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「(ヒカルが亡くなってから、そんなにも長い月日が経っているの――?)」
驚きとハルカの威圧感で何も言えなくなってしまった蛍にぷいと背を向け、ハルカは再び階段を降り始める。このままでは彼女を怒らせたままだ。焦った蛍はその背中に声を投げる。
「あ……ッ、あの! すみません、お兄さんとは友達というか、知り合いというか、何というか……。とにかくお兄さんを知ってるのは本当なんです!」
その必死の声を聞いたハルカがぴたりと立ち止まる。話を、聞いてくれるか……? そう思った蛍の耳に飛び込んできた言葉は意外なものだった。
「私は知らないわ」
「え――」
再び言葉を詰まらせる蛍。
知らない、はずが、ないでしょう。
そう頭の中では思っているのに、言葉にならない。咄嗟にヒカルを見ると、ハルカを見つめたまま無表情で立ち尽くしていた。
「事故で子どもの頃の記憶がないの、私。だから兄がいたことは、覚えていないわ」
「じ、事故って……?」
「この階段から落ちたらしいわ。……兄と一緒に」
それはきっとヒカルが死んだ事故のことを言っているのだろう。それが原因で記憶がない……? ヒカルのことは一切覚えていないということなのだろうか。
「もういいでしょ。じゃあね」
ハルカは冷たく蛍を一瞥すると、階段を降りそのまま足早に行ってしまった。そして蛍はそれをただ茫然と見送ることしかできなかった。同じくただ茫然とその様子を見ていたヒカルが、突然ぽつっと小さく呟いた。
「知らない、かぁ……」
はっと我に返り、ヒカルを見るとやはり無表情の彼がそこにはいた。何の感情も読み取れないヒカルの顔。悲しくは、ないのだろうか。辛くは、ないのだろうか。
「ハルカ、すっかり大人になってた。もう十八歳か。あんなに綺麗じゃ、さぞかしモテるんだろうね。兄としては複雑だなぁ」
ぽつりぽつりと話すヒカルの言葉を静かに聞く。ヒカルからしてみれば自分より歳上になった妹との再会なんて、突然タイムスリップしたような感覚だろう。
「けど、僕のこと、覚えていないって。あはは……」
さっきと同じように力なく笑うヒカル。その目はやはり笑ってはいない。そんな彼がいたたまれなくて、蛍は勇気を出して声を掛ける。
「……無理して笑わなくたっていいんだよ」
「笑うしかないじゃないか、こんなの」
ヒカルが目を伏せて言う。どうして彼は、自分の感情を外に出そうとしないのだろうか。こんなの普通の人なら笑えるわけがない。
「悲しいなら、泣いたってていいんだよ」
ヒカルの表情がほんの少し動く。眉間にシワを寄せて、険しい表情。そうしてヒカルから低く小さい声で発せられた言葉は、拒絶の色を纏っていた。
「…………泣けたらとっくに泣いてる。ケイに僕の気持ちなんてわからないよ」
そう、かも、しれない。
自分が死んだこと、大切な人に自分を忘れられていること、それを目の前の現実として突き付けられること。そんな経験、今まで一度だってありはしない。恐らくこれからだって一生経験しないだろう。でも、それが辛いことだというのは死んだことのない自分にだって想像できる。だから、せめてその感情の切れ端だけでもいいから共有させて欲しい。
「……だったら、もっと教えてよ。ヒカルのこと……!」
震える声で蛍が言う。鼻の奥がつんとするのを感じる。視界が雨の日の窓ガラスみたいに滲む。
「……なんで蛍が泣くの……?」
それはヒカルにとっては青天の霹靂。しかし、ぼたぼたと大粒の涙を流す蛍の姿は、泣けない自分の代わりに泣いてくれているようにも見えた――。