているように感じられ、体を起こすことができなかった。そのまま、一日を過ごしたような気さえ、する。



  *


 目の前で談笑する遥からは、俺と話した時のような雰囲気は一切感じられない。あの時の会話など忘れたかのようにその後はいつも通りに俺と接し、今日に到る。祭り会場はどんどん近づいており、大音量で流れる祭囃子(まつりばやし)が聞こえ始めた。

――今度の、七月七日……。

 今日が答え合わせの日だ。そう思うと、楽しいはずの会場が、緊張の場へと様変わりする。極力考えないようにしていたが、軽快な音楽が俺の気持ちを安易に呼び起こさせる。他人は俺たちのことなど見えていないかのように早足で道を歩いていた。俺を追い抜いて行った女子高生グループの一人の肩が、先を歩いていた遥に軽く当たる。だが、謝ることなく、きゃっきゃと騒ぎながら足早に去っていった。

「ちょ、ちょっとアンタたち……!」

 璃子が追いかけようとするが、それを遥が穏やかに宥める。

 俺は、怒りよりも先に悲しみの感情が浮かんでいた。

やはり人は、他人に与える想いなど持ち合わせていない。それは俺とて変わらないが、理不尽な感情は少しずつ膨らんでいるように思う。自分と関係さえなければ、何も知らない他人は、自分とは違う世界で生き続ける魔物のような存在だ。だから怖がり、(おのの)き、接触を拒む。だが、人は大切な人を見つけ出そうとする。根底から矛盾している。そんな存在の人だって、他人であることに変わりはない。俺にとってだって、誰でも他人だし、誰からも他人だ。ならば、近くを歩いているカップルはどうなんだ。学校や図書館で勉強デートしている高校生カップルは何なんだ。

 徐々にヒートアップしてゆく自問は、ずっと消えることなく脳裏にこびりつく。だが、そのうちに、答えが出てくるような気がした。



「おー、賑わってますねー」

 祭り会場は、多くの人で埋め尽くされていた。提灯に包まれた、穏やかな赤い光が至る所から発せられ、香ばしい香りや甘い香りが混合し、空中を漂っている。

「先輩先輩! 早速何か買いに行きましょう!」

 そんな匂いに惑わされた璃子は、遥の手を強く引いて屋台に出向こうとする。遥は戸惑ったように璃子と俺とを交互に見ていたが、俺が軽く頷くと小さな笑みを浮かべて璃子の手に引かれていった。途中、何度か転びそうになりながらも、雑踏の中へ二人は消えていった。

「さて、と……。俺は……」

 とりあえず璃子に、「適当に空いてるスペースを確保しとく」とメッセージを送り、適当にぶらつくことにした。

 あまりお腹は減っていない。人の流れに巻き込まれぬように歩くだけで精いっぱいだ。ようやく開けた場所に出ると、そこではカップルや家族連れがレジャーシートを広げて座り込んでいた。普段は元気の良い少年たちが鬼ごっこや簡単な野球などをする、柔らかな芝生が豊富に生えている場所なのだが、今日に限ってはその面影は一切なく、少年たちの遊びの軌跡は消え去っている。三十分後には少量ではあるが、花火の打ち上げがある。皆、それを楽しみにしているのか、大半の人は夜空を見上げて、光の彩りへと想いを馳せていた。

 その人と人の間には一定のスペースが開いており、場所によっては大きく開いているところもあった。レジャーシートはきっと誰も持ってきていないので、出来るだけ汚れなさそうなところを選び、そこに腰を下ろした。空気に反して、涼やかな草の感触が背中を伝う。芝生の上に寝転がる寸前で手を突き、そのまま空を見上げた。

 今夜、きっと織姫と彦星は邂逅(かいこう)を果たすのだろう。天の川を渡り、一年間の互いの苦労をねぎらった後、きっと彼らなりの楽しみ方をして一日を過ごすのだろう。過去の俺は、星に願ってみようと思い立った。願えば何かが変わるわけでもない。ただの気休めでしかないことは分かっていた。

「……結局、願うことって何なんだろうな……」

 願うことで幸せになれる奴もいる。だが、願うことによって不幸になった奴もいた。「叶えたい願い」とは、自分が幸せになる、もしくは親しい誰かを幸せにする内容であるように感じられるが、一概にそうとは言い切れないのかもしれない。誰かを不幸にする願いだって、ごまんと存在するのだ。

 スマホが震える。璃子から『今どこにいるんですかー?』とメッセージが来ていた。俺は簡単に今いる場所の説明を載せ、返信する。了解の旨を伝えるメッセージがすぐに届き、そのまま視線を前に向けると、遠くなった屋台の光が一瞬だけ見えた。それは異様に眩しく感じられ、そこで(うごめ)く人たちは輝く光以上に(きら)めいていた。表情までは見えないが、皆きっと笑っていることだろう。そんな声が常に聞こえる。

 今日のこれまでを思い返すと、二人は常に笑っていたように思う。璃子は願うことによって悲しい想いを味わったと俺に話した。かといって、全てが不幸であっただろうか? 彼女には苦しみしか残っていないだろうか? 俺には璃子の心中は察してやることしかできないが、きっとそれは否定することができる。願いの内容が不幸なことだからといって、それが招く結果が完全に相手を、もしくは互いを不幸に貶めるものになるとは限らないのだ。不幸の中から幸福を見つけ出す。璃子は、それを成し遂げたと言えるのだろう。

「あっ、先輩いた」

「はぁ、はぁ……黒瀬君、探しましたよ……」

 声の方を向くと、璃子は元気そうに手を振りながら、遥は息を切らせながらこちらに歩いてきているところだった。手の中には焼きそばやフランクフルト、かき氷といった、屋台の定番のメニューが見える。

「へぇー、結構いい場所じゃないですか! ここなら花火も見えそうですね!」

 荷物を置きつつ空を見上げた璃子が嬉しそうに燥ぐ。脇から、いかにも味が濃そうなソースの香りが漂ってきた。

「黒瀬君は、何も買わなくていいんですか? 何ならわたしたちが荷物、見てますよ」

「そうですよ、先輩! せっかくお祭り来たんだから、何か買わないと!」

 時計を見ると、花火の打ち上げ開始時刻まであと十分。匂いを嗅いでいたら少し小腹がすいてきたような気もするし、急いで行けば間に合うかもしれない。

「もしかして、お金、ないんですか? 何ならわたしが……」

「いや、大丈夫。ありがとう。お金はあるから、ちょっと行ってくるわ」

 いってらっしゃーい、という二人の声に見送られ、俺は明るい場所へと足を踏み入れた。



 *


「……ねえ、璃子ちゃん」

 先輩の姿が完全に見えなくなってから、遥の小さな囁き声が私に届く。

「なに? 遥」

「どうして、わたしが璃子ちゃんの友人だった人物だとわかったんですか? 何か根拠があったんでしょう?」

 結ばれた髪がふわふわと揺れ、私に被さる寸前で止まる。そして私から逃れるように去ってゆく。

「女のカン、……じゃ駄目?」

「真面目な話です」

 後頭部を小突かれる。遥は自然な柔らかい笑みを浮かべていたが、しっかりと拳は握っていた。ごめんと軽く謝った後、私は数回頭を(さす)り、遥を見据えて答えた。

「シュシュだよ。今、髪を束ねている、その」

 薄茶色の小さなシュシュを指さす。

「これ……ですか?」

「うん、それ。そのシュシュがあったから、私はあなたが遥だと分かったんだ」

 どうして? と問いたがっている遥の瞳をまっすぐに見つめ、その問いが漏れる前に私は答える。

「『これからもよろしくね。これ、あげる』」

「……え?」

 私が呟いた言葉に、遥は目を丸くする。それも当然だろう。遥にはきっと存在しない記憶だ。私だって遥のことが分かるまでは忘れていた。だが、これは私たちにとって忘れてはならない言葉の一つだったはず。小学校低学年の頃の会話だ。

「シュシュのこと、覚えてくれてただけでも嬉しいよ。だって……」

 夜風に靡く彼女の髪はしっかりと留められている。長い年月が過ぎても、使ってもらえていることに嬉しさを感じずにはいられない。

「私が初めて、遥にあげたプレゼントだもん」



 私が遥の誕生日を知ったのは、出会ってから二年ほどが経ってからだった。それまでは遊ぶことだけに必死で、誕生日など気にしていなかった。逆に言えば、大切な誕生日の存在を忘れてしまうほどに充実していたのかもしれない。遥のお母さんから「璃子ちゃんの誕生日はいつ?」みたいな話題を振られ、ようやく互いの誕生日を共有したのだ。

 その後の一回目の誕生日に、私は手作りのシュシュを贈った。まだ針と糸を自由に扱えない年齢なので、お母さんに手伝ってもらいながら作った。何度も針が指の腹に突き刺さり、そのたびに泣き叫んだものだったが、お母さんの助けもあって、何とか完成させることができた。私が遥にそれを渡した時、彼女は大きな瞳をさらに大きく見開いて喜んだ。

「汚したりすると悪いから、特別な時だけに……」

「ちゃんと、明日から毎日付けてよね!!」

「えぇー……」

 困った顔で遥は笑った。きっと遥なりに悩んだのだと思う。結局、私の命令は無視され、遥が学校にそれを付けていくことはなかった。だが、家族ぐるみで遊びに行ったりするときには、その花は彼女の上で綺麗に咲いていた。

「それと同じシュシュを、ケーキバイキングの時に見た女性は付けていたの。だから私は気づけたの。私の近くに遥がいる、ってね」

 あそこにいたんですね……という遥の言葉には頷きだけを返す。

 あの時の私は、その事実に驚いて逃げるようにその場を去ってしまった。二度と会えないと思っていた相手が、自分の目の前にいたのだ。だから私は、この世界が偽物なのではないかと疑った。

「それまでの私は、天月遥という女性は彼女の同姓同名の存在なんだと自分に言い聞かせて、その考えを抑え込んでた。でも、ちょっとした希望と言うか……疑う気持ちもあったんだ。もしかしたら遥は気づいてなかったかもしれないけど、初めて学校で出会った時、私は遥をすごい目で睨んでた。……黒瀬先輩に聞いたら分かるよ。その現場を見られちゃったから」

 あの時の、魔物でも見たかのような先輩の驚く表情は、今も脳裏に焼き付いている。きっと先輩の記憶にも残っているんだろうな、と思った。

「それは、どうして?」

「……正解なら正解と教えてほしかった。間違っているのなら間違っているとね。それを求めるために、私は天月先輩を観察しようとしたから。多分、必死になりすぎて怖い顔になっちゃったんだと思う」

 黒瀬先輩に見られたことによって観察しにくくなり、それ以降は行わなくなった。だが、その日から、それまで忘れていた遥との想い出をよく夢に見るようになった。朝になり、夢から醒める度に、私は印象深く残っている言葉を心の中で繰り返した。楽しかった日々が戻ってくればいいのにという強い願望と、あんな下らないことなど願わなければ良かったという深い懺悔(ざんげ)の思いと共に、自らの体の中に埋め込むように反芻した。

「そうだったんですか……。全然気づきませんでした。いえ寧ろ、気づかなくてすみませんでした。もっと早く気づいていれば、色々お話もできたでしょうに……」

「いやいや! 遥が謝んなくてもいいってば! 悪いのは全部私なんだから!」

「いえいえ、わたしが……」

 数秒固まったのち、私たちはほぼ同時に笑い出した。いつものやりとりだった。二人の性格を表してるなぁ、と目尻の涙を拭いながら濡れた心の中で思った。

「でも、そう……このシュシュはそんなに大事なものだったんですね……」

 頭上に咲くその花を、遥は優しく撫でる。カサ、カサ、と擦れるような音が聞こえた気がした。

「昔のわたしは、このシュシュを特別な時にだけ付ける、と言ったんですか?」

「うん、言ったよ。はっきりと覚えてる。実際、遥もそうしてくれたしね」

 普段付けてくれなかったのは悲しかったけどね、と私は付け加えて苦笑した。周りにはだいぶ人が集まり始め、それが私たちを仮想の世界へと(いざな)ってくれているようだった。

 一分ほど遥は黙ったのち、ぽつりと呟いた。

「そう、ですか……。なら良かったです」

 何が……と訊く暇は訪れなかった。

 ヒュゥゥゥゥ、と糸を引くように高い音が闇夜に響き渡り、直後に巨大な破裂音が辺りの空気を震わせる。美しい大輪の花は私たちの体を駆け巡り、心臓を大きく揺らした。周囲から歓声が上がる。それらをいとも容易く打ち消すがごとく、花火はどんどん暗い空を光と煙で白く染めてゆく。

 ドンドン、ドンドン、と何かを打ち壊すようにそれは生まれ、消え続けた。豊かな色彩がみんなの顔を灯りの代わりに染めてゆく。赤に、青に、黄色に。人間を表すように、様々な色が私にも、遥にも、名前も知らない誰かにも貼り付けられていた。

 私たちは花火が打ち上げられていた約三十分間、特に何も発することなくずっとそれを見つめ続けた。黒瀬先輩は十分ほど遅れて戻ってきたが、私たちが彼に反応することはなかった。周囲から切り離された別世界で私たちはそれを見ているように、私には感じられた。そこには誰も介入ができない。二人だけの空間だったからこそ、何も感想が出てこなかったのかもしれない。



 花火が終わると、多くの人たちは帰路に着いた。会場から人は見る間に減っていき、出すものが無くなった屋台は、早くも撤収作業を始めていた。それでもまだ営業している場所は多くあり、数少ない残り客に余っている商品を買ってもらおうと、おじさんたちは一所懸命に声を張り上げていた。

「綺麗でしたね、花火」

「あぁ、そうだな。俺は途中から見たようなもんだけど」

 先輩の手にはほぼ溶けてしまったかき氷のカップが握られている。花火に集中してしまったせいで、ほとんど食べられなかったそうだ。

 時計を見ると、時刻はもうすぐ夜の九時。あと三時間もすれば、七月七日は終わってしまう。夜空では、何かを訴えかけるように星々が瞬いている。二人にとって楽しかった時間は終焉(しゅうえん)を迎え、再びそれぞれの役目を果たす日々が戻ってくる。彼らにとってそれは避けられぬ運命であるが、遥にとってはそうではない。変えなければならない運命なのだ。

 私が軽い焦りの気持ちを込めた視線で彼女を見ると、遥は分かっていると言いたげに微笑んだ。そして黒瀬先輩に一歩近づき、声をかける。

「黒瀬君、お願いがあるのですが」

「……何だ?」

 溶けた氷を飲みながら先輩は振り向く。

「申し訳ないのですが、かき氷を買ってきてもらえないでしょうか? 黒瀬君のそれを見てたら、無性に食べたくなってきまして。お金は渡しますから」

「かき氷って……お前、持ってなかったか? あれはどうしたんだよ?」

「あのかき氷は璃子ちゃんのものです。わたしはちょっとお手洗いに行きたくて……。お願いできませんでしょうか?」

 急いでいるように体を揺らしながら遥はお金を渡そうとする。先輩はしばらく考えた後に、渋々ではあるが頷いた。そして硬貨を受け取り、かき氷の屋台がある場所へと向かって行った。

 先輩の姿が見えなくなると、遥は体の揺れを止めて元に戻し、表情をも引き締めた。

「……いよいよ、だね」

「ええ。今日が彼にとっての別れ道……。そう、なってほしいです」

 言いながら、遥は先輩とは逆方向に歩を進める。視線の先には暗闇の中に佇む小さなトイレがあり……その奥には、鬱蒼と茂った木々の間をくり抜くように伸びている小さな道が、あった。



 *


 かき氷を手に元の場所へと戻ってくると、そこには璃子だけがおり、遥はまだ帰ってきていないようだった。暗がりの中に、璃子は一人で佇んでいた。

「遥はまだなのか? 俺が買いに行ってから十分ほど経ってると思うんだが」

「先輩、女の子には色々と事情があるんです。それは愚問(ぐもん)ですよ」

 片目を軽く閉じ、上目づかいで俺を見る。はぁ、とため息を吐き、右手からゆっくりと熱が奪われていく感覚を味わいながら、俺は適当に辺りを見回す。

「今日は、星が綺麗ですね……」

「あ? ……あぁ、そうだな」

 上空を見ていた璃子が漏らした言葉に、俺も上を向く。建物や木々などが邪魔をして完全には見えないが、純粋に綺麗だと感じられるほどに、空に浮かぶ妖精たちは人間世界を淡く、そして宥めるように照らしていた。

「今日、雨が降らなくて良かったですね」

催涙(さいるい)()、ってやつか? 逢えなくなった織姫と彦星が流す涙と言われてる」

 それです、と璃子はうなずく。この宇宙のどこかで、彼らは出会えているだろうか。今日は良く晴れた。彼らが悲しみの涙を流すことはないはずだ。

「……雨が降れば、このお祭りは中止になっちゃいます。今年に限っては、それは二人が味わう苦しみと同じくらい、辛いものなんですよ」

 織姫は彦星に逢えなくなっちゃいます。自らの記憶の中に、光り輝くそれらを仕舞い込むように、彼女は拳をぎゅっと握る。それとほぼ同じタイミングで、璃子のスマホが震えた。

「あ、先輩。ちょっと失礼しますね……。遥からだ。えーっと、もしもし?」

 操作して耳に押し当てた璃子だったが、穏やかだった表情がだんだんと険しいものへと変化していく。「すぐに行く!」とだけ遥に向かって叫び、勢いそのままにスマホをポケットへとねじ込んだ。

「ど、どうしたんだ? 遥に何かあったのか?」

 璃子は小さく肩を震わせている。それが移ったようなか弱い声で彼女は告げた。

「……遥が、トイレ近くの山道で迷ってしまったそうです。何かを落としたような音がしたので探し回ってたら、変なところに行ってしまった、と……」

 璃子の言葉を聞き、すぐにでも走り出そうとする俺を、「待って!」という言葉が制する。

「何だよ!? あそこは立ち入り禁止なんだから、すぐにでも助けに行かないと……!」

「はい、それは分かっています。ですが道は舗装されていないですし、何よりこの暗さです。これ、持って行って下さい。私は警察の人に伝えてきますから。もししばらく探しても見つからなかったり、危険を感じたりするようなら大人しくここに戻ってきてください! 先輩まで迷ってしまったら面倒が増えるだけですから!」

 璃子は俺に小さな懐中電灯を渡し、俺の方は一切見ずに駆け出す。俺のスマホのライトよりもかなり明るかった。小さな彼女の背中は、既に彼方へと消えてしまっている。心の中で礼を言い、俺は俺が向かうべき場所へと歩き出す。黒い小屋のように見えるトイレのすぐ近くに、その小さな道は開いていた。来た人々が呑みこまれそうなぐらいに、奥は暗い。灯りで照らしてもそこ以外の場所は全く視認できなかった。だが、逃げ帰ることなどできない。既に黒ずんでいる張られたテープを(また)ぎ、白い光だけを頼りに、俺は()(せき)と大きな根で覆われた道を行く。木々のざわめきに震え、どこに潜んでいるかわからない獣に怯え、周囲を確認していく中で何度も転んだ。だが、遥の名を叫び、ゆっくりと前進していった。不思議と途中から恐怖は感じなくなった。早く見つかってくれることだけを祈り、俺はまた一段と大きく叫ぶ。



 *


「……嘘吐いてごめんなさい、先輩」

 駆けてゆく黒瀬先輩の背中を見つめながら、小さな声で謝罪する。先輩からは死角になる場所から、その姿を見た。もとより私には、警察にこのことを伝える気など微塵もない。

「私の慌てる演技、うまく先輩を騙せたかな?」

 自画自賛ではあるが、上手にできたと思う。少し気恥ずかしかったのだが、全ては遥の為だった。先輩だけを山の中に誘導し、私は遠くからそれを確認する。今回私に課せられた任務はそのようなものだった。

 山道へと入っていったのを確認し、私は遥にメッセージを送る。

「順調。あと二十分もしないうちに先輩は到着すると思うよ、っと」

 すぐに既読と表示され、遥から「ありがとうございます」と返信が届いた。私はしばらく考えた後、その文章を打ち込んで送信する。

『気にしないで。それよりも、黒瀬先輩の織姫になってあげてね。今日は、快晴なんだから』

 送り終えた私は、スマホの電源を切り、そのままポケットに突っ込んだ。

 遮蔽物の無い場所からは、この星空はどのように映るのだろう。その光景を勝手に想像して、そんな自分への笑いを込み上がらせながら、その場に座り込んだ。

 自分が小さくなると、世界は一層大きく見えた。誰かを不幸にさせることはもうこりごりだ。二度と同じ過ちを繰り返さないために、何も願わないで生きようと決めた。自分自身を、そして大切な人を守るために、私は願いを封印した。

 だが、仮に願うことに力があるのならば、それは誰かを幸福にさせることも可能だ。また良くない結末を招くんじゃないかと不安になる気持ちは止まらない。それでも私は胸の前で両手を組み、どこかへと続いている果てしない空を見上げる。

 私も星に願ってみよう。二人の幸せの為に。



 *


 暗い山道を、俺は遥の名を呼び続けながら、歩き続ける。走ることはできない。急ぎたい気持ちが足へと伝わり、小さな虫が這いずりまわるような焦燥感に襲われる。俺はそれを無理やり抑え込み、転ばないように、道から外れないように一歩一歩を踏み出していた。

 既に喉は痛みで満たされており、掠れかけた声しか出せない。仮に近くに遥がいたとしても、聞き取れるかどうか分からない。脇でないている虫たちの声の方が余程大きかった。

 横を見ると、闇に覆われた傾斜がアリジゴクのように口を開けている。もし躓いて運悪く傾斜側に倒れ込んでしまったら、きっと大けがを免れることはできないだろう。この道の終着地が近づくにつれ、その角度は卑劣さを増しつつあった。

「……ん?」

 視界の先がぼんやりと霞んでいる。懐中電灯を消し、その明かりに目を(すぼ)める。とても眩しく感じられた。俺を安らぎの場所へと誘ってくれるような、そんな優しさも感じた。

 本当は見つけることができたことに喜び、涙を零す場面だったのかもしれない。だが、その場所は実に彼女らしいと思った。光と闇が混合し、自分はそのどちらにも染まらない。独立した場所に居続ける彼女を象徴した場所であると思えた。

「…………遥」

 暗いせいで、表情はよく見えない。だが、唇だけはなだらかな孤を描いており、地面に落ちている枝葉を踏みしめながら俺の元へと静かに歩み寄った。無言で小さなペットボトルの水を差し出し、ジェスチャーで飲むよう促す。

「……ありがとう」

 封を開け、勢いよく流し込んだ。そんな俺を彼女はじっと見つめていた。キャップを閉めて、空になったそれをポケットに仕舞い込む。

「そういう律儀なところ、何も変わってませんね」

 彼女は俺の手の動きを視線で追っていた。俺の目の前まで近付いていた遥は、困ったように、それでいて嬉しそうに微笑んでいた。

「もしポイ捨てとかするようなら、わたしはこのままここを離れていたんでしょうがね……。わたしが知っているままのあなたで良かったです」

 風が吹き抜け、恐怖心を煽る森のざわめきが流れる。一枚の葉が、俺たちの前を落ちていく。それは再び吹いた別の風に攫われ、深い闇の中へと消えていった。

「ここまで来てくださって、ありがとうございます。迷ったわたしを探すために――」

「嘘吐け。迷ってなんかないだろ、お前。わざとここに来たんじゃないのか?」

 はは、と遥は小さな声を上げて笑った。

「いくら鈍い黒瀬君でも気づきますよね、さすがに。……いえ、ここはかつての呼び方で呼ばせてもらいましょうか」

 軽く頬をつねって表情を正し、はためく長い髪を諌めるように押さえつける。間もなく風はやみ、静寂の空間が訪れる。

「昔話をしましょうか、魁人君」

 一呼吸おいた彼女の口からは、俺の知らない現実だけが語られる。俺の、消え去った記憶の欠片が集まり、ようやく形を為し始めた気がした。ふわふわと漂っていたそれらはやがて意思を持ったように、各々が向かうべき場所を目指しだす。

「わたしがあなたを助けられなかった、過去のお話を――」



「二年前のちょうど今日、わたしたちは一緒にこのお祭りへとやってきました。あの日も今日と変わらぬ賑やかさでした」

 まるで水のように、彼女の言葉はさらさらと流れる。そのせいで、夢の中にいるような心地にさせられる。

「以前、お話ししましたよね? わたしには彼氏がいたことがある、と。その彼氏というのが、黒瀬魁人君、あなたなんですよ」

「俺……? でも、俺にはそんな記憶は……」

「ええ、無いでしょうね。あなたはわけあって、中学校時代の記憶の多くを消されてしまっています。きっと、覚えているのはおおまかなことだけ……。特に、わたしとの日々の記憶は完全に消えてしまっていることでしょう」

「……どうして」

 その三年間の記憶は、断片的な物しか残っていない。誰とどこでどのようなことをしたのか、という詳細な部分は抜け落ちてしまっている。だから、俺に彼女がいた、などということはおろか、天月遥という少女の存在も思いだすことができない。

「先日、璃子ちゃんからお話があったと思います。その時、璃子ちゃんは言ったはずです。『願いの力は人類を守るために生み出された』と。魁人君の記憶が消えてしまっているのも、それと同様の理由からです。つまり、記憶に残していては魁人君の精神や肉体に影響を及ぼしかねない出来事があったんですよ」

 頭の中に、軽い痛みが走る。時間という果てしなく、壮大な流れを自身の肉体で直に追っているような、恐怖にも似た感覚が俺を支配した。

 一つの情景が思い浮かぶ。諒也とラーメンを食べに行った帰りに浮かんだものと同じだった。色々な声が聞こえる。ただ、どれも聞いていて穏やかな気持ちになるようなものではない。怒りに震え、慟哭(どうこく)し、苦しみに悶える、そんな負の感情がもたらすものばかりで満ちている。

「それで……その記憶って、一体……?」

 一筋の汗が両者ともに流れる。彼女はすぅ、と息を吸い、長い時間をかけて吐き出した。ぼんやりとした光は片頬だけを白く染め、静謐な瞳は揺れることなく俺だけを見据える。

 少し掠れた、静かな声で彼女は告げた。

「あなたは殺されました。わたしの目の前で」

 それが、真実であり、現実でもあった。



 *


 わたしたちは二人で屋台を巡り、花火を楽しんだ。花火が終わると人気(ひとけ)は疎らになり、疲れはじめていたわたしは、もう帰ろうと提案した。魁人君は少し不満そうに唇を尖らせながらも、わかったと頷いてくれた。でもその前に……と魁人君はわたしの手を掴み、ある場所へ向かって歩き出した。ぽっかりと穴が開けられたように存在している獣道。魁人君はこの先へ行こう、と言った。未だ戸惑っていたわたしを勇気づけるように、魁人君は目的を告げた。

――この先に星が綺麗に見える穴場スポットがあるんだ。一緒にそれを見たいな、と思って。

 そういうことなら、とわたしはうなずいた。暗い山道を、スマホの灯りだけを頼りに歩いた。先にも後にも人はいないように感じられ、小さな場所に取り残されたような寂しさ、怖さを感じた。それは魁人君も同様だったのか、鳥が羽ばたく音や枝を踏み折る音がする度に身を竦ませていた。わたしがからかうと、魁人君は握る手に力を込めて、恥ずかしそうな声で言い返した。

――黙ってろよ……。多分もうちょっとだから。

 早く暗い空間から脱したいという気持ちはあるのだろうが、わたしの浴衣という服装を考慮して、ゆっくりと歩いてくれているのはちゃんと分かっていた。だからわたしも汗ばんだその手をきゅっと握り返し、二人で細い道を歩き続けた。

 あっ、光が……とわたしが思った瞬間だった。わたしの肩が何者かに掴まれ、強引に後ろに引っ張られた。繋いでいた右手は容易く離れ、わたしは固い肉体に縛られた。わたしがもたらした勢いのせいで、魁人君はその場に倒れ込んでいた。何が起こったかわからずにわたしがもがくと、わたしを抱えているものは大声で怒鳴った。

――動くな! 男も女もだ。怪我したくなければ大人しくしてろ!

 聞き覚えのない声だった。うちの学校の不良生徒などではない。わたしを拘束している男の後ろからさらに二人の男が出てきて、魁人君を地面に抑え込んだ。深夜の路上で(たむろ)してそうな柄の悪い、けれども筋肉質な男たちだった。何とか逃れようと魁人君は渾身の力で手足を動かしていたが、男の一人に顔を殴られ、悔しそうに歯噛みしながらも抵抗をやめた。

――ったく、ぱっとしない(つら)してるくせにこんなかわいい彼女とデートか。幸せだなぁ、おい。

 わたしの体を持った男が、言いながら一歩ずつ魁人君の元へ歩み寄る。その太い足で容赦なく顔を蹴った。

――どうしたらこんな彼女が出来るんだよ? 参考にするから教えてくれよ?

 かかか、と笑いながら男は魁人君を見下す。仲間の男たちも笑い声をあげ、リーダーと思しき男を囃し立てる。

 痛みに悶絶しながら男を見る魁人君と目が合った。その瞳は未だ諦めない、絶対にわたしを助け出すと訴えかけていた。だが、わたしはそんな想いに首を振る。これ以上大事な人を傷つけたくない。苦しい思いをしてほしくない。わたしが耐えれば、また一緒に学校生活を送ることができる。わたしには諦めの気持ちが既に生まれていた。もう少しわたしが解放を求めていれば、結末は変わったものになっていたのかもしれない。

――俺たちはこの女が気に入った。しばらく借りてくぜ。安心しな、すぐに返してやるから。

 (とど)めだと言わんばかりに、最後は一人一発ずつ魁人君を殴っているようだった。ただ、それは音が聞こえただけなので正確には分からない。視界は滲み始め、恐怖のあまり目を閉じていた。それでも、か弱い声は漏れる。やめて、やめて、と。わたしを連れて行くのは構わないから、彼を痛めつけないで。男はそんなわたしを見て愉快そうに笑う。叶えられない想いは笑い声に乗って、そのまま消えていく。

 魁人君が動かなくなったことを確認した男たちは、わたしを抱えたまま来た道を戻ろうとした。きっとわたしは彼らに(はずかし)めを受ける。耐えがたい苦痛を与えられ、羞恥(しゅうち)に心を痛めることになるだろう。不安でたまらない。生きて帰ることができるだろうか。また二人で笑いあえる日々が戻ってくるのだろうか。目の前の恐怖よりも、永遠の不幸の方がわたしには辛かった。お願い、壊れないで、わたし。涙を流しながら、わたしは自身に祈った。

 その刹那、わたしは前に倒れ込んだ。いや、正確にはわたしを抱えていた男が倒れたのだ。何が起こったのかと首を捻って後ろを振り向くと、ぼろぼろになった魁人君が荒い息を吐きながら立っていた。固く握られた拳は男の頬を抉ったのか、男は手でその部分を押さえている。縛りが緩くなった隙に、わたしは駆け出した。殴られた男は仲間の一人にわたしを追うよう指示し、自身はてめぇ……と咆哮を上げ、魁人君を今度こそ動けなくしようとする。

 わたしは必死に走ったが、服装の動きやすさには雲泥の差があり、体力にも同等の差があった。わたしはすぐに捕まり、元の場所へ連れ戻された。そこでは、まだ男と魁人君がもみ合っていた。残っているすべての力を魁人君は放出し、逃れようとしているように見えた。

――先輩、これじゃ埒が明かないっす。もういっそのこと……。

 先輩と呼ばれた男は、囁きかけた男の案が良いと思ったのか、嫌らしい笑みを浮かべる。背筋に悪寒が走った。こいつはヤバい。直感的にそう感じた。

 男は人差し指を小さく動かし、魁人君を煽る。精神的にも肉体的にも余裕がもうなかったのか、魁人君はそれにすぐにのってしまった。ダメ! 行っちゃダメ! とわたしは叫ぶ。そんなわたしの声に、魁人君は驚いたような表情をこちらに向ける。それでも勢いは止めることなく、男の懐に潜り込んだ。だが、その力は男にとって、幼児に殴られた程度の痛みに過ぎなかったことだろう。男はそのまま疲弊しきった魁人君の体を掴み、ハンマー投げをするように森の彼方へと放り投げた。魁人君の空しい悲鳴だけが木霊(こだま)のように残り、それも男の(てら)った笑い声で掻き消される。わたしには悲鳴を上げることすらできなかった。只々、目の前で起こった突然の悲劇に、茫然とするだけだった。

 わたしが守らなければならない存在は、目の前から忽然(こつぜん)と姿を消してしまった。魁人君がどこへ行ってしまったかなんて、知る由もない。本音を言えば、今すぐにでも暗い森の中へと分け入って彼を探したかったが、男たちが許すはずがない。男たちはこれからわたしをどのように蹂躙(じゅうりん)するかだけに期待の心を持ち、一人の人間の命など眼中にはない。下卑(げび)た笑みを浮かている男たちに惑わされる自分が馬鹿らしく思えた。わたしに、拘束され続ける理由はもはや見当たらない。かといって、今すぐ逃げ出すのは無理だった。先ほどの二の舞になることは、火を見るより明らかだ。

――おら、あそこが目的地だ。

 男が指さす先には、既に誰も使わなくなって年月が経っているのだろう、ぼろぼろの小屋があった。重そうなドアを開け、中に入ると、かび臭さが鼻孔を強く刺激する。天井にはモールのようにびっしりと蜘蛛の巣が張り巡らされており、地面はその主や小動物の死骸が横たわっていた。男は地面に落ちているそれを足で蹴り飛ばし、小さなスペースを作った。その間に、わたしは部屋の構造を把握する。

――扉は一つだけ。窓は二つあるが、はめ殺し窓のようで、簡単に脱出はできそうにない。他には……。

 視線を巡らせていたわたしの首が掴まれ、そのまま顔面を押し付けられる。べちょっとした感覚に襲われ、わたしはたまらず()せた。その隙に猿轡(さるぐつわ)を噛ませられ、伸びた無数の手はわたしの身体を撫でまわした。男たちはわたしの反応の一つ一つに笑みを浮かべていた。

――大人しくしてろよ……。楽にしてやるから……。



 部屋に連れ込まれ、十分ほどが経過しただろうか。やはり、耐えることはできそうにない。男たちのそれはわたしの想像以上に残忍なものだった。浮かぶ悲しさや悔しさを圧倒的に凌駕する勢いで、沸々と怒りが湧き上がる。大切な人がいると知りながらそれを簡単に踏みにじる人間の存在価値など、何かに例えられるものではない。

 消えてほしい。消えればいい。消えろ。思いはすぐに膨張し、一つの願いを為す。このままではわたしの身体は壊れ、一生その影響は残る。わたしの身体と心は、そう判断したのだろう。

 気づけば、わたしを襲う者はいなくなっていた。部屋の中にはわたしだけがぽつんと取り残されており、小屋の外では自然で生きるものたちの日常が繰り広げられていた。

 わたしは汚れた服を着て、ふらりと立ち上がる。体に力が入らない。彼を助けに行かなければと思うけれど、それを果たすための気力は尽き果てていた。

 その後、巡回していた警察の人に保護されたわたしは、先ほど起こったことの一部始終を説明した。彼はすぐに見つかった。投げられた勢いで首の骨が折れ、窒息死していたらしい。彼の遺体を見る勇気はなかった。

 どうして、どうして、とわたしは自問し続け、苦しみに涙を流した。身体の痛みなどは、もはや感じない。彼を失ったことによる精神的ショックの方が遥かに大きかった。

 そんな時、一人の警察官に質問をされた。どうして君は助かったの、と。そしてわたしは思いだす。

――願ったら、それが現実になった。ならば……。

 わたしはその場で願った。

――魁人君と見られなかった星空を、一緒に見られますように。

 そして。

――再び生きる魁人君が、満足のいく人生を送れますように。



 *


「その後、わたしは一旦町を離れることになりました。面倒事を嫌う学校がわたしを退学にしたんです。色々な場所を彷徨いました。どこにいるかわからない魁人君と再会することだけを生き甲斐に、今まで生きてきました」

 目尻を拭いながら話す遥に、俺はかけるべき言葉が見つからない。彼女が話した内容は、にわかには信じがたいものだった。俺は一度死んでおり、遥の願いによって生き返った。そして今まで生きてきたのだ、と。まとめるとそのような結果になる。

「そして去年の春ですね。高校はこっちの学校に通えることになったんです。地元に帰ってきて、もしかしたら再会できるんじゃないか、と期待していました。初めは今通っている学校とは別のところに入学したんです。ですが、そこに魁人君と思しき人物はいませんでした。わたしは諦めずに、町中を探し回りました。すると、微弱な気配を感じ取ったんです。それをわたしは辿りました」

「……てことは、感じてた視線とかって……」

「はい。目の前の人物が本当に黒瀬魁人君か、観察していたんです」

 その後のことは俺が経験した通りだ。なかなか声をかけられなかった遥は俺の呼び声で姿を現し、何事もなかったかのように俺に接した。そして色々ありながらも今に至るというわけだ。

「……そんなことがあったなんて……」

 話を聞いている間にも不可解な感覚は俺の身体を縛り付けていた。だが、その答えが出ることはない。中学時代の記憶は戻って来ず、靄のような漠然としたことしか思いだせない。

「……これを、見てください」

 遥はスマホの画面を突き付けてくる。そこには新聞記事の画像が表示されていた。大きな字で、『高校生、森の中で窒息死』との見出しが書かれていた。

「全て真実です。これが、現実なんですよ」

 念を押すように言った。

「……じゃあさ、一つ訊くけど」

「何ですか?」

「俺、遥と出会ってから、時々幻聴みたいなものを聞いたんだ。途切れ途切れでよく聞き取れなかったんだけど、小さな女の子の会話だった。いずれも楽しそうな声だった。今になって考えてみると、名前を訊いたり、何かをプレゼントしたりするような声だった気もする。それも、遥がやったことなのか?」

 遥は少し考えたが、間もなく首を横に振る。

「わたしは知りませんね……。でも、もしかしたら余波のようなものかもしれません。力の影響なのかも……」

 そうか、と俺は頷く。

 遥が口にしたことは、完全に受け止めきれたわけではない。だが、証拠もあった。俺にそれを否定するほどの力は残っていない。

「話してくれてありがとう、遥」

 一歩近づき、語りかけるように言う。遥は穏やかな微笑みを浮かべた。

「悪いけど、俺はその時のことは思いだせそうにない。遥との過去の想い出も思いだせなさそうだ」

「…………うん。仕方ないですよね」

 悲しそうに俯く。彼女も覚悟はしていたのだろうが、僅かに期待している部分もあったのかもしれない。

「でも、約束は守りたい」

 遥の驚いた声が小さく上がる。もう一歩遥に近づき、手を差し出した。

「だから……行くぞ、ほら」

「え……? あ、はい……」

 俺たちが向かうべき場所は、もう目と鼻の先にある。俺は伸ばされた遥の手を取り、ゆっくりと歩き出した。



「魁人君、いて座の話、覚えてますか?」

「あれだろ? 俺が遥の家で聞かされた話」

 ええ、と遥は頷く。ベッドの上で静かに聞いた日を、少し懐かしく思う。

「悲しい話ではあったな。知らなかったとはいえ、恩師を自らの手で苦しめることになったんだから」

 ただ矢に討たれて死ぬだけならどれだけ楽なことだろう。だが、彼は不死身ゆえに永遠の苦しみを味わうことになった。それが両者にとってどれだけ辛かったかは、想像することすらできない。

「そう、ですね。ケイローンはきっとヘーラクレースを恨んだでしょう。恩を仇で返されたようなものですから。でも、起きてしまったものは仕方がない。その時のケイローンにとっての幸せとは、何だったのでしょうね」

 まるで自問するように遥は話す。大きな瞳に、枝葉の隙間から見える小さな星が一つ彷徨っていた。誰とも見られなかったその一つの星に、彼女は過去の想いを乗せている。

 彼女の表情から、俺にも一つの答えが浮かぶ。

「安らかに眠ること、か……?」

「ええ。推測ですが、わたしもそう思いますね。きっと彼も願ったのでしょう」

 果てしなく遠い存在の人物に自分を重ね合わせるように遥は目を細める。

「ケイローンは不幸な最期を遂げてしまいましたが、彼の願いはヘーラクレースとゼウスによって叶えられました。ケイローンにとって、それはとても幸せなことだったと思うんです。だからわたしは、この神話を悲しいだけのものとは捉えません。不幸の中で巡り合える幸福こそが、真の幸福なのだと思います」

 遥が、この神話の登場人物はわたしに似ている、とあの時口にした理由がようやく分かったような気がした。大切な人を突如失い、半永久的な苦しみを味わうことになっただろうが、その結末は自身の願いによって覆された。彼女はヘーラクレースでもあるし、ケイローンでもあるのだ。

「……ほら、魁人君。着きましたよ」

 俺の手を握る力が少し強くなる。目の前に広がるのは、草野球でもできそうなぐらいに広い芝生を持った場所だった。夜風に短い草は靡いており、植物の香りを漂わせている。

「……魁人君、実はわたし、少し怖いんです」

 握る力はどんどん強くなる。男の俺が少し痛みを感じるほどにまで増幅する。

「魁人君との願いが叶えば、わたしはどうなっちゃうんだろう、って。願いが叶うということは、裏を返せば生き甲斐を失うことに等しいです。そう思うと、少し……不安です。これまでの日々が楽しかった分、わたしは何を目指して生きていけばいいんだろう、って考えてしまうんです」

 必死にその感情に抗い、彼女は俯いている。顔を上げ、目を開けばその願いは叶えられる。それは一瞬のことだろう。俺にもその後のことは分からない。彼女にはこれ以上不幸にはなって欲しくないという思いはある。その思いによって、俺はどのようなことができるのだろうか。記憶は戻ってこないし、過去の想い出を持っている彼女の悲しみは癒えない。それがとても申し訳なく思えた。

「魁人君……何も、思いだすことはありませんか? 孤立していたわたしのために尽力してくれましたし、色々な問題も解決させてくれました。ケーキバイキングにも行きましたよね。本当に……思いだせないですか?」

 とても苦しかった。彼女を過去の記憶で縛っておくのが、とても残酷なことに感じられた。針で体の至る所を刺されているような痛みに耐えながら、俺は声を絞り出す。

「ど、どういうこと、だ……? 今の……」

「……やっぱり、演技とかじゃなさそうですね、その声。思いだしてくれるかも、とか思ったんですが……」

 遥は下を向いたまま自嘲的な笑みを浮かべる。

「わたしたちがここ数か月の間に経験したことは、過去のわたしたちが経験したことと全く同じなんです。なぜでしょうね……偶然だと思ったんですが、わたしは確信しました」

 遥は遂に目を開け、俺を見る。俺を瞳に映し、彼女は言った。

「黒瀬君は、やっぱり魁人君だ、ってね」

 遥は俺の反応を待つことなく、俺の手を引いて歩き出した。俺は引かれるがままに歩いた。

 誰もいない空間に、二人の足音は大きく響く。彼女は一切、上を見なかった。俺も見上げるつもりはない。彼女の願いは、『黒瀬魁人と一緒に星空を見ること』だ。同時に見ることに意味があると思った。それを交わした時のことは記憶にないが、彼女の願いを叶えたいと深く考えている自分がそこにいた。そのまま中央付近まで歩き、遥は足を止める。彼女は少し呼吸を荒くしており、膝に手を置いてしばらく息を吐き出していた。それでも瞳を俺のそれと重ね合わせ、笑顔で言った。

「わたしの願い、一緒に叶えてください。魁人君」




 遥か彼方までそれは広がっていた。

 とく、とく、と胸の鼓動を感じる。

 いまは、少しうるさく思った。

 つよく、つよく、波を刻んでいる。

 まるで、燃え上がっているようだった。

 であってから今に至るまでの間に、俺はたくさんの、心の変化を覚えた。

 もし、願いが叶うのなら……。

 …………。

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