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8 ひったくり

8 ひったくり


「待って! 返して!」


 追いかけようと立ち上がった。なのに足がもつれてまた転んだ。


 幾人かの男の人が逃げていく男を追いかけていく。床に手をついたまま呆然と見送っていた。


「大丈夫? あなた日本人ね?」


 日本語だ。見上げると、アジア人の女の人がいた。ネイティブな発音、そして独特のなめらかな印象で、日本人だとわかった。


「怪我は? 頭をぶつけたんじゃない?」


 ただ日本語であるというだけなのに、ものすごくほっとした。涙ぐんでしまうくらい。


「だいじょうぶです。頭はぶつけませんでした」


 答える声は自分でもびっくりするくらい、か細かった。


 連れはどこかと聞かれ、「一人旅なんです。連れはいません」と答えたら驚かれた。


 女の人はアツコ・マクガヴァンと名乗った。今日は日本に留学中の娘さんを迎えに来たのだそうだ。


 追いかけていった人達が戻ってきた。そのうちの一人はミセスの旦那さん。ダビデ像が少し老けて少し膨らんで少し後退したようなおじさん。悔しそうに、彼は逃げた。角を曲がったら彼の姿は消えた。ニンジャのようにいなくなってしまったと、ちょっとだけ英語なまりの日本語で言った。


 それから警察に行った。ミセスが付き添って、通訳をしてくれた。本当に助かった。


 英語が聞こえなかった。名前や年齢を尋ねる文章なんて、さんざん習ったはずなのにわからない。音にしか聞こえないのだ。右から左という言葉があるけれど、まさしくそんな感じ。ミセスが口にする日本語だけが、かろうじて耳にひっかかった。


 名前を尋ねられ、「日野、絵真です」と答えると、ミセスがにっこりした。


「あら、エマちゃんっていうの。うちの娘と同じだわ」


 年齢を十二歳と答えると、目を丸くした。


「ティーンエージャーだと思ってたわ。大きいのねえ」


「よく言われます」


 たぶん、日本人の奥さんと、イギリス人の旦那さんという組み合わせだったから。


 だから、つい、口から出てしまった。


「お父さんがイギリス人なんです」


 ミセスは納得したように頷いた。


「それもうちと同じなのね」


 心臓がトクトク騒ぎだした。オトウサンガイギリスジンナンデス。オトウサンガイギリスジンナンデス。はじめて口にした。


 入り口のほうで声がした。振り返ると、新たに入ってきたお巡りさんの手にあったのは、


「あたしの鞄!」


 間違いない。さっきひったくられたやつだ。駐車場のすみに放り出してあったらしい。


 失った物はなんだと聞かれたので、コロすけ鞄のほうから所持品リストを取り出し、ひとつひとつ確認していった。財布、携帯電話、大事な書類を入れたキティちゃんのミニファイル、落書き帳、ガイドブック、地図、機内で使った歯ブラシやタオル……


 お母さんの世話焼きは期待できなかったから、旅行の本を読みまくり、必需品リストを作り、自分で荷造りをした。おかげで確認はすぐにできた。ミセスが「本当にしっかりしてるのねえ」としみじみ呟いた。


 奇妙な話だった。無くなったものがなにもない。財布のポンドも円も手つかずのまま。パスポートもあった。携帯電話もあった。


 だけどなにも起きなかったのと同じにはならない。あたしの心に取り返しのつかないなにかが残った。


 取り戻した鞄を手に警察を後にした。その頃になってようやく、突き飛ばされた衝撃でどこかに吹っ飛んでいた普段の自分が、おずおず戻ってこようとしていた。

 そして自分が不在だった間の不甲斐ない自分に、顔が熱くなるような思いをしている。

 何やってるんだ。ばかみたい。小さな子じゃあるまいし。何も言えず、何も聞こえず、ただおろおろしているだけだなんて。

 迷惑かけてすいません情けないですこのくらいのことで、と頭を下げたあたしに、ミセスは驚いた顔をして、「いいえ。ちっとも迷惑ではないし。外国で鞄を引ったくられるというのは、大変なことですよ。取り乱して当たり前なのよ」と、学校の先生みたいな口調で言った。


 いやだめだ。それじゃだめ。他の子ならばかまわない。でもあたしはだめなのだ。しっかりしないと。一人でちゃんとできないと。


 頑なに首を振るあたしを、ミセスは何か言いたげな顔で見ていた。口に出しては、「さあ行きましょうか。迎えの人が来ているかもしれないし」としか言わなかったけれど。


 元いた場所に、ミスターとあたしと同じ名前の娘さんが立っていた。


 こちらのエマさんは、大学生くらいかな。日本人がハーフと聞いて想像する姿そのもの。明るい色の髪、めりはりのきいた顔立ち、男の人をも見下ろしてしまいそうな長身。


「たいへんな目にあったね」


 友達みたいにハグしてくれた。


「ロンドンはね、本当ならそんなに治安は悪くないの。バゲッジ紛失トラブルならともかく、ひったくりなんて珍しいの」


 よほどあたしの顔に、もう帰りたいと書いてあったのだろう。


「お願い。イギリスを嫌いにならないで」


 と、あたしの瞳を覗き込んだ。


 少し考えて、うなずいた。


 まだ判断しない。もっと知らなくちゃいけない。これがイギリスのすべてじゃない。


 現に、こんなに親切にしてくれた人がいるんだから。


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