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君が描いた星空へ  作者: 深淵ノ鯱
君が描いた星空へ
10/13

思い出のシュシュ

  9


 一日学校を休んでから登校した俺を見た周囲の反応は、正直言って薄かった。みんな、何があったんだ? と興味と好奇心を孕んだ視線で俺を見るが、誰もそれについて問いかけてくることはなかった。もしかしたら、何か事情があるのだろう、と把握してくれた上で、気を遣って話しかけないようにしているのではないか、と思ったが、その考えは数人のクラスメイトからの「キモっ」という言葉で消え去った。ガーゼはもうつけていないが、殴られた跡は紫色になって残っている。何も知らぬ者が見れば、確かに気味悪く映ることだろう。寧ろ、俺よりも遥の方が心配されていた。特に、一緒に帰っている女子たちからの心配は大きかった。遥が学校を休んだのは、自分たちと喧嘩して落ち込んでしまったからなのではないか、と勘違いしたらしく、遥が教室に入るなり、彼女の元へと駆けて行って、ずっと頭を下げていた。遥が軽く説明して誤解が解けると、喧嘩前の状態に戻ったらしく、湿った表情は消え、再び笑顔を見せるようになっていた。

「黒瀬ー」

 クラスメイトの男子に呼ばれ、そちらに向かう。その男子生徒の傍らには、高く積まれたノートの束があった。

「悪ぃけど、これ、持ってってくれないか? ちょっと野暮用があってよー。ほら、いいだろ?」

 右手でノートを叩き、左手で俺の肩を抱く。笑顔を見せてはいるが、友好的な笑みではない。軽く蔑まれているような顔だった。

「……何で俺が」

「だって、お前まだノート出してねーじゃん。自分の分も出して、とっとと持ってけよ」

 ため息を吐いて男を睨む。相手も睨み返してきた。俺は隠すこともせず舌打ちして、ノートを抱える。ありがとよ、と感謝の籠っていない言葉を掛けられる。

「あっ、黒瀬君。ちょっと待ってください」

 廊下に出ると、背後から声をかけられる。ゆっくりと振り向くと、遥がノートを手に向かってきていた。

「……手伝いましょうか?」

「いや、いい。それよりも、俺の鞄に入ってるノートを取ってきてくれないか? 遥のやつと同じ色をしたノートが入ってるはずだから」

 はい、と答えて駆け足で遥は教室内に戻る。すぐに戻ってきてくれた。

「どうぞ。……本当に大丈夫ですか? 無理しちゃダメなんですよ?」

まったく、怪我している人に持たせるなんて……と遥は我がことのように怒っている。それは素直に嬉しかったが、女子に重いものを持たせるのは男としていけないことだと思う。気持ちだけもらって、俺は職員室へと向かった。

 コーヒーの匂いが充満している室内へと足を踏み入れる。目的の人物はすぐに見つかった。

「あぁ、ありがとうな。黒瀬」

 先生にノートの束を渡し、さっさと戻ろうと(きびす)を返すと、先生がそうだ、と俺を呼び止めた。

「一昨日、学校に連絡があったんだけどな。お前、クラスの女子と揉めたみたいじゃないか。怪我は大丈夫か? 昨日は休んでたから心配していたんだが……。あと、天月もな」

 この先生は俺たちの担任なので、クラス内でのことはすぐに伝わるのだろう。一応心配しているようだが、僅かな好奇心も見て取れた。俺は大丈夫です、とすげなく告げ、今度こそ背中を向けた。

「……クラスには伝えたが、お前らを襲った奴は停学処分になった。天月にも伝えといてくれ」

 はい、と俺は少しだけ先生の方を向いて答え、職員室を出る。

「あっ、先輩! お久しぶりです……って、どうしたんですか、その顔!?」

 廊下の向こうから、璃子が驚愕の顔つきをしてこちらへ走ってくる。

「あぁ、ちょっとトラブルがあってな。でもすぐに治るから。気にしないでくれ」

「……もしかして、殴り合いの喧嘩に巻き込まれた、っていうのは先輩のことだったんですか? 昨日のホームルームで先生から聞いたんだけど……」

 多分そうだ、と頷く。璃子は心配そうに顔の傷跡を見つめ、

「あの……もし私にできることがあったら、言ってくださいね! 可能な限り、先輩の力になりたいし!」

 と言ってくれた。

「あ、璃子―」

「何してんのー?」

 並んで歩く俺たちの背後から女子の声が届く。璃子もまた二人の名前を呼んでいたので、きっと友達なのだろう。璃子は去り際に視線を一度だけこちらに向け、俺が軽く頷くと笑顔で去っていった。週末のアレなんだけどさー、と明るく話す彼女らを見ていると、何とも璃子の友人らしいな、と思った。やはり璃子は、自身のその性質を生かした友人作りをしているのだろう。

 教室に戻ると、すぐに担任教師がやってきてホームルームが始まった。俺と遥が復帰したこともあってか、恐らく二度目であろう、厄介事は起こすなという注意があった以外はいつも通りだった。先生が出ていくと、一時間目の授業まで教室は一時の喧騒に包まれる。

 その賑やかさに紛れるように静かに、遥が俺の席までやってきた。

「その……黒瀬君。一つお願い……というか、頼みごとがあるんですが」

 周りには聞かれたくない話なのか、教室は賑やかなのに遥の声は小さい。俺に耳打ちするように自身の口元を隠して言った。

「黒瀬君、わたしにお礼をさせてくれませんか?」

「……お礼?」

「はい、お礼です。先日、あの集団からわたしを守ってくれたお礼」

「いいって、そんなの。お礼のためにあんなことしたわけじゃないし……」

「――そういうわけにはいかないんです!」

俺の言葉を、遥は決意の籠った声で掻き消す。

「わたしのせいで痛い思いをさせてしまったんです。償いの一つや二つはしないと、わたしの気が済みません。もし黒瀬君が、優しさでわたしの頼みを断っているのだとしたら、こう思ってください。黒瀬君は、わたしの心の平穏を保つためにお礼をする、と」

 俺はそんな美しい気持ちで遥のお礼を拒んでいるわけではないのだが、前かがみになって、俺に迫るようにして言う遥を見ていると、それもいいかな、という考えが沸き起こってきた。必死になって説得しようとする遥が少し微笑ましくて、笑いをかみ殺しながら俺は答える。

「……お礼とかされるのに慣れてないから断ってただけなんだけどな……。わかった。何を頼むかはわからないけど、決まり次第、言わせてもらうよ。もちろん、無理のない範囲でのお礼にするが」

 俺の返事を聞くと、遥は心底嬉しそうに笑んだ。俺の言葉が彼女の心を少し軽くしたのだろうか。遥にとって良い方向に転がったのなら、それは嬉しいことだった。

「では、何にするか決めたら、また教えてください」

 遥が自席へと戻るその後姿を眺めながら考える。クラスメイトの騒ぎ声が、少し遠くなったように感じられた。

「……まぁ、急ぐことはないか」

 思考から意識を離し、鞄の中を漁る。すぐに教師が入室し、一時間目の授業が始まった。



「どうでしょう、黒瀬君? 何かありましたか?」

 昼休みになると、再び遥が俺の席までやってきた。俺は午前の授業の暇な時などに考えていたところ、一つだけ思い浮かぶことがあった。俺としても少し関心があることだったし、きっと遥も好きだと思う。

「ケーキ……」

 けーき? と遥が反芻する。俺は小さく頷いて続けた。

「……ケーキバイキングに付き合ってくれないか?」

 以前、諒也とラーメンを食べに行く前に見ていたコマーシャルを思い出したのだ。結構安かったので、今月の生活に大きな支障はきたさないだろう。先ほどスマホで調べたところ、まだ時間に余裕はあった。遥の予定さえ合えば、彼女も了承してくれるはずだ。

 俺の答えに、遥は呆けた表情を浮かべて突っ立っている。

「……そんなので、いいんですか?」

「そんなのでいいんだよ。遥は甘いものは嫌いか?」

 いえ……と遥は首を横に振る。彼女の表情から、戸惑いの色は消えない。

「……黒瀬君は、甘いものが好きなんですか?」

「そんなに好き、ってわけではない。でも、最近甘いものを食べてないな、って前に思ったことがあってさ。今回は丁度いい機会だから、遥と一緒に行こうかな、と。あんな場所は、男一人で行くのは寂しすぎるからな。予定は大丈夫か?」

「大丈夫、ですが……」

「じゃ、決まりだ。詳しい日程はまた後で話そう。それでいいか?」

 やや強引に話を終わらせた俺にかける言葉も見つからず、遥は弱く頷く。けれども、そこに拒絶の態度は見えない。遥は了解しました、と小さく呟いた後、柔らかな笑みを浮かべた。小刻みに揺れる優しさに満ちた瞳の中に、俺は映っているようだった。



 俺たちが住む町は、数日前に梅雨入りが発表された。これからは雨が降り、じめじめと過ごしづらい日々が続くかもしれない。現に今日も、外にいると、(ぬる)水粒(みつぼ)に体中を締め付けられているような不快感に襲われる日だった。

 待ち合わせは駅ということになっている。駅から目的の店までは、徒歩で十五分とかからない。俺が遅れてはいけない、と集合時間よりも少し早く到着したところ、遥はまだ到着していなかった。

 休日の駅前は、色々な人でごった返している。どこかへ向かう家族連れや、男女のカップル。部活へ向かう、うちの学校の生徒も見られた。それぞれの生活を営む彼らの喧騒の中に俺が混じり込んでいるように感じられ、ここに立ち尽くしている自分に違和感を覚えた。

 楽しそうに笑いながら駅構内へと歩いていくカップルを視界の隅に入れる。女は、不快指数が高いこんな日に相応しいと言える涼しげな服装を、男の方は少し力を入れたのか、暑そうだがやや派手な格好をしている。改めて俺は自分の恰好を見る。いつもと変わらない地味なグレーのシャツと、快適さを重視したラフなパンツ。周囲から見て、俺はどのように見えているのだろうか。少なくとも、これから女子と出かける男とは思われていないだろう。目の前を歩く女連れの男全員が、俺を見て蔑むような目を向けている。鬱陶しく思いながら、遥に対する申し訳ないという気持ちが湧き上がってきていた。

「……あっ、黒瀬君」

 暑さで流れてくる汗を拭い拭い待っていると、間もなく、名前を呼ばれる声が聞こえた。遥が小さく手を振りつつ、こちらへ向かっているところだった。

「すみません、待ちましたか? ちょっと服選びに時間がかかっちゃいまして」

 言いながら、自身が着ている純白のワンピースの裾をそっと摘む。派手なわけではないのだが、清楚な彼女を柔らかく包み込み、その美しさを際立たせている。兼ねて、先ほどのカップルの女のように、清涼感をも与えてくれる。頬を伝う一筋の汗も、それをハンカチで拭きながら歩く姿も、(たお)やかに映る。

「私服姿を見るのは初めてだけど……。似合ってるんじゃないか。……落ち着いた雰囲気が感じられるよ」

「……ありがとうございます……」

 俺が恥ずかしがって、まともに遥を見られずにそんな感想を述べると、その感情が伝播したのか、彼女もわずかに頬を上気させて俯きながらも、か細い声で礼を言った。

「……今日は髪、結んでるんだな。いつも下ろしてるから、ちょっと違って見える」

 長い髪は、今日は薄茶色のシュシュによってまとめられている。ポニーテールにされた黒髪は、いつもとは違う軌道で左右に揺れていた。

「はい、食べ物を扱っている場所に行くわけですからね……。それに、今日は少し気合を入れたんです」

 遥はシュシュを指さす。俺の視線もそこに向けられる。

「このシュシュ、普段は付けたりしないんですが……。今日はちょっと特別な日ですから、久しぶりに付けてみたんです。大切な物、でして。おかしなところはないですか?」

 あぁ、と俺は強く頷く。

 遥はしばらくそのシュシュを触っていたが、やがて微笑みを浮かべ、「行きましょうか」と言った。背後から見る遥の姿には、花が咲いているように思えた。時折吹く生暖かい風に、その花は揺れている。今日だけで見せてくれた、色々な表情を思い返しながら、俺は彼女を追った。



 店には程なくして到着した。自動ドアをくぐり中に入ると、当然のことながら、甘い香りが鼻孔をくすぐってくる。

「……すごい匂いだな……」

 だが、遥は俺の感想に聞く耳を持たずに店内を見回して、ケーキの姿を確認しては、感嘆のような吐息を漏らしている。俺の少し辟易した声も、届いていないようだった。

「お客様、すみません。只今大変混雑しておりまして、少々お時間いただくことになりますが……」

 そう言う店員の指示りに動き、しばらく備え付けのソファーに座って待つ。俺たちのほかにも数人、名前が呼ばれるのを待っている客がいた。

「……ちょっと時間、かかりそうですかね?」

 遥が小声で耳打ちしてくる。俺は「かもしれんな」という意味を込めて無言で頷く。

「……楽しみですね、ケーキ」

 早くも甘い空気を吸うのが苦しくなってきた俺に反して、遥は幼い子どものような無邪気な瞳を携え、店内に掲げてあるメニューの札を見ている。

「黒瀬君は、好きなケーキとか、ありますか?」

「……いや、これといっては。強いて言うなら、普通のショートケーキ。チョコとかチーズケーキも良いけど、やっぱシンプルなのが一番好きだな」

「……何か、黒瀬君らしいです」

 俺の答えに、ぷぷっと遥は笑う。

「どういう意味だ?」

「どうもこうもありませんよ。……ふふっ、本当に。他意はないです」

「絶対あるだろ……」

 ないですよ、と遥は釘を刺すように言い、また笑う。そんな遥の幸せそうな笑顔を見ていると、俺までも頬が緩み、自然と笑みがこぼれてしまう。まだ目的は果していないのに、大きな充足感を既に得てしまったように思った。

 そんな俺たちの前を、十人ぐらいの女子高生が燥ぎながら出ていく。恐らく、彼女らが多くの席を占めていたのだろう。間もなく、待っていた客の全員が呼ばれ、俺たちも席に着くことができた。

「じゃ、早速行きましょうか。それぞれ取ったら、戻ってきましょう」

 ケーキをのせるお皿を掴み、遥は立ち上がる。財布などが入っているのであろうバッグを手に、颯爽と人ごみの中に消えていった。

「……俺も行くか」

 席で一人待っていても仕方がないので、俺も甘い匂いの中へと入っていった。



 五分ほどで三つのケーキと一杯のコーヒーを取り、席へと帰る。遥はまだ戻ってきておらず、周りの喧騒から置いてけぼりにされている空間が、そこにぽつんと存在していた。さすがに先に食べるのは空気を読んでいないと思われかねないし、何より寂しい。遥が戻ってくるのを、何をするでもなく待つことにした。

「あっ、黒瀬君。すみません、待たせてしまいましたか?」

 それからさらに五分ほどで遥も戻ってきた。五つほどのケーキが所狭しと詰められ、すれ違う人々とぶつからないように、細心の注意を払って歩いていた。

「いや、そんなには。お気に入りのやつはあったか?」

 机の上に皿とコップを置き、ふぅー、と安堵の息を吐く。ショートケーキやロールケーキといった、ポピュラーなものはもちろん、ザッハトルテやティラミスなどの、なかなか食べることのできない、少し高価なものも交じっている。

「えぇ、まぁ。出来る限り載せたかったんですが、皿が小さすぎますね、これ。とりあえず五つだけ取ってきました」

 遥は少し不満そうに呟く。まだまだお代わりに行くつもりのようだ。

「そういう黒瀬君は三つだけですか。それもベタなものばかり……。いいんですか? (もと)取れませんよ?」

「……余計なお世話だ。まぁ、一度食べてみて、おいしかったらまた行くよ。とりあえず一皿目、食べてしまおうぜ」

 そうですね、と遥はうなずき、席に着く。いただきます、と手を合わせてから、早速俺たちは一口目を頬張る。

「あ、とてもおいしいです、これ」

 ショートケーキから食べ始めた遥は、そう言って破顔する。

「スポンジがふわふわで、クリームも甘すぎることなく、見事にマッチしてます。イチゴも……うん、強めの酸味が甘味と混じってとてもおいしいです」

 レポートでもしているかのように感想を漏らしながら、遥は早くもショートケーキを食べ終える。

「黒瀬君のチーズケーキはどうですか?」

「そうだな……。そんなに濃くなくて食べやすい……かな。俺は胃もたれするほど食べたいわけじゃないから、これぐらいが丁度いいよ。でも、一個と言わず、何個か食べられそうだ」

「へぇー……。一口、もらっていいですか?」

 言いながら、遥は手を伸ばす。白いクリームがちょこんと付いたフォークが、こちらに向けられる。

「やだよ。自分で取ってこい」

 俺は皿を持ち上げ、遥の手の届かない場所へと移動させる。遥はしばらく粘っていたが、やがて唇を尖らせて俺を睨んだ。

「……そもそも俺の食べかけのケーキが欲しいか? 花も恥じらう乙女だろう?」

 俺が懐疑的な目を向けると、遥は何を言っているかわからない、と言いたげなきょとんとした表情を浮かべた後、少し笑って答えた。

「別に黒瀬君の食べかけだから欲しい、ってわけじゃないですよ。よく言うじゃないですか、隣の薔薇は赤い、って。だから、お皿に乗っているチーズケーキに興味が湧いただけですよ。わたしだって異性の食べかけを食べたいと思うほど、変態じゃありません」

 遥は言い終わってもなお、くすくすと笑っている。俺は少し恥ずかしくなり、さらに残っていたチーズケーキを一口で飲みこもうとする。

「一気に食べると()せますよ……。それより黒瀬君、さっきはちょっと期待してたんですか? わたしと間接キス……とか」

 喉を通っていたケーキが戻ってくるような感覚に襲われる。げほげほと咳き込む俺に飲み物を差し出しながらも、遥は俺の反応を見て、楽しそうに微笑んでいる。

「……急にそんなこと言うな。こっちが驚くだろ……。つか、お前もそう思うように仕向けた部分はあるだろ」

「ん、まぁ、否定はしませんがね。でも、もし黒瀬君が食べることを許可してくれてたら、ちゃんとフォークが刺さっていない場所を取るつもりでしたよ? いくら間接とはいえ、黒瀬君が舐めたフォークが刺さった場所から取って食べるのは、ちょっと気恥ずかしいですからね」

 遥はオレンジジュースを啜りながら、頬をぽりぽりと掻いている。最後まで飲み終えると、「じゃ、お代わり取ってきます」と言い残し、立ち去っていった。

 元気だなぁ、と思いながら、俺は残っていたケーキをもそもそと平らげ、一つげっぷを吐き出す。出会った頃の彼女の冷たい雰囲気は、今でも鮮明に思いだせる。今、俺とケーキを食べている彼女は、偽物なのではないだろうか。仮面の下には、あの時の表情が今も残っているのだろうか。そんなことを、彼女の笑顔を思い出しながら考えていた。

「『願いの叶え方』、ねぇ……」

 家族連れや友人同士のやりとりが交わされる喧騒の中、俺は自身に投げかけられた問題を改めて思い返す。自分が世界から隔離されたように、周りの音が一瞬だけ聞こえなくなった。

「考え事ですか、黒瀬君?」

 お代わりのジュースとケーキを抱えた遥が、席に座って微笑む。「悩みなら聞きますよ?」とこちらが和むような柔らかな表情を浮かべている。

「いや、大丈夫。悩み事とかじゃないから」

 俺がそう答えると、遥もそれ以上入り込んでくることはなく、皿に盛られたケーキにフォークを伸ばし始めた。

「黒瀬君はもういいんですか? 荷物なら、わたしが見てますよ?」

「……じゃ、ちょっと行ってくるわ」

 行ってらっしゃい、という遥の声に送られ、俺は人ごみの中へと入ってゆく。とは言っても、もう甘いものは十分に食べたので、少ししょっぱいものも見てみようと思い、パスタなどが並んでいる場所へと俺は向かった。

「…………ん?」

 その道中、見知った姿が視界に入ったような気がした。パスタエリアに向かう、少し人が疎らになっているエリアを、小柄な影が横切っていった。人違いかもしれないが、あの姿は……。

「璃子か?」

 改めてその方向を確認してみるが、すぐに人で埋められた場所には、少女の姿はなかった。

「……ま、俺には関係ないか」

 璃子だって女子高生だ。友人とこういう所にも来るだろう。無関係な俺が、いちいち介入する義理もない。

 考えを頭の外に追いやった俺は、ナポリタンとピザを皿に取り、遥の元へと戻った。



  *


「あれ……さっきの……」

 既視感のようなものを覚えて、私は前を向きかけていた視線を再び元に戻す。そこに黒瀬先輩を見たような気がしたからだ。

「気のせいかな?」

 周りにたくさんのお客はおらず、その姿はよく見えた。やや長めに伸びた髪、どことなく気だるそうな猫背、平均よりは高い身長など、情報を包括すると、私の知っている黒瀬先輩と完全に合致するように思えた。

「でも、何でいるんだろう……?」

 少なくとも、先輩に彼女がいるという話は聞いたことがない。以前一緒にいた女性とは、そのような関係ではなさそうだった。とすると、一体誰と来ているんだろう? という疑問が思い浮かぶ。手元のケーキと、壁の向こうの席で待っているであろう友人とを見比べる。

「……ちょっと行ってみよっ」

 私は好奇心に抗うことができず、先輩と思しき人物が向かった方向へと歩を進めた。



「……やっぱり黒瀬先輩だ」

 すぐに追いついた背中を気づかれないように追いかけながら、私は自分の予想が的中していたことを確信する。近づいてみると、彼が纏っている雰囲気は、私が過去に感じたものと一緒だったことが分かった。パスタなどが盛られた皿を持ち、ゆっくりと自分のペースで歩いている。

「――――」

 黒瀬先輩が辿り着いた席には、一人の女性がいた。先輩はその人に向かって、少しだけ笑みを浮かべて何やら話しかけている。女性も笑顔で応じていた。彼らが話している内容は、周りの喧騒のせいで聞き取ることはできない。けれども、かなり親密な仲なんだろう、ということは、二人の態度を見ていれば一目瞭然であった。

「……でも、あの人、誰だろう?」

 私が知っている人ではないような気がした。同級生や先輩に、あのような女性がいたような記憶はない。もともと人数は多くない学院だ。全員とは言わずとも、ある程度、顔は覚えている。とすると、先輩の中学時代の友人だろうか。ならば、変なことは何もないのだが……。

 どうも違和感が拭えない。そんな私の目が、女性のある一点に吸い寄せられた。

「……あのシュシュ……」

 茶色のシュシュが、女性が頭を動かすと共に、小さく揺れる。それを確認した私は、すぐにその場を離れた。振り返ることなく、まっすぐに友人たちの待つ席へと帰る。途中、何度かケーキを落としそうになり、周りの人の鬱陶しげに見る視線を多く受けたが、それを気にする余裕すらも私には無かった。

 席へと辿り着いた私は、荒い息を漏らしながら皿を置く。置いてあったフォークに皿の端がぶつかり、耳障りな音がみんなの顔を歪ませる。

「どうしたの、璃子? そんなに慌てて……」

「部長にでも出会ったのー? あの人に会うと何言われるかわかんないしねー」

 心配したり(はや)し立てたりと、反応は三者三様だが、そのいずれも私の耳には届かない。どんどん早まっていく動悸の音に、私は耐えることしかできない。

 この世界が、私のために造られた理想の世界のように感じられた。そうでなければ、私にとって彼女の存在は、到底信じられるものではないだろう。小さな嬉しさと、巨大な恐怖によって蝕まれ始めた胸を、ぐっと服の上から握りしめる。鈍い痛みが、私の愚かさを改めて教えてくれるようだった。



 *


 自動ドアをくぐって外に出る。じめじめとした空気は相変わらず気分の良いものではないが、俺は甘い匂いが漂う空間から脱せられた喜びに身を任せ、大きく息を吸い込んだ。

「……たくさん食べちゃいましたね。黒瀬君も、満足してくれましたか?」

「あぁ、おかげさまでな。遥は見かけによらず、たくさん入るんだな」

 華奢な体躯のどこにあれだけのケーキを入れるスペースがあるのだろう。俺の想像以上に、遥は食べていた。

「甘いものは別腹、ってやつですよ。でも、黒瀬君の言うとおりですね……。体重とか不安です……」

 遥が苦笑混じりに言う。流れる一筋の汗が、彼女の鎖骨に沿って溶けるように消えていった。

「もし時間あるなら、ちょっと遠回りして帰るか? 腹ごなしにもなるぞ」

 ここから遥の家までは、歩くとニ十分ほどだろう。一時間ほど歩いてみよう、と提案すると、遥はすぐに了承してくれた。俺たちは車が絶え間なく走る市街地から少し逸れた、閑静な場所へと向かった。

 そこは、毎年七月七日に行われる『七夕祭』の会場となる広場の近くにある道だった。途中には立ち入り禁止となっている軽い傾斜の山道があり、それを辿れば、開けた場所へと到達するらしい。そんな話をしながら、俺たちは舗装された道を歩いた。空は相変わらず灰色で、少し前まで眩しく映えていた(りょく)(よう)も、心なしか暗く見える。ざわざわと木々を揺らす風は、柔らかな彼女の髪と服を、(さら)うように跳ねあがらせていた。

「改めて、今日はありがとうございました。わたしは今、とても幸せな気分です」

 何も喋ることなく歩いていた俺の耳に、遥の声が届く。そのお礼の言葉には、俺が初めて受ける想いが込められているように感じられた。

「どうしたんだよ、急に……」

 俺の言葉に、遥は無言で首を横に振る。吹き続けている風に、小さな白い花が揺れていた。

「…………黒瀬君は、将来の夢、みたいなものってありますか?」

 風の声と共に、遥の質問が投げられる。揺れる瞳には、滲んだ俺が映っていた。

「……正直なところ、わかんないな。そろそろ決めなくちゃならない、と思ってはいるんだが、自分に何ができるのか、今一つはっきりしなくて……。もしかしたら、しがない公務員になるかもしれないし、救いようのないニートになるかもしれない」

 遥は俺の答えを聞いても、大きな反応は示さなかった。俺を見つめていた瞳を落とし、前へ、前へと静かに歩くだけだった。

 前方から、ランニングをする男性が向かってきている。この地域で、毎年秋に行われるマラソンで配られる帽子を被っていた。すれ違い際には、男性の安定した呼吸音が聞こえ、涼やかな風が無言の俺たちに纏わりついた。男性の姿はすぐに世界の端に消え去り、再び生暖かい空気が流れだす。

「遥は、どうなんだ?」

 ただ単に興味があったのか、それともこの沈黙に耐えきれなくなっただけなのか、俺すらもはっきりとはわかっていない状態で問う。遥は待っていたと言わんばかりに目を大きく開けたが、それも一瞬のことで、すぐに表情を硬くした。そして、小さな声で語りだす。

「わたしには……一つだけ、夢があります」

 ただ一つ……。強調して言う。

「わたしの夢は一つだけなんです。それ以外には興味なんてないし、極端な話ですが、それが叶えば、わたしはこの身が消えてしまっても、きっと悔いることはないです。それぐらいに、大切で大きな夢なんです」

 俺は黙って聞いていた。それは果して叶うのか、とは訊けなかった。叶う、叶わないといった次元の話ではないような気がした。それはきっと、果てしなく大きな夢なのだろうと、遥の(げん)から感じとれた。

「以前、わたしには彼氏がいた、とお話ししたことがありましたよね。その時に、どうしてわたしが彼と別れる羽目になったのかもお話ししましたが……。覚えてますか?」

「いや……申し訳ない」

 確かあの時は、他校の生徒の邪魔が入った。再び訊くこともできず、結局その話のことは、俺には伝わっていなかった。遥は仕方がない、と言いたげに嘆息し、手短に話した。

「とある事件で彼は死んでしまったんです。わたしはその難を逃れることができたんですが……。やはり、彼がいないと寂しいんです。本当のわたしを理解してくれている、『本当の彼』ともう一度人生をやり直したい……。それがわたしの、唯一の夢です」

 一瞬ではあるが、涼しい風が通り抜けた。流れ続けていた不快な風を追い払うように、それは俺たちの横を過ぎ、ひゅぉぉ、と音を立てて去っていった。木々が揺れ、葉がざわめき、一つの唸り声をあげる。低く、遠吠えするように空に放たれる音に、俺たちの心音が共鳴する。彼女の音は、一層大きく響くことだろう。遥は下を向き、込み上げる何かに堪えるようにして、一歩ずつ踏み出していた。

「黒瀬君……わたしのこの夢……叶えてくれませんか?」

 遥は悲しそうな笑みを浮かべて、そんなことを言う。きっと、彼女なりの冗談なのだろう。夢であることは事実だが、他人の力だけで叶えられた夢に意味はない。たとえそれが、自身の手には及ばない、途方に暮れるようなものであったとしても、心の底から喜べる結果にはならない。俺は、遥の友人作りの際に感じたことと、全く同じことを思い出していた。

「……誰か、叶えてくれる人はいませんかね……? そんな人がいるなら、わたし、きっと何でもしちゃいます」

 潤んだ瞳は、じっとこちらを見据えていた。

 彼女の大きな夢を叶えてあげたい、と願う気持ちは、秒刻みで大きくなっているように感じられる。きっとその彼は、俺なんかよりも崇高な存在に違いない。俺と過ごす時間があるのであれば、大切なひとと、もっと貴重な時間を過ごしてもらいたい。そんな想いが込み上げる。

「なぁ、遥……」

 拮抗する想いを無理やり抑え込み、俺は言葉を絞り出す。呻くような声に、遥は少し俺と距離を取ろうとするが、俺は寄ることなく、自分の眼先に見えている道だけを歩き続ける。遥と出会って、今まで多くの時間を共有できたと、俺は感じている。その時間を瞬時に思い返すと、回数は多くはないが、願えばいいと思ったこと、実際に願ったことはあった。もし、この世界に俺と似たような力を持つ人がいたら……その人も、俺と同じような悩みを抱えたかもしれない。自分の行動によって、誰かが不幸になるかもしれないという可能性に悩みながら、誰かを幸せにするという行為について。

「遥。お前、初めて俺と話した時、『願いの叶え方』っていう話をしたよな。さすがに、覚えてるよな?」

 遥はこくん、と頷く。その時と同じ嘘を、俺は吐く。

「良い方向に考えるなら、だけどな……そんなものがあるのなら、世界中のみんなは幸せになれるはずだ。戦争や問題事は解決して跡形もなく消え去るだろうし、身近な話で言えば、俺のように周囲に馴染めない人間もいなくなる。それはとても過ごしやすい世界だろうが、残念ながら、今の世の中はそんな甘くない」

 俺が言わんとしていることは、きっと伝わっている。遥は、俺の方を一切見ずに、前方にだけ視線を向けていた。残酷だとわかってはいるが、最後に一言だけ発する。

「『願いの叶え方』……そんなものは存在しないんだよ」

 伸ばしていた足をひっこめ、遥はその場で静止する。俺が振り返ると、遥は俯き、静かな風に惑わされるか細い枯れ木の如く揺れていた。

「……………………………………………嘘」

「……え?」

 長い沈黙の後の一言は、俺を表すのに最適な単語だった。誰もいない道で、俺たちは静かに向かい合う。遥は両の拳を強く握りしめ、負の感情に体を震わせていた。

「そんなの…………嘘ですっ! わたしは信じません! だってっ……だってっ!」

 咽びつつも、遥は感情に身を任せて叫ぶ。飛んだ涙と唾が、灰色の地面を黒く染めてゆく。湿った風は彼女の涙を癒すことなくただ増進させ、彼女を透過し、無慈悲に消え去る。何度も何度も、それが繰り返されている。俺は黙って目を閉じる。悲しみに震える遥の姿など、見たくなかった。彼女をそうさせた原因が俺だと気付くと、すぐにでも謝りたい気分になった。

「……なぜ」

 俺の声は、彼女の叫びによって敢え無く上書きされる。

「だって……! だって…………だってぇ……」

 薄く目を開ける。

 弱まりゆく声と共に、遥は徐々に崩れゆく。その場で蹲ってしまった彼女に歩み寄り、手を差しのばすが、当然、それは払われる。一分ほど身動(みじろ)ぎせずに涙を垂らした後、遥はゆっくりと起き上がった。

「……落ち着いたか?」

 遥は俺の真横を通り、前に出る。身体は前を向いたまま、目だけをこちらに向け、忠告するように言った。

「……あなたは、過去の一部の記憶を持っていませんよね。その理由や内容を知りたいと思う気持ちはあるでしょう。ですが、まだあなたにその資格はありません。あなたは『現実』をまだ知らない。この世界における、本当の『現実』というものを目にしていないんです。それを知ることができたら、(おの)ずと分かるでしょう。わたしがあなたに問いかけたことの意味と……」

 一度、唇をきゅっと締めた。何かをかみ砕き、遥は囁く。

「……わたしが、あなたと共にいる意味が」

 そう言い残し、遥は去っていった。小さな背中はどんどん小さくなる。完全に見えなくなった後も、俺はその場から動かなかった。俺の頭を冷やしてくれるかのように、大粒の雨が降り出す。

 俺は無言で歩く。帰ったらシャワーを浴びて着替えればいい。濡れることなど、厭わなかった。髪の先から滴る水滴を見ながら、それをまるで涙のようだと思い、放置しておいた。

 大通りまで出ると、急な雨に急いで帰る人たちが走っていた。車も水を弾きとばし、忙しなくワイパーを動かしている。

 なぜだろうか。俺は一切急ごうとしなかった。そんな気力など、生まれない。彼女の言葉がずっと、俺の中で眠る『何か』に訴えかけているようだった。



 次の日、学校に遥の姿はなかった。その翌日も、翌々日も姿を見せなかった。

 彼女は、俺の前から姿を消した。

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