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暴力的に降り注ぐ日射しに焼かれながら汗だくでたどり着いた先は地域でも有名な進学校だった。校門に掲げられた学校の名前を見て、蛍が驚嘆の声をあげる。
「えっ!? ヒカル、ここに通ってたの?」
「んー……その、はず、なんだけど……」
顎に人指し指を掛け、小首を傾げるヒカルは歯切れの悪い返事をする。
「名前が全然違うんだよね。でも場所を間違えるはずがないし……」
「とりあえず中に入ってみる?」
「そうだね」
校舎の中に入ると、二段式のロッカーがずらりと並んでいるのが視界に入ってきた。ヒカルは真っ直ぐ一つのロッカーの前まで行くとそっと扉を撫でる素振りをした。
「僕の使ってたロッカー。……今は誰が使ってるんだろう」
靴を脱いで、段差を一段あがる。靴下一枚隔てて触れた床は冷たく、火照った足裏に心地良い。ロッカー前の何も置かれていないスペースにはヒカルの身長よりも大きい窓ガラスが八枚並び、そこから校庭が見えた。
「お昼休みになるとこのスペースで購買部のパンが売られるんだ。結構美味しくてさぁ、僕はいつもメロンパンを買ってた」
「メロンパン好きなの?」
「そういうわけじゃないけど、ここのは好きだったな」
そう話しながらヒカルは左手方向へ進み、階段を昇る。ぺた、ぺたと蛍の足音だけが誰もいない空間に響く。階段を登りきり、右手に並ぶ教室と教室の間の廊下を進んで、突き当たりの部屋の前でヒカルが立ち止まった。
「図書室。ここ好きだったんだ」
ヒカルはそのままドアをすり抜け図書室の中に入ってしまった。慌てて蛍も後を追ってドアを開ける。
図書室には誰もおらずしんと静まり返り、時折開いた窓から部活動に励む生徒たちの声が聞こえてくるだけだった。
「ここが僕の指定席」
指を指したのは窓際の一番奥の席。蛍は窓際まで行き、指差された席に座った。開いた窓から凪いだ風が入り、蛍の結った髪を優しく揺らす。
「ヒカルはどんな本を読んでたの?」
「んー……なんだったかな」
「本、好きなの?」
「そういうわけじゃないけど、ここは好きだった」
「本好きじゃないのに、図書室に通う人っているんだ」
誰もいないことをいいことに普通に会話をしていると、突然貸し出しカウンターの奥からガタッと音がした。しまった、と思いながら息を止める蛍。
「図書室では静かにしなさい?」
奥から出てきたのは、この学校の教師と思わしき女性だった。銀の縁取りがされた丸メガネを中指であげ、蛍の顔をまじまじと見つめるその女性は不思議そうな顔をした。
「あら? あなたうちの生徒じゃない……わよね?」
よりにもよって、先生と遭遇してしまうとは。勝手に入り込んだことを怒られてしまうかもしれない。蛍は肩をすくめて縮こまる。その横でヒカルが聞きこぼしそうな小さな声で呟いた。
「――百田さん」
彼が百田さん、と呼んだ女性はこちらに向かってきた。
「学校見学かな?」
「あ……まぁそんな感じです」
どうやってこの場を切り抜けよう、と困った蛍はちらっとヒカルの顔を見上げる。目が合った彼はちょっとはにかんだような顔で頬を掻いた。
「この子、僕の初恋の人」
――はつこい。
その言葉に頭をガンと殴られたような衝撃を受ける。この人が、ヒカルの初恋の人。確かに愛らしい人だ。メガネの奥の瞳は丸く黒目がちで、薄い唇は小さな花びらのようだ。肩まで伸びた黒髪は絹のように滑らかで、玉虫色に光り輝いているように見えた。
あぁ、ヒカルはこんな人が好きなんだな。私とは真逆の、全然違うタイプ。当たり前だけど、私と出会う前のヒカルは、私の知らない生活を営んでいたのだ。ヒカルも普通の人と同じように恋をしていたのだ。
「ここね、私の指定席なの」
そう言って向かいに座る彼女の声で蛍は我に返った。
「どうしてこの学校を受けたいの?」
頬杖をつきながらにこにこと屈託のない笑顔で彼女が尋ねる。
「えーと……知り合いがここの学校に通ってて」
「あら、何年生?」
「いえ、もう…………卒業、してて」
「そうなんだ。私もここの卒業生なの。通ってた頃と学校の名前は変わっちゃったんだけどね」
頬杖をつく彼女の左手の薬指に銀色のリングが光っているのが目に留まった。それと同時にヒカルがまた小さな声で独りごちる。
「……指輪」
それを聞いた蛍は不躾な質問をぶつける。
「……結婚されてるんですか」
「え? あ、あぁ、先月入籍したばかりなの」
照れながらも穏やかに答える彼女はこの世の幸せを全て詰め込んだような笑顔だった。
そうか、生きていればヒカルも結婚して家庭を築いていてもおかしくない年齢だ。目の前の幸せそうな彼女と、自分と変わらない子どもの姿のヒカルを見比べ、そこに横たわる時間の流れの大きさを感じた。