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ヒカルの冷たい手に連れられ、またあの泉まで来てしまった。
夜とは全く雰囲気の違う泉。昨日は真っ暗で何も見えない闇の中にただ蛍の明滅する光だけが浮かぶ空間だったが、朝に照らされた今は鮮やかな深い緑と太陽の白い光に彩られている。小さな泉は底が見えるほど透明で、木陰から差し込む光が水面に乱反射しており、蛍はその眩さに目を細めた。二人はその深緑の中に腰を掛け、話を始める。彼の話を要約すると、こういうことだった。
『蛍火送り』とは死んだ魂を生まれ変わらせる為の儀式。『蛍火送り』を行うには決まった手順がある。まずは契約の口づけ。口づけを介して、契約者の生きた魂の一欠片を分け与えて貰うのだ。これをしないと、死んだ魂は何処へも行けない。生まれ変わることはもちろんだが、物理的な移動も出来ない。さっきヒカルが蛍の家まで来ることが出来たのは、どうやらこの口づけをしたおかげらしい。彼曰く「蛍の魂の跡を追ったらあそこにいた」ようだ。
次に死んだ魂をこの世界に縛り付ける鎖を断ち切らなくてはいけない。例えば、何かやり残したことがあるだとか、遺された人が心配だとかそういうことだ。これにはヒカル自身思い当たることがあるようなので、きっとすぐクリアできるよ、と自信ありげだった。
そして次に、死んだ魂がこの世界に戻ってくる理由を見つけなくてはならない。ただ単純に「生まれ変わりたい」というだけでは駄目で、生まれ変わるための明確で強い意志が碇のような役割を果たしてこの世界に戻ってこられるのだと。これが一番難しいんだよ、とヒカルは真面目な顔で言った。
「生まれ変わりたいのに理由なんていらないよね。死んだままなんて誰だって嫌だよ」
そう寂しそうに呟く彼にはまだ明確で強い意志がないのだろうか。
最後に、この全ての手順は一週間の間に行わなければならない。
「どうして一週間なの?」
あまりにも短い時間に驚いて、蛍は目を丸くして尋ねる。
「ホタルの寿命だからね」
「『蛍火送り』が出来なかったらヒカルはどうなるの?」
「いなくなるだけだよ」
至極当然でしょ、とでも言いたげに平然と言い放つ彼に対して、蛍は自分の中にもやっ
とした感情が生まれたのを感じた。自分の命のことなのに、どうしてそんなに他人事のように振る舞えるのか。それと同時に、出会ったばかりの幽霊に何故こんな苛立ちを覚えるのかも分からなかった。
「それでさ、蛍はどうする?」
「え……どうするって?」
「昨日は、その……強引に契約させちゃったから。嫌だったり、面倒臭かったりしたら別にやめてもいいよ?」
でもここでやめたら、目の前のこの青年は一週間後には消えてしまう。確かに強引だったり勝手だったりもするけれど、一度関わった人の命をそんな簡単に投げ出せる訳がない。出来るか出来ないかはわからない。けれど、ここでじゃあやめた、なんて軽々しく言えるほど薄情ではないのだ。
蛍はぐっと手を握り締め、ヒカルの目を真っ直ぐ見つめながら言った。
「やるよ」
二人は電車に揺られていた。田舎の昼間の電車はガラガラで、ポツポツと人が乗り降りする程度。二人が話をしていても気に留める人もいなかった。
「ヒカルは切符買う必要なかったんじゃない?」
「でも無賃乗車はよくないよ」
「だって幽霊だったら皆から見えてないんでしょ?」
「見えてなくても、僕はここにいるの」
そうだけど。その切符代を出したのは私だからね。ケチだと思われたくなかったので口にこそ出さなかったが、へらへら笑うヒカルに呆れ顔で溜め息を吐く。
ヒカルといると、どうも幽霊といる気がしない。本人にもあまり幽霊の自覚がなさそうだし、これじゃただのデートみたいなものだ。
デート、というワードが頭に浮かんだ瞬間、蛍の頬がぽっと勝手に赤くなった。いやいやいや、幽霊とデートって漫画や小説の世界じゃあるまいし。頭をふるふると振って煩悩を消し去る。
煩悩との闘いを繰り広げる蛍をよそに、ヒカルは車窓から見える景色に夢中であった。
「わぁ……。ここからあんなにはっきり富士山が見えるなんて、生きてる時は知らなかったなぁ」
流れる景色の中に小さく、しかし確かな存在感の富士山を見つけて嬉しそうに笑う。
「ヒカルはさ、生きてる時はどんな人だったの?」
彼の無邪気な笑顔を見ていたらその人となりが知りたくなり、蛍はそれとなく尋ねてみた。蛍が自分に興味を持ってくれたことが嬉しかったのか、ふふふ、と目尻を下げて笑うと彼は自分の話を始めた。