6 エアシック
6 エアシック
ウトウトしたり、ゲームをしたり、映画を見たり、食事をしたり。いいかげん時間の感覚が無くなりかけていたところに入国カードが配られた。
長い長い永遠に続くかと思われた搭乗時間、ちっくりちっくりちゃんと減っていたのだ。
いつのまにか着陸三十分前。機内がにわかに慌ただしくなった。
ガイドブックの「入国審査」のページを探して、首っ引きで必要事項を埋めた。
滞在先住所を記入する欄があったので、肩掛け鞄を探って四つ折りにした紙を取り出した。空港まで迎えに来てくれるお母さんの友人から来たメールをプリントアウトしたものだ。
本文は日本語と英語が併記してあった。
「こんにちはエマ。わたしの名前はセシリア・フェルトンです。シンディと呼んでください。あなたに会えることを楽しみにしています」
住所と携帯の電話番号とメールアドレスの下には、添付されたミス・シンディの顔写真。
オフィスらしき場所、ミルクティー色の長い髪をひとつに束ねた女性、机の上にはデスクトップのパソコンと日本にもあるコーヒーショップのテイクアウト容器。
お母さんの古い友人だというわりには、この人とずっとコンタクトをとっていたのはおじさんで、このメールもおじさんのアドレス宛に来た。いつどこで知り合ったどういう知り合いなのか、ついにお母さんは教えてくれなかった。
どんな人だろう、シンディさん。無事に会えるといいけれど。
飛行機を降りたらすぐに最後の関門「入国審査」が待ち受けている。備えるべくガイドブックとにらめっこした。
なのに目が文字を追わない。集中できない。不安のせいだろうか。違う。これまでずっとおしとやかだった飛行機が、着陸間際のいまになってにわかにグレはじめたのだ。ここが空の上であると否応なしに意識させられた。 乗り物酔い飛行機バージョン、英語でなんて言うんだっけ。エアエイク。違うって。エアシック。ベルト着用サインが出ているからと我慢していたけれど、どうにも酸っぱいものがこみあげてきて、ここで吐くよりはとよろめきながらトイレに向かった。
すると、アンさんがゴチャゴチャっと何か言うのだ。よくわかんないけど、トイレを使って欲しくないらしいのはわかった。どうしよう。
途方に暮れて席に戻りかけたところ、
「あんたなあ。具合悪いときに遠慮なんかしとったらあかんやろ」
小気味よい関西弁が耳に飛び込んできた。いつのまにか英語モードに切り替わっていた耳に、ひどく新鮮に響いた。
あの子だった。いつの間にかそこにいた。同じ飛行機だったのか。
彼女はぐいとあたしの体を振り向かせ、問答無用という勢いで背中を押した。アンさんがごちゃごちゃ言いかけると、あたしの背中をばんばん叩いて「スピュースピュー」と繰り返した。とたんにアンさんはぎょっとした顔になり、急いでトイレの扉を開けてくれた。
駆け込んで、噴き出すみたいに吐いた。扉を閉めるゆとりすらなかった。周辺の席の人、お聞き苦しい音を聞かせてしまってごめんなさい。さっき「ビーフかチキン」で「チキン」を選んだ機内食のトマト煮込みも、苦労して注文したコーヒーも、全部出してしまった。あーあ。
口をゆすいでトイレを出ると、さっきの女の子はいなくなってた。周囲の座席にも見あたらない。お礼を言いたかったのに。
よろめきながら席に戻ると、アンさんが来て何か言った。最初がウッジューで最後がウォーターだから、状況からして「お水をお持ちしましょうか」だろうと思い、「イエスプリーズ」と答えた。紙コップに入ったお水を持ってきてくれた。「さんきゅー……」一気に飲み干すとすこしだけ楽になった。あと出来ることは深呼吸しかない。
「イクスキュズミー」
という声がした気がして横を向いた。
すると、隣の席のプリンセスが何かを差し出していた。受け取ると、手のひらに収まるくらいの、小さな布の巾着だった。プリンセスは手を鼻に当て、吸い込む仕草をした。嗅いでみろということらしい。
鼻に当ててみると、体を通り抜けていくような爽快な薄荷の香りがした。気がついたら脳貧血になりそうな勢いで匂いをむさぼっていた。
そのうち軽い衝撃があって、飛行機は無事ロンドンに着陸した。
シートベルトを示すランプが消えて、周囲がばたばたと立ち上がり始めた。
プリンセスに、「サンキュウ」とポプリを返そうとすると、あげるわという仕草をされた。
「サンキュウ。サンキュベリマッチ」
嬉しかった。帰りの飛行機が不安だったから。肩掛け鞄のポケットに、もらったポプリを慎重に収めた。
通路がたちまち人であふれた。
牛の歩みで進みながら、ふと振り返るとプリンセスは座席に座ったまま。周囲の混雑ぎなど知らぬ顔で窓の外を見ている。人がいなくなってから優雅に退席するのかな。うん、この人に人混みは似合わない。ていうか、エコノミーも似合わない。なんでもっと前の座席にいないんだろう、なんてね。