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「ほ、ほ、ほーたるこい」
夏の蒸した風に乗って子どもたちの声がする。空は赤橙から藍色へグラデーションになり、白い月が笑ったように昇っている。
「ねぇ、その歌なぁに?」
「ホタルを呼ぶおまじないだよ」
目をきらめかせて尋ねる子どもたちに年長の蛍は答えた。
近所の川辺でホタルが見られるらしい、と子どもたちの間で噂になり好奇心旺盛な数人とその保護者役の蛍とで見に行くことになったのだ。
「ようし、行くぞー!」
「僕が先頭だよ!」
初めての夜の冒険に興奮する子どもたちを見守るように、蛍は一番後ろをついて歩いていく。
「今の時期に、こんな場所でも本当にホタルなんて見られるのかなぁ……」
ぽそりと呟きながら蛍は辺りを見回した。大きな川はゆるやかに蛇行しながらさらさらと流れている。川を渡った向こう岸には鬱蒼と茂る森があるが、蛍たちのいる岸辺は比較的開けており河岸もきれいに整備されているので、ホタルが飛び交うような幻想的な雰囲気は全く感じられなかった。
「お前は夢がねえな」
蛍の呟きを聞いていた幼馴染みの宗太が、呆れたような声で言う。
「だって成木川のホタルは七月までだったよ? もう八月だって半分も終わりそうなのにいるのかなって……」
「ねぇケイ、あっち側も見に行ってみようよ」
子どもの一人が対岸を指差し言った。
「いいけど、危ないから私からはぐれちゃだめよ?」
「やったー!!」
半ば奇声のような声をあげ、ゴム鉄砲でも発射したかのように勢いよく走り出す子どもたちを追い掛けながら蛍は橋を渡った。対岸に辿り着くと、背丈の高い木々が生い茂る森がすぐ目の前にあるせいか、空が狭く感じられた。
「ホタル、いねぇな」
「俺、あっつぃ。川入ろうぜ!」
子どもたちの興味の対象はコロコロと変わるもので、あっという間に川での水泳大会が始まってしまった。
ふぅ、と一息ついて近くの岩場に腰をかける蛍。まったくもう、自由なんだから……と小言を呟いていると目の端にチラチラと動く何かを捉えた。
その何かはふわふわと漂いながらチカ、チカチカ、と規則的に点滅を繰り返す緑色の光だった。
「ホタル……じゃないか」
謎の光はホタルよりもずっと大きく、力強く点滅している。その光を見つめているうちに蛍は胸の奥がむずむずするような、不思議な気持ちになりその正体を確かめたくなった。子どもたちの方を振り返ると、クロールの競争に夢中で蛍のことなど全く眼中にない様子だ。
「宗太! 私、ちょっとここ離れるね」
蛍の一つ年下で子どもたちの兄貴分でもある宗太に声を掛ける。
「え? なに? 便所?」
「違うわよ! もう!」
少し赤面しながら反論しつつ、子どもたちを見ていなければ、という責任感よりも好奇心が勝ってしまった自分に少し驚きながら蛍は光を追い掛けて森に入った。
森の中はひんやりとした空気が漂い、息をする度に濡れた草木のにおいが蛍の鼻の奥を湿らせる。完全に夜の闇で閉じられた森に蛍は一瞬怯んだ。しかし人がよく立ち入るのだろうか、雑草が生い茂る中になんとなく道のようなものがある。これなら帰りも迷子にならないな、と安心して蛍は歩みを進めた。光は蛍と一定の距離を保ちつつ、こっちこっち、と呼ぶように森の奥へ飛んでいく。すると突然ひょい、と脇にある雑草たちの中に光が入り見失ってしまった。
「あっ……ちょっと待って!」
蛍は慌てて雑草をがさがさと分け入り光を追う。私どうしてこんなに必死なの?と思った瞬間に蛍の目の前がぱっと拓けた。
「えっ?」
小さな泉と無数のホタル、そして青年の姿が目に飛び込む。こんな泉があるなんて知らなかった。これ本物のホタル?というか……
「誰?」
頭に浮かんだ疑問が口をついて出てしまい、しまった、と蛍は慌てて口を押さえた。青年は何も答えず蛍をじっと見つめている。真白な肌に茶色の髪と瞳。右目の下に泣き黒子があり、薄い唇の端は少しあがっており微笑んでいるようにも見えた。真っ黒に日焼けした蛍とは正反対な女性らしさすら感じる不思議な青年に見つめられ、蛍は黙って見つめ返すことしか出来なかった。
「ヒカル」
ふと青年が口を開いた。
「え?」
「僕はヒカル。君は?」
「け、蛍」
どきまぎしながら答える蛍にふっとヒカルは笑った。
「ケイ、かぁ。いい名前だね。ねぇケイ。ひとつお願いがあるんだけど聞いてくれないかな?」
「……? 何……」
ヒカルのお願いを聞こうとした瞬間に、遠くから蛍を呼ぶ声が聞こえた。
「ケーーイーー!!」
「どこだーーッ!!」
子どもたちだ。蛍が戻ってこないことを心配しているのだろう。
「わ、私……帰らなきゃ!」
踵を返す蛍の背中に向かってヒカルがこう言った。
「ケイ、明日も僕に会いに来て」