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翌朝、蛍はベッドに横になりながらぼんやりと昨日の出来事について考えていた。
結局誰だったのだろう、どうしてあんなところに一人でいたのだろう。すごくきれいな人だったな……まるで妖精みたいな。明日も会いに来て、と言っていたけど行くべきなのだろうか……。
「ケイーッ!!」
蛍の思考を遮るようにして、外から大きな声がした。窓から身を乗り出してみると、昨日一緒に川原へ行った子どもの一人、宗太がこちらを見上げていた。外に出てこい、というように手招きをしている。
「こんな朝早くにどうしたの?」
部屋着のまま急いで外に出た蛍は寝癖を気にしながら宗太に尋ねた。
「お前、昨日森で何してたの?」
「え?」
わざわざそんなことを聞きに来たの?と言おうとして蛍は言葉を飲み込んだ。なんだか宗太の機嫌が悪そうに見える。
「お前あの後ずっと変だったろ。ぼーっとして、何聞いても上の空だし」
「そ、そうだっけ?」
「そうだよ! お前があんな顔してるの初めて見たから……その……何かあったのかと思って」
す、鋭い……。
蛍はごくりと唾を飲んだ。宗太は蛍の一つ年下で、物心ついた時からずっと面倒を見てきた幼馴染みだ。蛍は彼を弟のように可愛がっていたが、最近は思春期のせいだろうか、蛍のことをうっとおしそうに遠ざけることが増えていた。そんな宗太が、わざわざ家までそんな話を聞きに来たことに驚きつつ答えあぐねていると
「言えないことなのか?」
と苛立つ声でさらに追及してきた。
「言えないっていうか、別に何もないし……」
思わず目をそらす蛍に、宗太が片眉をぴくりとさせた。あぁ、怒っている。ひしひしと宗太の静かな怒りを感じながら、何故そこまで怒られなければいけないのかよくわからずに蛍は自分の足元を見つめていた。
「そうかよ」
宗太は低くそう呟くと、どしどし怒りを込めた足音で去っていってしまった。その後ろ姿を見ながら、蛍は何となく本当のことを宗太に言ってはいけない気がしていた。
――午後6時。蛍は昨日と同じ森にいた。森に入り、歩みを進める度に鼓動が速くなる。彼が本当に自分を待っているかわからない。けれど彼の声と言葉を繰り返す度に蛍の胸の奥のむずむずした感覚が全身に広がり、会わずにはいられなかった。この気持ちが何なのか確かめなくては――。
「来てくれてありがとう。ケイ」
ホタルの群れの中に、彼は居た。
ヒカルの姿を視認した途端、蛍の心臓が聞いたこともないくらいにドクンと飛び跳ねる。
「今日は一人で来られたんだね」
「うん」
まずはこの青年がどこの誰なのかを確かめたい。口を開こうとした瞬間、ヒカルが問い掛けてきた。
「ホタルって本当は何だか知ってる?」
「……?」
質問の意味がわからずに、何も答えられずにいるとヒカルはふっと微笑み優しい口調で続けた。
「昔の人はね、ホタルの光を死んだ人の魂だと信じていたんだ。だから人魂が飛んでる、なんて言って恐れられていたんだよ。今はそんな話、誰も知らないけど」
「……ホタルは死んだ人ってこと?」
「そう。ホタルの世界では決まりがあってね。『蛍火送り』をすることが出来たホタルは人間に生まれ変わることが出来るんだ」
そこまで話すとヒカルは蛍の左手をきゅっと掴んだ。
「だから、君を呼んだんだ」
蛍は掴まれた左手が熱くなるのと同時に顔の血の気が引いていくのを感じた。今、目の前にいるこの青年はつまり……。
「……あなたは幽霊ってこと?」
「まぁ、ざっくり言うとね。ケイが『蛍火送り』をしてくれれば、僕はまた人間になれる」
「ほたるびおくり……」
蛍は湧き上がる恐怖心を抑えながら、震える声で初めて聞くその言葉を繰り返した。
「僕たちが人間に生まれ変わる為の儀式みたいなものかな。ケイ。少しでいい、君の時間を僕にくれない……?」
ヒカルの薄茶の瞳が蛍の瞳を覗き込んだ。吐息がかかるほど顔が近い。こんなに男の子と接近するのは生まれて初めてだ。
「……どうすればいいの?」
どきどきとうるさい心臓を抑えるように、冷静を装って尋ねる。すると蛍の唇に冷たく柔らかい何かが音もなく押し当てられた。
――ヒカルの唇だった。
一気に蛍の顔は紅潮し、音も聞こえなくなるほど耳まで充血する。
気付けば蛍はヒカルの手を振りほどき駆け出していた。韋駄天のごとく街を駆け抜け、自宅に転がるように飛び込む。今のは一体? いや、これは悪い夢だ。眠ろう。目覚めればいつもと同じ朝が待っているはずだ。自室に駆け込みベッドにもぐった。
「ケイ、怒らないで」
「!?」
ヒカルの弱々しい声がする。
「僕はもう一度生きたいんだ」
目覚まし時計のピピ、ピピ、という電子音がする。朝7時。蛍はうっすら目を開けた。やがて目覚まし時計はけたたましいベルの音に切り替わり、慌ててベルを止める。窓の外では絵の具で塗り潰したような真っ青の空に太陽が燦々と輝いている。
「夢……?」
蛍はゆっくりと上体を起こし、目をこする。そうだ、昨日はお風呂も入らずに眠ってしまったんだっけ。昨日と同じ格好の自分に気付き、風呂場へ向かう。
「昨日のあれは何だったのかな」
シャワーを浴びながらぼんやり考える。夢、だったような気もするけど、あの唇の感触はまだしっかりと残っている。あれが私のファーズトキスか……幽霊と? 馬鹿げてるな……。もう忘れよう。
テニスの部活着に着替え、ラケットを背負い、外に出る。
「おはよう、ケイ」
背後から投げ掛けられた、聞き覚えのある青年の声。蛍の顔がみるみる青ざめる。
「ヒカル……」
恐る恐る振り返ると、そこには地べたに座りながらひらひらとこちらに手を振っているヒカルがいた。朝っぱらから幽霊に待ち伏せされて戦々恐々としている蛍をよそに、彼は呑気な笑顔を浮かべている。
「昨日ぶりだねぇ」
「な、何しに来たの? ってか何で家知ってるの?」
「何って、蛍火送りの契約をしたんだからきちんとやってもらわなきゃ」
ヒカルは立ち上がり、蛍の目の前まで歩みを進める。
朝なのに幽霊って出るの? 契約って何のこと? 結局私は何をすればいいの? ていうか、この人昨日、私にキ……キスしたんだよね…………。
そこまで考えると、昨夜の冷たくも柔らかい彼の唇の感触を思い出して、意識が遠のきそうな程の恥ずかしさが込み上げてきた。
ヒカルは蛍のそんな様子を見て、ふふっと笑うと昨日と同じように左手を握ってきた。
「ここで立ち話もなんだし、あの泉に行こうよ」